第五回 オボロ
一部の登場人物の名前を変更しました。
それに伴い、(見つけた箇所だけですが)文章を修正しました。
仕様およびウッカリで、フリガナが不自然な場合があります。
妻と息子と共に過ごした、最後の四月の終わり。
「今年は花見に行けなかったな」
「仕方ないよ。桜はもう散っちゃったんだから」
オレの言葉に、妻の千晴はそう言った。
「年中咲いていればいいのに」
「桜は散るからいいの。ずっと咲いてたら詰まらない」
「そんなもんか?」
「儚いからこそ綺麗なんだよ」
「蚊や蝿もすぐに死ぬけど、綺麗に思ったことはないぞ」
そうからかうと、「変なものと一緒にするな」と千晴は笑った。
今オレは、十文字と柾と一緒に華道の『鳳凰双蓮華流』とかいう流派の生け花の展示会が行われている一流ホテルへと向かっていた。なんでも、この鳳凰双蓮華流生け花の展示会は定期的に行われているらしく、今回は次期家元と門下生の作品を展示しているのだとか。一応、そんな感じの説明を十文字たちから聞いたのだが、興味のない分野だったためかほとんど頭に残らなかった。
当然だが、趣味や道楽なんかで生け花の展示会に行くわけはなく、この流派の次期家元の妹が、オレ達の駆除対象……つまり夢幻亜人らしいのだ。
「どうやって見つけたんだ?」
トンネルを走る車の中で、オレは十文字らに尋ねた。
「調査班がどうやって調べてるかなんて知らない」と運転している十文字がぶっきら棒に答えたあと、後部座席に座っていた柾が説明を始める。
「先ほども説明しました通り、今回の標的はこの鳳凰双蓮華流の次期家元・山添瞳の妹、山添愛・二十五歳です」
「生け花のお偉いさんか。生け花なんて、変なトゲトゲに花を挿しているだけで、どれも同じに見えるんだがな」
オレがそう言うと、「お前には芸術を理解するだけの心は無さそうだからな」と十文字が吐かしやがった。
だが、オレも大人である。一瞬焚かれた怒りを抑えるために、大きく息をついた。
「で、とにかく、調査班が頑張って調べた結果、その姉妹の妹さんが化け物だったんだな」
「そうだ」と十文字だ。そして続ける。
「妹の愛のほうは、病気で家に引き籠もっている場合が多いらしい。だから今回の展示会にも恐らくは来ていないだろう」
「なのに展示会に行くのか?」
「そうだ。愛は病人とはいえ、たまに展示会に現れることがあるらしい。今回はそれ狙いだ」
「まあ、オレも研究所で閉じ込められているよりは、はずれでも外に出して貰えるだけ有り難いから、別に居なくていいけど。それで、その愛って奴は、どんな奴なんだ?」
「ああ。最近、性格や作風が変わったらしい」
「元はどんな感じだったんだ?」
「妹の愛は自己顕示欲が強いというか、かなり派手な感じだったらしい。だが、今は地味になって来ている。逆に姉の瞳は、以前は上品で落ち着いた感じだったそうだが、今は随分と派手な感じになっている」
「真逆じゃないか」
「無論、芸術家だから生きていれば作風が変わることは珍しくないだろうが、今回の件は夢幻亜人の影響なんだろう」
ここから十文字に代わって柾が説明する。
「最近、姉の瞳はSNSやブログなどを頻繁に更新するようになり、その内容も派手だったり過激になって来ています」
「ブログとかしないから分からないんだけど、どんな感じに過激なんです?」
そう尋ねると、柾が携帯電話を渡してくれた。画面には瞳のSNSのページが表示されている。
「駄々ッ子が褒められたい一心で、自分の言動を誇張したり、自慢気に振る舞うような感じだ。本人は楽しいんだろうが、正直……見ていて呆れる」と十文字は吐き捨てる。
画面には金髪でやけに派手な女性が、口を大きく開けて笑っている写真が掲載されていた。
「まさか、この金髪?」
「そうだ」
偏見かも知れないが、華道の次期家元と聞いていたから、まさか派手で金髪の厚化粧だとは思わなかった。よく見ると、金髪の中に縦の筋を通すかのように赤色の髪が何筋か通っている。さらにSNSを見てみると、彼女が過度に露出した衣装を着ていたり、ホストらしき男性らに囲まれていたり、大勢の人たちとワイングラスを持ってはしゃいでいたり、挙げ句には男性とイチャついている写真もある。そしてそれらを自慢する文章が連ねられていた。
「最近は異性関係に対しても開放的になっているようです」と柾だ。
「標的の、妹のほうはどうなんです?」
「以前は、現在の姉のようにSNSやブログを多用していたようですが、現在はインターネット上での活動は一切していないようです。一応は鳳凰双蓮華流の公式ウェブページに、近況とそれに関する写真が掲載されている程度で、それもかなり少ないんです」
柾が携帯電話を取って操作し、今度は妹・愛のSNSのページを見せてくれた。最終履歴は何年も前の日付だが、やはり姉と同様に派手な写真があった。違うところといえば、髪がまさかのピンク色で、所々にある筋が水色といった具合である。これが夢幻亜人としての姿だと言われれば信じてしまうかも知れない。
「血は争えなかったか……」とオレは苦笑する。
気付けばオレ達を乗せた車はトンネルを抜け、青く澄んだ空の下を走っていた。
目的地のホテルに着く。一階の大広間で、例の展示会が開かれていた。オレは初めて知った流派だったが、この鳳凰双蓮華流とかいう一門は明治時代から続く流派で、華道の世界では名の知れた存在らしかった。政財界の要人や有名芸能人といった連中が、パーティなんかを開くときは、この一門が花を飾り付けるのも珍しくないのだとか。十文字と柾は、スーツで決めて堂々と、オレは例の和装で内心怖じ気づきながら会場へ入る。関心のない世界だからどう表現していいのか分からないが、豪華絢爛というか、派手というか、毳毳しいというか、そんな感じに彩られた生け花がずらり並び、お高そうなスーツやドレス、和装をしたお金持ちだと言いたげな方々が何十人と集まり、それでいて楽しげに生け花を鑑賞なさっている。
「今回も次期家元の作品は素晴らしい」
「上品でいて絢爛豪華。虹色の絹糸で織った天衣無縫というべきか」
「いやあ、全くです。学生時代のお淑やかな趣も素晴らしかったが、最近の彼女の作風は、大人の女性の艶やかさを感じさせる。未来を担う次期家元に相応しい作品です」
金持ちらしきオッサン連中が、次期家元の作品の前で群れて称賛している。オレもその作品を観てみるのだが、ただ色取り取りの派手な花を束にして、テキトーに剣山に挿したようにしか見えなかった。ただ、毳毳しいだけである。
オレは十文字たちのほうを見る。二人とも観賞しに来ている訳ではないのだが、ほかの客から見て不自然ではない程度に作品を眺めていた。その二人が揃って生け花を見る姿はまるで、育ちのいい恋人同士にも見えて来る。それに比べて、自分は非常に場違いな感じがして、さっさと帰りたい気持ちになる。
十文字たちがオレのほうへやって来る。
「どうやら、妹のほうは来ていないらしい」と耳打ちして来た。
「じゃあ、さっさと帰るか」
オレは小さく言った。
「すぐに帰ると変だから、あと十分くらいは花を見て帰るぞ」
うんざりだ。
「あと、そんなに嫌そうな顔をするな。少しは興味があるような顔をしろ。元役者だろうが」
そう言われると益々嫌になってきた。まあ、仕方がない。十分だけ我慢してやるか。
十文字の視線が動き、釣られてオレは視線を追った。その先には、やけに派手やかな赤い着物を着た女性が立っている。
「次期家元の山添瞳だ」
「あれが?」
十文字に言われ、オレは彼女を見た。胸元まである、輝く金色の髪をした女性だ。
「本当に派手な奴だな」
オレがそう言うと、「けど、天才だそうだ」と十文字は返した。
オレは遠巻きながら次期家元の作品に目をやり、周りの作品と比べてみるが、華道の天才の基準がよく分からない。どこがどう違うのか疑問に思いながら、オレの視線は山添瞳に戻る。彼女はお金持ちらしき方々に囲まれて談笑している。ふと、彼女がこちらを見て目が合った。いや、違う。少しずれている。彼女の視線が捉えているのは、オレではなく十文字だ。彼女が周囲の方々に会釈しながら逃げ出すと、十文字のほうへやって来る。そのとき気付いたのだが、彼女は二十七歳とは思えないほど厚化粧で、目元が蘞い紫、睫が虫の触覚のように長くてなんだか恐ろしい感じさえした。
「いかがですか?」
次期家元がオレではなく十文字に尋ねた。というか、オレは視界に入っていないようだ。オレはそっとその場から距離をおく。
「ええ。こういうのは初めてでしたが、どれも美しくて感動しました」と、十文字は取って付けたようなことを言った。
「それは光栄ですわ」
彼女は頬笑んだ。そして「どれを気に入られましたか?」と続けた。
「どれも素晴らしいのですが、特に素晴らしいのは次期家元の作品だと思います。私は凡人なので大した表現は出来ませんが、豪華絢爛で燃える焔の美しさがあると同時に、詫び寂びというか深い森を思わせる静寂の美も感じる。いや、こんな有り触れた言葉では語れないものを感じました」などと、十文字は意味不明な褒めかたをした。
だが、瞳はよほど嬉しいのか、手で口元を覆って笑っている。だが、笑って出来た目元の皺が、厚化粧と噛み合って実年齢より一回りは老けているように見えた。
「それと、ほかにも素晴らしいのは――」
彼女が上目遣いで十文字を見る。
「――山添愛さんの作品です」
それを聞いた彼女の目から笑みが消えた。口元はまだ笑っているが、明らかにさっきと比べてぎこちない。
「うん。なるほど」
山添瞳が、妹の作品に目をやった。派手やかな姉とは対象的に、妹の作品は地味である。いや、オレでも上品な趣を感じるのだから、地味というのとは違う。周囲が派手だから見劣りこそすれ、ほかにはない落ち着いた雰囲気を湛えた作品なのだ。
「華道に触れるのは初めてですか? あれは一見、華道に見えるのかも知れませんが、目の肥えた者からすれば、とても華道と呼べる代物ではありません」
「そうですか? 落ち着いていて良いと思ったのですが」と十文字が言うと、彼女は嫌らしい含み笑いを浮かべた。
「あんな、藪に囲まれた墓地に咲く彼岸花のような下品で不吉で穢らわしいもの、新人の門下生でも作れません。下劣で尾籠、下賤な上に不教養で醜い。育ちが卑しく魂が穢れているからこそ作れる、失敗作の見本のようなものですわ」
妹の作品に対して言う言葉とは思えなかった。
「ほう。まだまだ勉強不足だったようです」
「いえ」
山添瞳の手が、十文字の手に触れて優しく握る。
「私で良ければ、教えて差し上げますわ」
上目遣いをして妖しく頬笑んだ。十文字は困惑した様子で、彼女に握られていた手を優しく払い、自分の頬を掻く。
「いや……それより、妹さんの作品に対して、随分厳しいのですね」
「妹に興味がおありで?」
「いえ、そんな事はありませんが、少し厳しいような感じがしましてね」
瞳が不敵に笑う。
「事実ですから仕方がありません」
「話に聞いただけで、実際に作品を見てはいないのですが、かつて妹さんの作品は、今の貴方の作品のように華やかだったと伺いましたが」
「どなたから聞いたのか存じ上げませんが、随分と失礼なことを仰る人もいるのですね。私の作品の華やかさは美ですが、彼女のはただ毳毳しいだけ。逆に、以前わたしは落ち着いた雰囲気を香らせる作品を作っておりましたが、今の彼女の作品は、地味という意味では似ているかも知れませんが、彼女の作品は、私の思い描いた詫び寂びとは程遠い、上品ぶっただけの偽物の美を纏っただけの雑草。月はどれだけ輝いても、太陽と同じ光を放つことは出来ないのです。それに、しょせん月は太陽のお零れが無ければ輝けないのです」
「貴方がいるから、妹さんが評価されていると?」
「そこまでは申しておりませんが、彼女が家元ではなく一般の家庭に生まれていれば、評価されることは間違いなく無かったでしょう。花は美しいが、その命は短い。だから私たち華道家は、美しくも儚い命を最大限美しく彩らなければ成りませんが、彼女の作品はその花の美しさも命も軽視し侮辱……いや、冒涜すらしているのです」
「なるほど」
どうやら想像以上に姉妹仲は悪いらしい。
「宜しければ、一緒に食事でもしながら――」
「あいにく今日は時間が無くて……」
「そう仰らずに……」
十文字の視線が、一瞬彼女から逸れた。その先にいた柾が二人に近寄って「ゲン」と声を掛けた。山添瞳はきょとんとしたが、すぐに柾を睨む。
「どなたです?」
明らかに嫉妬した声だ。
「妹ですよ」と十文字が言った途端、瞳から嫌悪に満ちていた表情が消えて、「どうも」と優しく笑って柾に挨拶する。その変わりようが不気味だった。
柾が十文字の腕を掴んで瞳から離す。そしてヒソヒソと何かを話すと、十文字は「急用が出来たようなので、今日は帰ります」と瞳に告げた。二人が振り返る拍子に、十文字が目で帰るぞとオレに合図を送って、その場から去った。少し間を置いてオレはふと瞳のほうを向いたら、すでに別の同年代の顔立ちの整った男に話し掛けて仲良くお喋りしている。さっき十文字にしていたように、誘惑するような上目遣いをしている。彼女の手を見ると、もうその男と結ばれていた。オレは呆れつつも、周囲に飾られた毳毳しい生け花を何気なく見ながらその場を去った。
あの日はすでに桜の見頃は過ぎていて、花はまだ咲いているのだが、枝には葉が付き始めていた。
「これはこれで綺麗だと思う」
妻の千晴はそう言って笑っていた。自目にブルーシートを敷いて、オレ達はそこに座って桜を見上げた。だが、生まれて初めての花見である息子の佳明は桜なんかには目もくれず、花より団子と言いたげに唐揚げとソーセージを夢中になって頬張っていた。そしてそれらが無くなると、渋々ながら卵焼きとおにぎりを食べ出すのだ。そんな息子を見て妻は「来年は多めに用意しないとね」と笑っていた。
ノックの音で、オレはハッと気付いた。
オレはベッドの上で横になっていた。扉が開いて十文字がこちらを見る。
「なにを寝ている。さっさと行くぞ」
オレは背伸びをして、偉そうな十文字に付いて行った。
いつもの自動車の助手席に乗り、運転席には十文字、後部座席には柾が乗っている。車が発進してトンネルを走る。
「察しは付いているけど、どこへ行くんだ? 山添家か?」
オレは取り敢えず聞いてみた。
「そうだ。人の出入りが落ち着いたからな。今夜、山添愛に化けている夢幻亜人を仕留める」と十文字だ。
「ようやくか。けど大丈夫なのか? 家の中で戦うのなら、山添家の家族に見つかる危険もあるんじゃないか?」
「普通の家ならそうだが、山添家の屋敷は広いから暗殺なら問題はない。それにほかの家族が住む母屋とは違って、彼女は離れに一人で住んでいる」
「そうなのか?」
「ああ。食事の用意とか、まったく交流が無いわけではないが、夜中になればほぼ断絶される」
「それで本当にばれないのか?」
「なんせ広い敷地だからな。庭だけでプロが使うような野球場やサッカー・スタジアムなんかを作っても、まだ余裕があるそうだ。自然のまま残している私有地を含めればもっと広い」
「そんなに広いのか!」
「まだ全国に別荘まであるぞ。外国にも何軒かあるらしいしな」と十文字。
「お金持ちって凄いな」
オレはそう呟いて窓の外を見た。トンネルを抜けるとすでに日は暮れていた。
目的地に着く。山添家の屋敷は郊外に建っており、その周辺にある幾つかの山を含めて山添家の私有地らしい。これほどのお金持ちであるために警備も万全ではあったが、オレ達はその網を掻い潜って屋敷の庭に侵入する。松に石燈籠、池には錦鯉といった絵に描いたような日本庭園に生えた灌木の陰を移動しつつ、山添愛のいる離れに近づく。
「調査班の情報によると、標的はこの離れに引き籠もって滅多に出て来ないそうだ」
十文字が言った。
「今回は人が近くにいるため、可能な限り早く仕留める。そして重要なことだが、誰かに発見された場合、その者も殺害する。いいな」
そう言うと十文字は例の注射をオレに打った。オレは袖を脱いで夢幻亜人になる。オレ、十文字、柾の三人が離れに突撃する。戸を開けると布団が敷かれており、しかも少し膨らんでいる。中に愛がいるのだ。
「なんの用です?」
愛が寝たまま言った。
「お前を駆除にしに来た」と十文字だ。
愛が上半身を起こしてこちらを見る。病人に化けているのに相応しく、痩せこけて肌の色も青白かった。姉と違い、髪は黒く長くて恐らくは腰の辺りまであるだろう。
「いずれ来るとは思っていたが、貴方がたは私を殺してどうなさるつもりか」
「どうなさるって、勝手にヒトの縄張りに入り込んだ不審な生き物を駆除するのは当然だろう」
「我らが、あなたの言う縄張り……この世界に来れたのが偶然だとしても、いずれは自在に行き来が可能になる。いま我らを殺しても無意味なのでは?」
「そうかも知れないが、謎の危険生物がこの世界にいるのなら、やはり安全のためにも駆除しなければならない」
「安全のために危険生物を駆除すると?」
愛は含み笑いをした。
「この星を荒らし回った危険生物の安全のために、よその世界から来た生物を駆除するだなんて、笑い話にしか聞こえない。ヒトの安全のためというが、ヒトが生き続けなければ成らない理由とは何なのでしょう? 逆にヒトが滅ぶとどうなる? 私が思うに、単に地球上の一生物が滅んだに過ぎないばかりか、地球の癌というべき生物の絶滅は、飼育下にある畜生はともかく、野生の生き物からすればむしろ有益なのではないでしょうか?」と続けた。さらに言う。
「話をもっと簡単にしましょう。ヒトそのものではなく、仮にこの国が滅んだらどうなるか。世界から日本が消えて無くなり、日本人が全滅しても、特になにも変わらない。経済などで協力関係にある国は痛い目を見るかも知れないが、どうせすぐに立て直す。それが無理ならそれまでの器しかない国だったということ」
「なにが言いたいんだ?」
オレが言った。
「この世のあらゆる営みが無意味なのです。あした太陽を失っても宇宙は何も変わらない。地球上の生物が死滅するだけで、ただそれだけ。どうって事はない。命だろうと人生だろうと、虚無のごとく空しく儚い夢なのだ。思い出してみよ。自身のこれまでの生きた記憶を顧みて、そこには何があった? 周囲の皆が幸せにでもなったのか? 貴方がたも幸福だったのか? それがこの世界になにを芽吹かせ、なにを咲かせ、なにを実らせた? もし、自身を省みて、自分に文化や文明に種族、さらには存在や時空さえも超越しうる価値を見出せるのであれば、おぞましい程に愚かなのか、見苦しいほどに自惚れが強いかのどちらかだ」
「下らん話はその辺にして、死んでもらうぞ」
十文字が愛に銃口を向けた。
「ここで戦うのはやめて欲しい。あの子が遺した最後の作品がある」
掛け軸の手前に生け花があるのを、オレは見つけた。作られてかなりの時間が経過しているのか、すでに枯れていた。
「この世の全てが儚く無意味なのでは?」
十文字が冷たく言う。
「あの子は愛らしい良い子だった。だが、愛は誰からも愛されなかった」
愛は生け花を見る。隙まみれだったが、オレ達は攻撃できなかった。
「この離れの裏にある山……いや、丘と言ったほうが正しいかも知れません。その頂上には花畑があって、そこで戦うのがお互い良いでしょう」
オレ達は目を見合わせた。十文字が外の様子を見たかと思うと愛に言う。
「よし。すぐに移動する。さっさと来い」
「ちょっと待って下さい。……せめて着替えはさせて下さい」
愛が言った。彼女は寝巻である。
「まさか逃げたりはしないだろうな?」
「そんな愚かなことはしない。私はもう、ここには居たくないんです。さあ、女性の着替えを見るほど失礼なことはありませんよ」
「五分だけ待ってやる。出て来なければ放火する」
十文字が言い残して、オレ達は外に出て戸を閉める。少し待つと茜色をした着物姿の愛が離れから出て来た。
「そんな戦いにくそうな格好で大丈夫なのか?」
十文字がそう吐き捨てると、「これはあの子が、山添愛が気に入っていたものだ」と愛が返した。
愛に導かれるままにオレ達は移動する。十文字と柾は罠を警戒し、時たま誰かと連絡を取っていた。丘の上に着くと彼女の言った通り、一面は夜にも関わらず花が咲き誇っていた。丘の中央からやや外れたところに桜の木が立っていて、その傍らには大きな池もあり綺麗な満月が映っている。
――そうか。今日は満月か。
思わずオレは空を見上げた。空を覆う星々も月に負けじと輝いている。
「それでは、覚悟はいいな」
十文字が愛に言った。彼女は目を閉じたかと思うと、オレ達を見つめて言う。
「ところで、貴方がたは私、というか山添愛という人間ついて調べたことはありますか?」
「もちろん調べている。名家の落ちこぼれだ」
十文字は挑発のつもりなのか、そのように返す。
「落ちこぼれね。確かにそうだ。愛は可哀想な娘だった。愛は、優秀な姉を持つダメな妹の典型だった。凡人と比べれば、追随を許さぬほどの才能はあったが、より優れた姉がいた。幼い頃から天才である姉と比べられ、いくら努力しても愛の心は報われず褒められもしなかった。愛は単なる『予備』だった。強い劣等感が現実から目を逸らさせて不良となって心を埋めようにも埋めることは叶わず、再び華道を志した時には大病に侵されてしまう。この時にはすでに愛は、家族からすれば失敗作のお荷物であり、邪魔者だった」
「なんの話だ?」
十文字の言葉に、愛は小さく笑った。
「貴方がたは、愛のことを無数に存在する一個人としか見ていないだろうが、我らが人に成り代わるときは、相手の心まで写し取り、その周囲の人間の心までもを理解する。なにに喜びを感じ、なにに悲しみを覚え、なにに怒りを表すのか。周りからどう思われているのか」
「だから?」
「あまりにも哀れではないか。貴方がたのいう落ちこぼれの心を理解し、その痛みと苦しみを感じることが出来たのは、落ちこぼれの仲間であるはずの人間から駆除対象とされる生き物だったなんて。愛の家族がもし、愛がすでに死に、代わりに別の生物が成り代わっていると知ったところで、あの家族……山添家の者たちが愛のために心を痛めるとは思えない。もっとも、愛の死に対して世間体だけは気にするだろうがな……」
夢幻亜人の愛は続ける。
「私は貴方たちとの戦いに勝とうが負けようが、私は山添愛を止めるつもりだ。もしもだが、仮に貴方たちが私を殺すことで、かげろう幻に価値を見出すのなら、山添愛という哀れな娘がいたことは忘れないで欲しい。この世には肉親にさえ死を悲しまれないどころか、消えて無くなることが喜ばれる者がいて、また自らの存在が消えゆくことを喜ぶ者がいる。全く、貴方がた人間は命を軽んじているのか尊んでいるのか、まるで分らない」
愛の肌の色が淡い紫に変わる。目尻には大きな鴉の足跡を思わせる皺のような明るい橙色の模様、口元にも同じ色をした法令線のような模様が浮かび上がる。夢幻亜人に変身したのだ。
「標的は【№9】のオボロ。触れたものを風化させます」
柾が言った。愛……いや、オボロの足元に咲く花々が枯れたかと思えば、砂塵ように散っていく。オレ達は思わず身構えた。
「なにも怯えることはない。私と出会ったことで死んでいった愛は、体が朽ちていくというのに『ありがとう』と笑ったぞ」
十文字と柾がオボロに向かって銃撃するが、彼女は器用に光弾を回避する。オレ達はそれぞれ左右に走り出す。十文字と柾が容器から液体を出しているのにオボロが気付いた。
「油か?」
「そうだ」
二人が油に火をつけるとオボロを囲うように燃え広がる。さすがのオボロも火を風化させることは出来ず、池の近くに身を寄せる。オレは先端に油を付けて燃え上がる鈍器で、オボロに殴り掛かった。彼女はさっとそれを避けたかと思うと、オレに触れようと近づいて手を伸ばすので、オレはそれを躱す。
「早く私を倒さないと、火事に気付いた誰かが駆け付けるぞ」
そう言ってオボロは笑った。と、突然横に跳ねた。柾の撃った光弾が、オボロの腕に命中して弾かれたのだ。腕を押えつつ、オボロはすぐに立ち上がって辺りを見回すが、オレ達を囲う焔の外から光弾が連続してオボロに襲い掛かる。オボロも走って光弾を躱そうとするが、オレは羽虫でも追い払うように燃え盛る鈍器を振って彼女に攻撃する。オレが鈍器を振り下ろすと、その勢いで一瞬だけ動きが止まる。その隙を突いて、オボロが鈍器の柄を掴んだと同時に鈍器が朽ちて首が落ちるように、燃えている先端が落ちてしまった。オレは慌てて彼女から離れたのと同時、十文字と柾の銃撃がオボロを襲った。全身に光弾を受けた彼女の体から緑色の血が迸る。彼女は悲鳴を上げることをせず、ただしゃがんだのだが、すぐに銃撃を避けるように身を屈めながら移動する。オレは立っていた桜の木を掴んで引っこ抜いた。時期が過ぎているせいか、もう桜の花のほとんどが散って葉が成っている。
オボロが焔の輪の中から、火の弱い場所を見つけて地面を転がるように飛び込んだ。と、近くに十文字がおり、オボロは奴と目が合った瞬間に立ち上がると、そのまま抱き付こうと飛び掛かったが、焔の死角からの柾の銃撃を受けて体勢を崩して倒れた。その隙に十文字はオボロから距離をとる。
夜空が赤く輝いた。見上げたオボロの目には、日輪のごとく燃え上がる桜の木を天に翳しながら飛び上がるオレが映ったはずだ。葉とわずかに残っていた桜の花びらは焔を抱いて降り注ぐ。
オレには彼女の表情がしっかりと見えた。
彼女は座ったまま防御の態勢も取らず、ただ小さく笑った。
なぜかは分からない。
ただオレは、やるべき事をやる。
オレは真ッ赤な桜の木を、全力で彼女に振り下ろした。蝿叩きで虫を潰すような感じである。地面とぶつかった瞬間、彼女の力なのだろうか、赤い血のような波紋が花畑に流れて、燃え盛る砂塵が辺りに波打った。
火はすぐに消えてしまった。彼女の最期の姿であるキノコだけは生えている。オレは先端が無くなった木をその場に捨てた。見回すと十文字と柾が傍にいた。二人がつけた火はまだ燃えている。
「もう消防車がこちらに向かっているらしい。すぐこの場を去るぞ」
十文字がそう言っているあいだに柾がキノコを回収する。オレは十文字に注射を打たれて人間の姿に戻った。腕を袖に通して言う。
「彼女の家族は、彼女……山添愛を捜すだろうか?」
「どっちにしろ、家族と山添愛が会うことは永遠にない」
十文字はそう一言だけ言った。
「……虚しいな」
何気なく空を見上げる。星々に囲まれていた満月は暗い雲に隠れてしまっていた。