『森』
暗い森の中を、月明かりだけを頼りにして当てもなく歩く。整えられることなく生えている草が肌を撫でる感触を味わいながら、セシリアは小さく息を吐いた。
――どこか切れているかもしれないわね。
だが痛みを感じることはない。そして、負った傷はさほど時間もかかることなく治るだろう。
セシリアの体は死んだ状態を維持していた。生前に負った傷は治らず、新たに負った傷はすぐに修復される。それが、この一年でわかったことだ。
一年かけて、それしかわからなかった。
――木屑とかが入っているかもしれないけど、わからないから……どうでもいいわね。
そして、傷跡こそ治るが、体内に侵入した異物は排除されなかった。おかげで首を縫うことができたのは、悪魔の恩情なのかもしれない。単純に、呪いの範疇外だっただけかもしれないが。
悪魔に関する書物は神話時代について綴られたものしかなく、それも神と相対する敵としか書かれていないものばかりだった。
死人を操ったと記述されていたものも、それ以上詳しいことは載っておらず、悪魔がどういう存在なのか、どういった呪いを扱うのか――どうやって呼び出すのかも、わからずじまいだった。
――もう少し待てばわかったかしら。
そう思いこそするが、だからといって城に戻る気にはなれなかった。セシリアは口元に苦笑を浮かべ、そっと首元に触れた。
そこには首を縫った跡がある。だが今は、その上に黒いチョーカーが巻かれていた。
縫い目を覆い隠すほどの大きさのチョーカーは、つい先日クラウドから贈られたものだった。
『傷跡を晒しておくのは、君も嫌だろうから』
そう言って渡されたものを、セシリアはその場で身に着けた。鏡を見れば、生前と変わらない姿が映っていた。
だがチョーカーの下と、ドレスの下には消えない傷跡が残されている。
――嫌なのは、あなたたちではないの。
抱いてしまった考えに、セシリアは言い知れぬ気持ち悪さを感じた。
毎日のように捧げられる謝罪の言葉。許しを求めるために訪れる者たち。
そして、隠された傷跡。
自分のために用意してくれたのだと、素直に喜ぶことはできなかった。
生前であれば、贈り物にはかかさず感謝の言葉を述べていた。
だが今では、贈られてくるものに裏があるのだと思えてならなかった。
日を追うごとに卑屈になる自身と、どうにもならない現状をどうにかできないかと、セシリアは逃げ出した。
勝手に修復される体は、逃げ出すにはうってつけだった。窓から飛び降りても、痛みを感じることもなければ、死ぬこともないのだから。
そうしてたどり着いたのが、王都の近くにある森だった。
セシリアは必要以上の運動をしたことのない、生粋の令嬢だ。深夜に歩けるだけの距離もたかが知れている。もしも追ってくる者がいれば、すぐに捕まることだろう。
だからこそ、広大な土地を占領している森に身を潜めることを選んだ。
――数日もすれば、諦めるでしょうし。
最初のうちは負い目から探すだろう。
だがセシリアを見つけたところで、誰の得にもならない。むしろ、自分たちの殺した相手を間近で見続けなくてはならないのだから、損しかない。
数日やり過ごせば、しかたないと、そう考えることは明白だ。もしかしたら、悪魔の呪いが解かれて消えたのかもしれないと考える者も出るかもしれない。
呪いがどういったものなのか誰もわかっていないのだから、突然消失したとしても不思議には思わないだろう。
――数日……数日やり過ごして……その後は、どうすればいいのかしら。
死ぬことなく彷徨い続けるのか、ある日突然死ぬのか。
先の見えない不安は、城に滞在していた時も、今も変わらない。
セシリアは歩き続けていた足を止め、地面に視線を落とした。森の中は暗く、足元すらもろくに見えない。着ていたドレスは破れているかもしれないが、それすら確認できそうになかった。
それからも歩き続け、気づけば木々の合間から見える月はだいぶ斜めに落ちてきていた。あといくらか待てば、日が昇るだろう。
セシリアはそこで、足を止めた。疲れた、というわけではない。
気疲れすることはあれど、セシリアの体は疲労を感じたりはしなかった。
足を止めたのは、草を踏むような音が聞こえたからだ。聞こえてきた音は、小動物にしては大きく、狩りをする動物にしては無遠慮すぎた。
「こんなところに人なんて、珍しい。迷子かな?」
そして草をかき分けるようにして現れたのは、見知らぬ男だった。夜闇に溶け込むような黒い外套を纏っているからか、白い顔が闇の中に浮かび上がっているように見えた。
セシリアは男の問いかけに首を横に振って答える。男は、ふうんと小さく呟いてから、セシリアに向けて一歩踏み出した。
「夜に森の中を歩くのは危ないよ。森に住む悪い魔法使いの噂、聞いたことない?」
この問いかけにも、セシリアは首を振って答える。
「なんだ、知らないのか。外しちゃったかなぁ……まあ、いいや。知らないなら、それでも。俺としても、変な呼び名が付いているのは嫌だったし」
一人でぶつぶつと呟いたかと思えば、男は白い顔に笑みを浮かべた。
「お嬢さん、迷子じゃないなら森に何をしに来たのかな? 探しものなら、せめて朝日が昇ってからのほうがいいよ」
気安い口振りに、セシリアは今さらながら一つの疑問を抱いた。
――この人は、私のことを知らないのかしら。
セシリアの処刑に立ち会った者は、自責の念から連日謝罪の品と手紙をセシリアに贈ってきた。だが目の前にいる男からは、そういった、後悔や恐れといったものを感じない。
「お嬢さん。夜の森は危ないよ。よかったら、俺の家で朝日が昇るまで休むかい?」
セシリアは久方ぶりの普通のやり取りに心を動かされ、男の提案に頷いた。




