『噂』
セシリアの手が閉ざされた扉を叩く。だが何度叩いても、向こうからの応答はなかった。
――何かあったのかしら。
不慮の事故で扉が閉まり、開かなくなったのだろう、とセシリアは考えていた。自身を閉じ込める理由が見つからなかったからだ。
セシリアは最後に一度、強く扉を叩いてから階段の上に座りこんだ。埃が舞うが、気にしていられるような状況ではなかった。
松明の火が消えれば、あたりは暗闇に閉ざされる。疲れもしなければ死ぬこともないが、一寸先も見えないような闇の中に閉じこめられるのだけは、避けたかった。
――じっとしているほうが、火の持ちがいいかもしれないわね。
根拠はどこにもない。ただ、動くたびに揺らめく火が、セシリアの目には普通にしているよりも燃料を消費しているように映っただけだ。
――すぐに、どうにかして開けてくれるわよね。
だがセシリアの希望も虚しく、扉が開かれることはないまま時間は流れ、松明の火が消えた。一気に黒に染まる視界に、セシリアは自分の膝を抱える。足の踏み場すらもわからない暗闇は、セシリアにとっては慣れないものだった。
城では欠かすことなく蝋燭に火が灯され、実家でも同様に、セシリアの寝床には蝋燭が置かれていた。
牢に囚われていたときも、牢番の歩く通路のみではあるが燭台が置かれていたため、真っ暗になることはなかった。そして森の中を歩くときも、月明かりがわずかではあるが足元を照らしていた。
セシリアは昔から、暗闇が苦手な子供だった。自分の手の先すらも見えない闇の中で、何かに手を掴まれそうだと怯えていた。
無論、そんなものは子供の想像でしかなく、実際に手を掴まれたことがあるわけではない。
だがそれでも、セシリアは暗闇の中に身を置くことをよしとはしなかった。
――まだ、かしら。
いつになれば男が戻ってくるのか、いつになれば扉が開き、地下に光が差し込むのか。セシリアはそればかり考えている。
――お願いだから、早く来て。
たとえ二度死ぬことのない体とはいえ、幼少の頃より抱いていた恐怖心を抑えることはできない。
セシリアは震えそうになるのを、固く目を瞑ることによって堪える。暗いのは目を瞑っているからだと自分に言い聞かせながら。
それからさらに何時間が経った頃、膝に顔を埋めていたセシリアの耳に、カンという金属を叩いたような音が聞こえてきた。
戻ってきたのだと思い、セシリアは顔を上げた。だが呼びかけようとした声が口から出ることはない。
しかたなく、開いた口を閉じてセシリアは扉を二度叩いた。
「大丈夫?」
扉越しだからか、くぐもって聞こえる声にセシリアは扉を叩くことによって返事をする。
「よかった。まだ元気そうだね」
どこかのんびりとした男の声に、扉を叩こうとした手が止まる。今すぐにでも出してほしいセシリアと、外にいる男との間に意識の隔たりを感じたからだ。
それは、許しを乞う者たちと一度死んだ身であるセシリアの間にあった認識のずれとも似通っていた。
目の前にいて、言葉を発することこそないが許しを聞く耳を持ち、許しを与えることのできる手を持っている。だからセシリアの死に携わった者たちは許しを求めた。
だがセシリアは自身の体が一度死んだことを理解していた。生前と様変わりしてしまった体に、自分は一度死んだ身なのだと実感するしかなかった。
その状態で、許しを求められても与えられるはずがない。しかし、許しを求める者は毎日のようにセシリアのもとを訪れた。
これが城を抜け出して何日も経っていた頃なら、もう少し違った反応を抱けたかもしれない。だが城を抜け出してからまだ一日ほどしか経っておらず、過去のことだと片付けることはできなかった。
「ん? どうしたの?」
セシリアの反応がなくなったことを訝しんだのか、男の不思議そうな声が扉の向こうから聞こえた。
慌てて、セシリアの手が扉を再度叩く。
「まだ余裕がありそうだね。もう少しかな」
どういうことなのか、とセシリアが問うことはできない。代わりに、扉を叩いた。
だが、男の声は返ってこなかった。
――ねえ、早く開けて。お願いだから。
力一杯扉を叩くが、何も返ってこない。扉を叩く音だけが木霊している。そうして何度も何度も叩けば、男はもうそこにいないのだと考えるしかなかった。
――どうして、なんで……。
何故開けてくれないのかと考えても答えは出ない。扉が開けられないから工具などを取りに行ったのなら、そう言えばいい。
ならばどうして男は何も言わず、立ち去ってしまったのか。
――私から余裕をなくさせたいの? でも、どうして?
男の最後の言葉を思い出し、セシリアは混乱する頭で必死に考える。
だが、セシリアがその答えに行き着くことはできない。セシリアはこの森について流れている噂を知らなかったのだから。
森には悪い魔法使いがいる。それは王都に住む民の間でのみ流れている噂だった。
発端は何十年も前に一人の男が森に移住してきたことだ。彼は趣味に傾倒し、反対する家族に背を向けて、森に逃げ込んだ。
それからというもの、森に建てた立派な屋敷の中で趣味に没頭していた。
男が傾倒した趣味。それは、悪魔について研究することだった。
月日は流れ、森に移住してきた男は亡くなったが、彼の趣味を引き継いだ者がいた。男の息子、それから孫、そうして代々引き継がれ、今に至る。
ようやく訪れた、悪魔との繋がりを得られる存在を手放す気など、男には最初からなかった。




