真実を見つめる目は冷たいもので、それが当然だからこそ、タブーで突き刺さる
たとえば、何かコンプレックスを持った方にそれを面と向かって指摘をすれば、その方は傷つくだろう。だから、そういったことは、優しい世界ではタブーだ。そして、自らはその方ではない限り、指摘をしようがしまいが私には直接的に不都合は生じない。全ての方にそういったものは存在する。完璧な人間など存在しない。裏を返せば、存在しないと理解した行動をしなければ、自ら修羅の世界を生きることになる。優しい世界から除けられた厳しい厳しい世界。創作の世界が、どこまでも優しいのは、『私』がそこに居ないからだ。私は、客観的に目の前に差し出されたものを肯定も否定も出来、無責任に断定も出来る。私は、優しい世界に隔絶された状態で創作の世界を見つめられる。だからこそ、過激な世界も、理不尽な世界も、倫理観も娯楽として見つめられる。それは透明なガラスケースの先の世界だ。そこが戦場なら、防弾ガラスの頑強な建物の中、若しくは、カメラのレンズを通して世界を見ようとする戦場カメラマンの心境かもしれない。一枚レンズを通しただけで世界は、薄い膜に覆われたような錯覚を起こす。私たちは、考える葦だ