『祭壇』
だが屋敷において使われていそうな部屋は食料庫や調理室、それから執務室と寝室だけだった。
そこ以外は埃を被っていて、足を踏み入れた形跡はない。
――ずいぶんと、寂しい生活を送っていたのね。
大勢の人を呼んでも収容できそうな大部屋も、広い食堂も埃がつもっていた。男はこの屋敷で一人、何を考えて生活していたのだろう。
遥か昔にはもっと賑わっていたであろう屋敷の内装に、セシリアはそんな思いを抱いた。
「……後は、あなたのいた地下室ですが……大丈夫ですか?」
こちらを気遣うアベルに頷いて返す。暗闇に閉じこめられなければ平気だと考えたからだ。
そして向かった地下室の床は、あいかわらず大量の埃に埋め尽くされていた。セシリアの足跡以外には埃の上には何もない。
棚に置かれている瓶にも埃がつもり、触れた形跡すらない。
――結局、とかげはいなかったのよね。
元はといえば、とかげがいるからと地下室に向かうことになった。だが捕まえる手段がわからず戻ったところで、扉が閉められているのに気づいたのだ。
もしもひたすらとかげを探していたら、閉じこめられていることにしばらく気づかなかっただろう。
そこで、ふとした疑問が湧いた。
――どうして、ここだったのかしら。
窓のない部屋は他にいくらでもあった。鍵のかかった頑丈な扉もあれば、使われていない倉庫もいくつもあった。
それなのにどうして地下にセシリアを閉じ込めたのか。
松明で棚を照らしているアベルを横目に、セシリアは地下室を見回す。これといって変わったものはない。とはいっても、本来地下室がどのようなものなのかをセシリアは知らないが。
――そういえば、棚を動かせないとか考えていたのよね。
檻と松明を持っている状態では棚を動かしたりしてとかげを探せないと、あの時のセシリアは考えていた。
だが今のセシリアは何も持っていない。試しにと棚を軽く押して――違和感に気づいた。
――ずいぶんと、軽いのね。
あっさりと横に動いた棚に思わず押していた手を離す。これなら、両手が塞がっていた状態でも体を使えば押せたかもしれない。
何事も試してみなければわからないものなのだと一人感心していたセシリアの横から、アベルが動いた棚を見て息を吐いた。
「……どうやら、まだ地下があるようですね」
アベルの視線を追うと、色の変わった床がセシリアの目に飛びこんできた。
そして降りた先で見つけたのは、岩を削り取った部屋のような場所に置かれた祭壇だった。
「……出入口は三つ。普段は別のところから出入りしていたのでしょう」
部屋の中を見回したアベルが言う。
「これは……悪魔召喚の儀式でもしていたのですかね」
そこまで広くないとはいえ、部屋の床は赤いインクで描かれた陣で埋め尽くされている。祭壇の上に置かれた燭台は綺麗なもので、二つの燭台に挟まれるようにしておかれた器とナイフは松明の光を反射するほど磨かれているのがわかった。
「……あなたの状態を調べるものは何もなさそうですが……」
だが、それだけだ。本のたぐいは何もなく、悪魔にまつわるものを調べるものはこの部屋には何もなさそうだった。
――悪魔のことは悪魔に聞くのがいいんじゃないかしら。
アベルの空いた手に文字を綴る。きょとんと目を丸くしているアベルを横目に、セシリアは祭壇に近づき、置かれたナイフで自らの指を一本、切り落とした。
「何を……!?」
古来より、悪魔の召喚には供物が――血と肉が必要だと言われている。
痛みを感じないセシリアにとって、血と肉はいくら捧げても困らないものだ。
だからためらうことなく指を切り落とし、器に置き――そこでセシリアは、首を傾げた。
――ここから、どうすればいいのかしら。
セシリアは悪魔の召喚に詳しいわけではない。さてどうしたものかと悩んでいると、アベルの手がセシリアの手を掴んだ。
「何をされているのですか! 止血は……必要なさそうですが……どうして指を落とそうだなんて……」
セシリアが血を流したのは首を落とされたあの時だけだった。血が一滴も零れない指先を見て、アベルが困惑したような顔をセシリアに向ける。
セシリアはそれに苦笑を返す。この体が自分のものとは違うのだと、アベルは初めて理解したのだとわかったからだ。
首を落とされた時にアベルは幽閉され、その様を見ていたわけではない。話には聞いていただろうが、目の当たりにするのとでは違ったのだろう。
――私の体のことはいいの。どうせ何も感じないから。
触れていることはわかる。だがそれだけだ。切り落とした指も、しばらくくっつけていれば元に戻るだろう。
生きている彼らとは明らかに違う体に、セシリアは苦笑を深めた。
「ですが、それでも……このような真似はおやめください……」
顔を伏せて言うアベルに、セシリアは瞳を揺らす。どうせすでに死んでいる身だ。この体を案じる必要はどこにもない。
――ねえ、アベル。本当に気にしないで。どうせ
死んでいる体だ、と綴るはずだった文字はそれ以上続かなかった。
『屍を案じるとは人とはおかしなものだ』
耳慣れない第三者の声が部屋の中に響いたからだ。




