泡沫、琥珀色の春
繰り返しになりますが
多分、前作の『晩夏、雨の残り香』と『晩秋、紅葉枯れ尽きて、そして』を読まないと意味がわからないです。シリーズにまとめてあるので
この部屋は聖域で、なんの変哲も無い場所だ。そう先輩が言っていたのを覚えている。私は、「遅めの中二病ですか?」なんて言って茶化したっけ。正直、今でも何を言ってるのかよくわからないけれど、部屋の主人がそう言うのだからそうなのかもしれない。
私は、本の縁から上目遣いに、件のご主人様を見やった。長机の向こう側、相変わらず頬杖をついて、ぶつぶつと言いながら問題集に向き合っている。どうも、今日の宿敵は英語らしい。ぶつぶつ言っているのは、作問者への恨み言。
「先輩。ねぇ、先輩」
「……あぁ、うるさかった?」
「いえ、それ」
二度呼んで、ようやく気づいたらしい先輩。私は机に身を乗り出して、ノートの一点を指し示す。
「ほら、『J』が『し』になってます」
「あぁ、またやった」
「やめてくださいよ? 落ちた理由は、『し』の一点でした、なんて」
「……でも、『死』の一点って、それっぽいな」
「ほんと中学生みたいですね、いろんな意味で」
ほっとけと吐き捨てる先輩に、私は笑みを深める自分を自覚した。先輩はこんな私の生意気を許してくれて、だからこそここは居心地がいい。
文学部とは名ばかりの、家に帰るために所属する部活。つまりは帰宅部。部活には強制参加と定められているこの高校に用意された、唯一の抜け道だった。
そんなふざけた部活に、マトモな文学少年や文学少女が近寄るわけもなく。校舎の隅、押し付けるようにあてがわれた狭い部室は、もはや私と先輩の独壇場だ。
「……なんでお前、いつもいるんだ?」
「居心地がいいからです。先輩とお話しするのは、意外と楽しいんですよ?」
「意外とってつくと、褒められても嬉しくないんだな」
「あれ、意外と先輩ってナイーブなんですね」
意地悪くからかうと、先輩はわかりやすく眉をひそめて、そのまま視線を問題集に戻してしまった。
なんとなく、勿体無いことをしたなと思いつつ。けれど、これ以上邪魔をしてしまうのも良くないだろう。あくまで、『生意気な後輩』という認識の上には、『可愛げのある』という言葉が付いていてほしい。また小説に一区切りついたとき、何か言わせてもらおう。
ぺらり、紙擦れの音。
水を打ったようように静まりかえった部屋を、夕陽が斜めに切り裂いている。机も本棚も茶色で、琥珀色になった室内を。ちらちらと光る埃が揺蕩っていた。
「なぁ……」
突然、先輩が口を開く。
「どうしたんですか」
「お前、僕が卒業したらどうするんだ」
その言葉は、何かすっぱりと言い切らない、もごもごとした感じがした。先輩は問題集に向き合ったままで、世間話でもしているような様子。
要領を得ず、「集中力が切れるの、早いんじゃないですか」なんてはぐらかそうとして。先輩のシャーペンが、英文の途中でピタリと止まっているのに気づいた。
「曖昧な物言いですね」
だから、なんというか。ここで続きを促すのは、仕方ないと思った。
先輩のシャーペンがピクリと返事をする。
「ほら、僕が卒業したら、ここに来るのなんてお前一人じゃないか。どうするのかなって」
「どうするって。そりゃ、来ますよ」
「でもお前、やることないだろ」
「えー。先輩はバカなんですかー?」
これ見よがしに、机の上でトントンと小説を弾ませてみせる。
それを見た先輩の表情は戸惑う。
「お前、本読んでたのか?」
「読んでますとも。先輩は私をなんだとお思いで?」
「日々僕をからかいに来る、生意気な後輩」
「失礼ですね。『可愛げのある』と言ってください」
ツンと言ってみせると、先輩は棒読みに、しかし注文どおりに呼んでくれた。そこが先輩のいいところ。
でも、聞きなれた不満げな声が、どこかいつもと違う色をしていて。だから聞いてしまったのだろう。
「で、本当に聞きたいことはなんですか?」
沈黙。
顔を上げた先輩の目は揺れていた。
「……先輩?」
「言わなきゃ、ダメか」
甘い匂いがした。あるいは、腐った牛乳の匂いがした。
「えぇ、言いかけたことを言わないのは、良くないですから」
初めて覚えるその匂いは、むしろ私の興味を引く。
先輩は迷うように目を彷徨わせて、徘徊させ。ようやく、私にピタリと焦点を合わせた。
「鷺沢、お前なんで、この部活に入って、この部活にいるんだ?」
「…………」
「おい、どうなんだ」
「え、それだけですか?」
拍子抜けする私に、彼は「うるさい」とだけ言って、首の後ろをかく。
「それだけでいいから、代わりに変に誤魔化したりしないでくれ」
「ふーん。ま、いいですけど」
我ながら、何を想像していたのか良くわからないけれど。それでいいと言うなら、それでいいか。なにせ、先輩の言葉は今度こそきりりとしていたし。
「どうせ照れるのは、先輩ですよ?」
◇◆◇
あれは去年、ではなく。一昨年のこと。
まだ中学三年生であったところの私は、高校選びの一環として、この高校の文化祭は来ていた。
受験直前の秋にもなって、参考も何もないと思ったけれど。半ば親を安心させるために、私は来ていた。
「つまんないなー」
所詮文化祭だもんね。抱く感想はどこに行っても同じ。
看板とかは絵の具にムラがあって、なんだかなぁという感じだし。お化け屋敷とかのために窓を段ボールで貼り潰しているのは貧乏くさいと思ってしまう。
当然、どのクラスの出し物にも入って行く気がしなくて、『ちゃんと行ってきた』というアリバイ探しのために、私は校内をぶらぶら歩きまわっていた。
やがて、私は校舎の隅、埃っぽい廊下の突き当たりにたどり着いた。『窓を開けっ放しにしないでください』という黄ばんだ張り紙が、しわくちゃのセロハンテープに縋り付いている。
そんな辺境の教室に何があるのだろうと思ってパンフレットを開けば、そこには特に飾り気もなく、『文芸部展示』とだけ書かれていた。
「これ、本当にやってる……?」
パンフレットと教室の引き戸を見比べる。
それはただの引き戸でしかなくて、明かりこそ付いているみたいだが。得体の知れないラーメン屋さんに入るような緊張感があった。
「……すいませーん」
おそるおそるドアを引き開けつつ、中を覗き込んだ。
「――どうぞ」
「うわっ」
突然声がして、私は思わず声を上げた。アルミ製の本棚に押しつぶされそうな狭い部室の中で、のっそりとした人影がこちらを見ている。私の反応に納得がいかないのか、憮然とした様子だ。
「すいません、急に声がしたもので」
「はぁ」
ちゃんと誠意を込めて謝ったはずだが、彼はどこか拗ねた様子だった。
◇◆◇
「ちょっと待て。僕は拗ねたりなんてしてない」
「そうですか? 私がそう見えたってだけですし、気にしなくて結構ですよ。本当に拗ねていなかったのでしたら」
「……確かに。別に拗ねてないし」
いきなり食って掛かった先輩は、誤魔化すように椅子に座りなおした。あの時の先輩を見て、面白そうな人だと思ったのは黙って置こう。
◇◆◇
本を読む姿勢を崩さない彼に促されるまま、私は部屋に入った。窓の外から聞こえる文化祭の賑わいに反して、唯一切り取られたみたいに静かなこの部屋は、隠れ家じみて見えた。
「うちの展示は、部誌の公開だけですよ」
「へぇ、そうなんですね。……それって、貰っていくことってできます?」
「……今年分のなら」
ちゃんと文化祭を見て回った証拠が手に入ると喜ぶ私に、彼は気狂いでも見るような視線を寄越した。
彼の前の、うちの学校でも使っているような飾り気のない長机には、言葉通りに部誌が並べてあった。表紙の色だけで年度分けされたそれは、必要最低限しか印字されていない。紐綴じにされてはいるものの、その結び方はぞんざい。
一つだけ、印刷したまま折り込みましたという体の冊子が積まれていたので、今年度の部誌はそれだろうと察しをつける。
「失礼ですけど、あんまり人気ないんですか」
「そりゃあね」
部誌はどれも机の縁と平行に、等間隔に並べられていて。特に積まれた冊子が、自重で崩れていることを除けば特に乱れた様子もないものだから、つい聞いてしまっていた。自分の言うことは全くその通りで、失礼なことを聞いたなと思うけれど、本人にまったく気にした様子がない。
むしろ、年下の私にも敬語で通していたのをうっかり崩してしまったからか、彼の方が居心地悪そうだ。そんなものだから、私の方が気が抜ける。
「じゃあ、ついでにもう少し失礼します」
そう言って私は、彼のはす向かいにあった椅子に腰を下ろした。ひたすら本を読んでいた彼が、流石に面食らった様子を見せる。そのまま部誌を読み始める私をじろじろ見てくるから視線を返すと、また読書に戻ってしまう。けれど、ついでとばかりに言葉を残した。
「それ、腰を落ち着けて読む価値なんてないですよ」
「そんなにひどいんですか?」
「全学年そろっているのに、一年の僕が部長を務める部活ですから」
「下剋上ですね。尊敬します」
さらりと返した私に、彼の表情は苦々しい。辟易した彼の口調からして、さぞ嫌味に聞こえたのだろうと反省しつつ部誌を開く。
「うわぁ……」
小説やエッセイなんて良し悪しはわからないが、思わずそう言ってしまった。
まず一目見て読みにくい。段落分けと字下げのあいまいな文字の羅列が、一ページ目でやってきた。滑りそうになる目を何とか落ち着けて読んで行っても、そこにあるのはあからさまなトートロジーだった。我慢できずに頁をめくると、今度はやけにスカスカ。
「この部活は帰宅部が皮を被っただけなんですよ」
不親切に要約された言葉だったけど、部誌を読めば何を言いたいかは分かった。好きなアニメについてひたすらに論じた一部はまだましとして、真面目に書かれたものは一つもないとわかる。
めくるページも二十を超えたところで、疲れるなんて感想は一切ない。ほとんど読み飛ばしてきたからだ。
「部長さん、あなたのはないんですか?」
「えぇ……」
「えぇって」
「いや、だって。読むつもりでしょう。自分の書いたものを目の前で読まれるなんて、公開処刑じゃないですか」
「ま、部長とわかってる時点で、目次を見ればわかりすけどねー」
言われて、ため息とともに頭を抱える彼に、私は声をあげて笑った。
◇◆◇
「で、それを読んで、僕の文才に感動したとでもいうのか?」
「いいえ、まったく。毛ほども。むしろSFの皮を被ったとんでもファンタジーに鳥肌が立ちました」
「お前な……」
言ったじゃないですかと、私はからかう。
「でも、ある意味正解です」
「は……?」
聞いて損したとばかりに勉強に戻ろうとする先輩を、私は呼び止めた。なんだかんだ言って、自分も気恥ずかしい。そんな頬の熱を、先輩の反応を期待して隠した。
「感心したんです。そして、尊敬したんです」
「嘘つけ。あれは自分でも鳥肌が立つ黒歴史だ」
「でも、真面目に書いてましたよね」
そう、ただただ真面目な文章だった。
内容については、お世辞にも褒められたものではなく。けれど、てにをはに気を配り、誤字脱字一つなく。読める文章だと思った。
「先輩って、当たり前のことができるんですよね」
「当たり前だろ。当たり前なんだから」
「それがすごいなってい思ったんです」
当たり前のことを当たり前に。周りが何も言わずとも。
「先輩はいくらだって手抜きできたじゃないですか」
「そりゃまぁ」
「でも、手抜きしませんでしたよね」
私は、自分のやりたいことでもないからと、手抜きの文化祭見学をしていたのに。
「僕は一応、文学部がやってみたくて文学部に入ったから。環境のせいにして、人のせいにして中途半端をやるのは違うなって思っただけだ」
先輩は急に早口でまくし立てた。首の後ろをかきつかきつ、私を避けるように視線をあっちへこっちへとやっている。夕日に照らされた顔は、そんな様子に似つかわしく赤く染まっていた。とても、先輩らしいと思った。
そのまま言い訳を続ける先輩を、いつまでも見ていたっていい。先輩の名誉のために絶対言わないけれど、可愛いと思ってしまう。けれど、これは度を過ぎれば悪趣味だろう。
「あーあ、私も何か、ちゃんとやってみたいなー」
手に持った本を投げ出して、椅子が傾くほどに伸びをして言った。先輩はすっかり気勢いを殺がれて、切り替えるように咳払いをする。
昔話を始める前の妙な雰囲気はなくなっていて。それが何かわからなかったのは少し残念な気がしたけど、また次の機会。
「高校生なんだから、何でもやってみたらいいじゃないか」
「でもほら、部活という青春の場はこの部活に蹂躙されてしまいましたからね」
「青春、確かにここにはないけども」
「そうですねぇ、青春と言えば--」
私は何気なく、思い付きを口にした。
「恋とか、してみたいです」
途端。
「恋?」
またあの匂いがした。
甘いようで、好ましくないあの匂い。
「えぇ、恋愛ですよ」
「そりゃあ、確かに青春だ」
「えぇ、青春です」
思い違いかもしれない。いつもと変わらないように見えて、先輩はいつになく真面目に見えた。
相変わらずの好奇心にくすぐられつつ、正直、戸惑い始めてもいた。何の変哲もないはずのこの場所で、今日の先輩は不安定だ。
「でも、お前みたいに生意気なんじゃ、相手もいないだろ」
「わかりませんよ。先輩みたいなマゾヒストもいるかもしれないじゃないか」
「僕みたいな」
先輩は噛み締めるみたいに呟いて。
「じゃあ、僕と付き合ってでもみるか」
「らしくないですよ、先輩。そんなまるで--」
告白みたいな。
冗談めかした言葉を、外に出すなんてとてもできなかった。先輩の眼がそれを許さなかった。どこまでもまっすぐに私を射抜く瞳が。
あぁ、コレか。
先輩の発していたものが分かった。けど、それだけだった。自分の感情がわからなくて、自分がどんな顔を見せているのかもわからなかった。先輩にはどう映っているのか。
先輩。
先輩は私の生意気を許してくれて、だから好きだった。その『好き』は、『好き』の種類を気にするまでもなく心地よい感情だったから。
先輩の喉が動く。唾をのんだのだろう。
真面目な先輩だから、先輩はきっと本当に私のことが好きなんだろう。もしかしたら、私の生意気を許していたのはだからかもしれない。
でも、別にだからなんだと言うのだろう。すぐにこの結論を返せた理由はわからない。
机の上に投げだした本を引き寄せる。折れてもいないそれを、あいまいに笑いながらなでつける。
もっと早くはぐらかしていれば。
先輩の気持ちは--嬉しい。ここまでぐちゃぐちゃに頭の中をかきわけて、それだけは気付けたけど。
でも、でも。
「先輩は、ずるいです」
「え……?」
染み出してしまう。こんな中途半端な心で応えるべきじゃないのに。
「そんな不意打ちみたいに。誘導尋問みたいに」
「……ごめん」
そうだ、先輩はずるい。だから。
「そんな、質の悪い冗談、よしてくださいよ」
私もずるくなったっていいじゃないか。今までで一番薄っぺらい笑みで私は言った。
先輩が、まるでビンタをくらったみたいな顔をする。わかってたことなのに、心がチクリと痛む。
「そういうのは少女漫画とかだから許されるって知らないんですか?」
自分の身体が急に空っぽになって、言葉の一つ一つに震える感覚。
「ま、私が相手でよかったですね。他ならぬ私と先輩の、私と先輩の仲ですから。許してあげます」
「あぁ、そうだよな。確かにひどい冗談だった。忘れてくれ」
先輩は乾いた声で、言った。その声色はすっかり元通りで。余計に私の心が軋む。
気持ち悪い。誰が? 私が。でも先輩だって。ずるい。ひどい。別に恋愛なんてしたくないのに。
ただ、この部室にいれれば、それでよかったのに。
「今日はもう帰ります」
「ん、気をつけてな」
その場にいれば、もう壊れてしまいそうだった。夢の中のような不確かさの中で私は帰り支度を済ませて、部室を出る。
その時、先輩の横顔が見えた。春の夕日に照らされた、その影を見た。我ながらよくわからないけれど、先輩にばれないようにと引き戸を閉めた。
「ばかだなぁ」
部室の中からはそんな呟きが聞こえた。
「……えぇ、バカですよ」
臭いものには蓋をする。私はそんな心持ちで、その日の記憶を閉じ込めた。