『無事』
あれからどのくらい経ったのか。物音一つしない地下では時間の確認のしようがない。
どれほど待とうと男が戻ってくることはなく、セシリアは膝に顔を埋めて、ただじっと静寂と暗闇に耐えていた。
――なんで、こんなことに。
抱いた思いは、ウェンディが現れてからずっと抱いていたものだ。
親しかった者がセシリアのもとから離れた時も、身に覚えのない罪を咎められた時も、牢に入れられた時も、そして処刑の日にも、同じことを考えていた。
だが結局、セシリアの疑問が晴れることはない。
ウェンディの所業は欠片もない記憶にない出来事が理由で、男の行いも、セシリアには預かり知らぬことだ。
そこにセシリアの意思も行動も伴っていない。だからこそ、いくら考えたところで理解できるはずもない。
そうして結論のでない問いを繰り返し続けていた時、ガンと聞き慣れない音がセシリアの耳に届いた。
顔を上げるが、暗闇に閉ざされた地下では一寸先すら見えず、なんの音だったのかを調べることすらできない。
――幻聴、かしら。
人は極限状態に置かれると、ないものを見て、ないものを聞くのだと聞いたことがある。
自分がそこまで追い詰められているのかと自嘲しかけたセシリアだったが、続けてまたも金属が叩かれる音が二度、三度と響いた。
――あの人がまた確認しに来たかしら。
それにしては、いささか乱暴だ。男が一度訪ねてきた時は、軽く扉を叩くだけだった。
――何か、あったのかしら。
それに音の出所も扉を叩いているにしては遠く聞こえる。セシリアは扉の真下にいるのだから、乱暴に叩いていたらもっと響いているはずだ。
何時間、あるいは何十時間もの間こんな音は聞こえなかった。セシリアはぎゅっと体を抱きしめ、身を縮こまらせた。
そして再度、大きな音が響いた。先ほどよりも近く、金属を何かに叩きつけているような音が。
――何、なんなの。
もしも幻聴であるのなら、人の声とか、鳥のさえずりとかの、平和なものがよかった。思わずそう思ってしまうほど、暗闇の中に響く慣れない音がセシリアの恐怖心を駆り立てる。
そしてさらに近くなった音が、地下に響く。降ってきた石くずが、すぐ真上を叩いたのだとわかった。
音の元凶が真上にいるのだと思うと、今にも暗闇の向こうから化け物が現れそうで、慌てて階段を駆け下りようとする。
だが自分の体すら見えない状況では正確に階段を下りることができるはずもなく、セシリアの足は簡単に宙を掻いた。
――あ。
落下したところで傷一つ負わないことはわかっている。だが意図していない浮遊感に、セシリアの手が助けを求めるように伸ばされる。
「セシリア様!」
一際大きな音を立てて開かれた扉と差し込む光。そしてその先から現れた手が、伸ばされたセシリアの手を掴んだ。
大きく温かな手にセシリアが目を丸くするのと、引き上げられるのは同時だった。
――アベル……?
地下から引っ張り上げられたセシリアは、自分の手を掴んでいる人物を見て、またも目を丸くさせる。
どうしてこんなところにいるのか、と疑問を抱いても口にすることはできない。ただ呆然と、首を傾げることしかセシリアにはできなかった。
「ご無事で……何よりです」
一瞬言いよどんだのは、セシリアの状況を考えてのものだろう。セシリアの体が処刑のあの日、あの瞬間から、時が止まったかのように変化していないことはアベルも知るところのはずだ。
護衛を任されていたのだから、護衛対象がどういった状態にあるのかを聞かされていてもおかしくはない。
――死んだ身に、無事も何もないわよね。
脈打つことのない胸が痛んだような気がしたのも、きっと錯覚だろう。
セシリアは頭を振り、気を取り直す。自身の置かれた境遇を嘆いたところで、どうにもならないことはすでにわかっている。
それよりも、どうしてアベルがここにいるのか、そしてあの男はどうなったのか。どこに行ったのか、そちらのほうが重要だと考えた。
――いえ、それよりも……。
セシリアは空いたほうの手で、いまだに自分の手を掴んでいるアベルの手を取る。
「あ、これは……失礼いたしました」
淑女の手をいつまで掴んでいるのか、と咎められた気になったのだろう。アベルは掴んでいた手を離すと眉を下げ、申し訳なさそうに言った。
だがセシリアはその言葉を意に介することはなく、両手でアベルの手の平を上に向けさせ、指先をその上に置いた。
――ありがとう。
落ちそうになっていたところを助けてくれた。
暗闇の中から引っ張り出してくれた。
そして、ただ一人、セシリアのために間違っていると声を上げてくれた。
そのすべてをこめて、文字を綴った。
「いえ、私は……護衛としての職務をまっとうしているだけです。感謝されるようなことでは……」
――それでも、嬉しかったから。
牢で行われていたことは、アベルにとって苦々しい思い出だろう。それに、あの場にセシリアがいたことを知られたくはない。
声を殺し、与えられる鞭を耐えたのは、自分を助けようとしてくれた相手に罪悪感も怒りも憐憫も抱かれたくはなかったからだ。
今の状況を思えばすでに手遅れかもしれないが、それでもやはり、あの牢屋に、アベルの隣の房にセシリアがいたことはできれば黙っていたかった。
だからセシリアはすべてを語ることはなく、ただ感じたことだけを綴っていく。
「……どうして、城から去ったのですか」
手の平を見つめていたセシリアの頭上に、静かな声が降ってくる。
――あそこにいても、誰のためにもならないと思ったから。
セシリアの処刑を実行した者も、それを命じた者、賛同した者。そしてセシリアのためにもならない。
許すことも、許されることもできない関係に先がないことは、誰もがわかっていたことだろう。
――あなたには、悪いことをしたわ。私が逃げたことで、咎められたりはしなかった?
アシュトン達はアベルにも負い目がある。だからそうひどいことにはならないだろうと思ってはいたが、それでも護衛としての任をまっとうできなかったことは確かだ。
他の誰かに責められなかったとしても、自分で自分のことを責めたかもしれない。
護衛だからとここまで来たアベルに、セシリアはようやくその可能性に行き着いた。
「大丈夫です。セシリア様が心配されるようなことは何もありませんでした。……それよりも、セシリア様を探すことのほうが優先されましたので」
――そう、なの。放っておいてくれてもよかったのに。
セシリアは自分の意思で城を抜け出した。何かの犯罪に――巻き込まれそうではあったが――城を抜け出した時点では巻き込まれてはいなかった。
だからそこに責任を感じる必要は誰にもない。勝手に去ったのだからと放っておくこともできたはずだ。
「……そうはいきません。セシリア様の身を誰もが案じております」
すでに手遅れと書こうとして、指が止まる。それは、アベルに言うべきことはではないからだ。
――ねえ、この屋敷に人はいなかった?
代わりに、別の話題を振る。
アベルはこの屋敷の主に関しては一切言及しなかった。そして、どうしてセシリアが地下にいたのかも聞かれていない。
すでに男を捕えて話を聞いた後なのかもしれないと思って聞いたのだが、アベルの眉間に皺が寄った。
「……お恥ずかしいことに、逃げられました」
――そうなの……彼は、何がしたかったのかしら。
逃げたのなら、どうしてセシリアを地下に閉じこめたのかを知ることはできないだろう。
落胆混じりに綴った文字に、ぴくりとアベルの手が震える。
――何か知ってるの?
ここまで微動だにせず手の平を自由にさせていたというのに、ここにきて変化が生まれた。それは、今しがた振ったばかりの話題のせいだろう。
そう考えて、セシリアはアベルを見据えながらさらに文字を綴る。
――どうして閉じこめられたのか、私は知らないの。もしも知っているのなら、教えてほしい。
アベルはぐっと顔をしかめ、わずかに視線を逸らした。
何がなんでも知りたいというわけではないが、知らないままでいるのも気持ち悪い。それにもしも、のっぴきならない事情があるのだとしたら、あの男はまたセシリアの前に姿を現すだろう。
対処法を考えるためにも、セシリアはお願い、と文字を綴っていく。
「……あの男は……この屋敷は、悪魔崇拝者が住んでいると言われています。……だから、あなたに興味を抱いたのでしょう」
苦々しく呟かれた言葉に、セシリアは出てくるはずのない息で乾いた笑いを作り出そうとしてしまう。
歪んだセシリアの表情に、アベルが痛ましそうに目を伏せた。
「見つけ次第、捕えます。ですから、ご安心ください」
――いえ、いいの、それはいいの。
悪魔に興味があるから、悪魔によって死ねなくなったセシリアにも興味を抱いた。
ならばそう言ってくれればよかったのに、とセシリアは心の中で呟く。
悪魔はいまや神話時代について記された書物にしか載っていない。
だが悪魔崇拝者ともなれば、持っている知識は一般人の比ではないだろう。
――悪魔について知っているのなら、私の体をどうにかする方法とかも知っていたのかしら。
綴った文字に、伏せられていたアベルの顔が上がった。




