表出するものされたもの
最後となるけれど、表出するものされたものは、本人が不足しているものなのかもしれない。けれど、たとえ不足しているものだとしても表出するものされたものをそのまま吸収したところで、不足分は埋められない。表出する過程、吸収する過程、過程が必要なのであって表出されたものそのものは想像かすのようなものであるとも言えるからだと思う。どんなに美しくとも、表出したあとのそれはただの文章に過ぎない。そこに何かしらの熱を思うのは結局は、それを受け取る側、そして表出する側だ。
けれど、それらが全く無駄だとも思えない。表出したものは、想像かすであったとしても紛れもなくその方の思考の過程の一部を形にしたものだからだ。人は、言葉から生まれる。
過程というのは、表出したものの奥の奥に隠れている。若しくはそれを受け取った方の熱は。間違いなく受け取った感応は、新たなその方の過程として熱を放つ。受け取った方の奥で。
行動が全て思考から生まれるとは言わない。不足しているものを見ることが出来る思考は、全くのゼロからは生まれない。けれど、それは、過程のなかに。その内側に。ひっそりと隠れている。ヒントを身に秘めながら。もし、今、目の前のあなたが、熱を見つけられないというほど落ち込み絶望しているのなら、過程を見つめてほしい。そこにきっとヒントが秘められているから。




