『謝罪』
それからさらに数日が経ったある日のこと。いつも一人で来るアシュトンが珍しく、騎士を一人引き連れてセシリアのもとを訪れた。
赤褐色の髪をした騎士の顔に、セシリアは見覚えがあった。一年ほど前に、エリュシアンに亡命してきて騎士となった経歴を持つ男だ。
――名前は確か……アベルだったかしら。
元は他国の王族だったのだが、王位争いに敗れ、エリュシアンに流れ着いた。家名は失われたと聞いた覚えがある。顔を合わせたのは一度だけで、その時も二言三言しか交わさなかったはずだ。
「彼を君の護衛につけようと思うけど、どうかな?」
アシュトンの問いかけにセシリアは眉をひそめた。部屋から出ることはない現状で、護衛が必要だとは思えなかったからだ。
カーティスなどの縁がある騎士であれば志願したのだろうと考えることもできたが、アベルとはそこまでの縁があるわけではない。
「悪魔が関与しているとなると、信心深い人がどう出るかわからないから……念のためにつけておくだけだよ」
セシリアの胸中を察したのか、アシュトンはそう言うとアベルに目配せを送った。それに合わせるように、アベルが片膝をつき、セシリアに向けて首を垂れた。
襟から覗く赤く爛れた肌に、セシリアの目が見開かれる。
「私の助命を願い出てくれたと、そう聞いております」
知っているのは呻き声だが、確かに聞き覚えのある低い声に、セシリアは自然と自分の口元に手を運んだ。それは生きていれば漏れたであろう声を抑えるための、無意識の行動だった。
――よかった。
騎士に戻れたことがわかり、動いていない心が震える。だが彼に語りかける声もなければ、彼のために流す涙もない。
それでも感謝と謝罪を伝えたいと思ったセシリアは、無意味な動きをした手をアベルに向けて伸ばした。
「セシリア様にお仕えできることを光栄に思います」
そうして伸ばした手に唇が落ちる。忠誠を示すための所作と、見上げてくる緑色の瞳にセシリアは顔を強張らせた。
――違う、そうじゃなくて……これだと、忠誠をねだったみたいじゃない。
セシリアにできるのは体と表情を動かすだけだ。ペンや紙があれば筆談もできるが、手元にはない。できる限り意思表示をしたくないという無言の訴えにより、用意されることもなければ、用意させもしなかった。
なので、どうにか感謝を表そうと手を伸ばしたのだが、どこに触れれば感謝を伝えられるのかわからず戸惑っている間に、忠誠を示されてしまった。
――笑いかければよかったのかしら……。今からだと、満足したみたいに映らないかしら。
庇ってくれたこと、自分のせいで罪人に落とされたこと。感謝してもしきれず、謝罪してもしきれない。
どうすれば正確に伝えられるのかとセシリアが必死に考えていると、アシュトンの口が開かれた。
「……よかった」
どこか虚ろな声に、セシリアは強張らせていた顔をアシュトンに向ける。
口元に笑みを浮かべながらも、アシュトンの瞳は今にも泣きだしそうなほど潤んでいた。
アベルが護衛につくことになったからといって、セシリアの生活が変わったわけではない。窓辺に置かれた揺り椅子に腰かけて、本を読む。代わり映えのしない生活の中で、セシリアは子供の頃に何度も読んだことのあるお伽話を選ぶようになっていた。
それは、文字を真剣に追わなくても展開がわかるため、意識が別のほうを向いていても、本を読んでいると思わせるためだ。
――どうしようかしら。
セシリアの思考は扉の脇に立っているアベルに向いている。彼が護衛となってから、すでに一週間近くが経っているが、いまだ感謝も謝罪も伝えられずにいる。
アベルに対してだけではない。セシリアは城で滞在するようになってからというもの、誰かと意思の疎通を図ろうとはしてこなかった。
「すまない」
謝罪を紡ぐ声にも何も返さず、
「許してほしい」
懇願する声にも、何も返さなかった。
ウェンディのしたことに対する怒りも、受けた仕打ちに対する悲しみも忘れられず、誰かに当たろうにも、原因であるウェンディはすでにこの世にいない。
許しを求める者たちは悪魔に操られていただけの、被害者だ。
頭ではわかってはいても、許すと伝えることはできなかった。
だからといって、許さないと告げることもできない。誰かを恨むことも、許すこともできず、望んでいた死も訪れない。前にも後ろにも進めない状況の中で、セシリアはただ許しを求める声を聞き、与えられる本を読むだけの生活を送っていた。
――きっと、いつかは許さないといけなくなるのよね。
処刑からあまり日が経っていないため、今は「許してほしい」で終わっているが、いつかは「許せ」と言ってくることだろう。
アシュトンはそうではないかもしれないが、天使のような見た目の彼が涙を零し許しを求める姿に、他の者は心を動かされるかもしれない。
そうして動いた心は、いつまでも許すと口にしないセシリアに非難の目を向けてくるだろう。
抱いた痛みも嘆きも、長くは続かない。死んでしまったセシリアとは違い、他の者は生きている。先に進むために、前を向いている。
――アシュトンも、いつかは妃を迎えなければいけないでしょうし。
いつまでも元婚約者に謝罪し続ける夫を、妻はどう思うだろうか。そして、生まれてきた子はどう思うだろうか。
その時までセシリアの体が保たれているかどうかは定かではないが、状況を知らぬ者からすれば、異常な光景として映ることだろう。
いつかは許さなくてはいけないとわかっているからこそ、今はまだ何も言えなかった。整理のついていない心のまま綴れるほど、軽い言葉ではない。
――だから、アベルにも何も言えないのよね。
自身がそういった心境であるというのに、アベルに謝罪し、許しを求めるのは違うだろう。セシリアはそう考え、彼に対しても何も言えずにいた。
アベルと親しくした覚えはセシリアにはない。彼は騎士として、かつて王族として教育を受けた矜持からの行動だとすれば、異常な動きをしている者達に苦言を漏らしたのだろう。ならば、受けた仕打ちからセシリアを恨んでいたとしても不思議ではない。
手酷い仕打ちを受けた相手に許しを求める。それが心からの言葉であればあるほど、許さなくてはいけないと、求められた相手は思ってしまうだろう。
――感謝だけでも伝えられればいいけど……難しいわね。
感謝を伝えようと文字を連ねれば、抱いている感情をそのまま綴り、最終的には許しを求める言葉まで重ねてしまうだろう。
だからペンを手に持つこともなく、だがせめて感謝だけは伝えられるようにと、扉の脇に立つアベルに向けて微笑んだ。
それから三週間ほどが経ったある日、セシリアのもとを彼女の友人だった女性が訪ねてきた。
「どうしたら許してくれる?」
涙を流しながら懇願する彼女に、セシリアは虚ろな瞳を向ける。最近では謝罪の言葉は減り、許しを求める声のほうが多くなった。
――生き返ったら。
心の中で呟いた皮肉に、セシリアは苦笑を浮かべた。
許しを告げることも、感謝と謝罪を伝えることもできないまま日々は過ぎていく。
そうして処刑日から一年後、セシリアは部屋を抜け出した。
『ありがとう』
そう書いた手紙だけを残して。




