永劫のトゥーランドット
会場内はすでに熱気とざわめきで溢れかえっていた。
もうじき最終滑走が始まる。名前をコールされれば俺の出番だ。
「まさか、緊張しているわけではあるまいな」
リンクサイドで叱咤激励するコーチの隣にもう一人、ふんぞり返る男がいる。トランプのキングがそのまま飛び出てきたかのような、いかにも偉そうな風貌の男だ。
他の誰にも認知されないその存在は、俺に向かって生意気そうに金色の眉の端をつり上げた。
半透明の体の向こうで、壁に掛かった日の丸が揺れている。
「我が歌に見合わぬ演技をしてみろ、一生呪ってやるからな」
「今だって似たようなもんだろ……」
「誰が亡霊か! 助言者と呼べッ!」
金髪の顎髭を扱きながら、男は――パヴェウはふんと鼻を鳴らした。
周りに聞こえないからといってこのちょび髭の幽霊はいつも偉そうなことばかり言う。普段なら言い返すところだけど、今はそれどころじゃない。そう、だっていま、俺が立っているのは――。
『四年前、ポーランドで偶然出会った一枚のレコードが、彼に引退を思い留まらせたそうです。この曲でもう一度、五輪の舞台に立ちたいと』
会場にコールが響くと、たちまち霧雨のような拍手が起こった。
コーチに肩を強く叩かれる。俺は一切の緊張を拭い去るように、こくりとひとつ頷く。
そして、リンクの中央へと滑り出た。
強者の仮面を被れ。
お前は強い。
お前は今日、氷の舞台を制する王になるんだ。
会場はしんと静まり返っている。ブレードが氷を削る音だけが耳に届く。
俺は氷上の真ん中から、たった一人に目がけて力強い視線を向けた。
――喜べ、パヴェウ。今からあんたに金メダル以上の演技を見せてやる。
「ふん、馬鹿をいえ。私にではない――世界に見せてみよ」
普段と変わらない挑発的な笑みを浮かべて、パヴェウはそう言い放った。
――上等だ。
俺はにやりと笑い返して目を閉じた。
『長らく失われていた八〇年前のテノール歌手・パヴェウ。彼が遺した奇跡の歌声と共に――曲はトゥーランドット、〝誰も寝てはならぬ〟』
静寂の中、コントラバスの重低音がひと筋、始まりの尾を引いた。
滑らかに滑走し、湾曲したリンクに沿って大きく軌道を描く。
最初のジャンプ――着氷、歓声!
四年間、毎日飽きもせず俺の滑りに口出ししてきたパヴェウは、今日に限って死んだみたいに口を閉ざしている。
おそらく、歌う準備をしているんだろう。今回のFSプログラムに使う曲の後半二分間に、彼の歌のすべてを詰め込んである。そこで彼は生前果たせなかった夢を叶えようとしているのだ。
己の歌声を世界中に響かせるという夢を。
伸びやかに、スピードを上げて、もう一度。
トリプルルッツ、トリプルトゥループ。
歓声――。
*
別に、フィギュアスケートに人生を掛けていたわけじゃない。
たまたま地元にスケートリンク場があって、たまたま周りの子より上手く滑れて、たまたまこの年まで続けられる環境があったから、スケーターになったのだ。
次第に大きな大会で表彰台に登れるようになり、そこそこメディアにも顔出しをするようになると、活躍を応援してくれるファンと同時にアンチも沸くようになった。
日が差せば影ができるのと同じ。ただ俺の影は、人より大きかったというだけ。
やがて、公認マークの付いた形だけのSNSアカウントにもアンチから直接リプライが届くようになった。
見なければいいものを、俺はそれらを律儀にチェックしては、自らの心に傷を付けた。
”不細工”
“喋り方がウザい”
“キモい”
“自分に酔ってるみたいな滑り方、キライ”
“辞めてくれないかな”
顔も名前も知らない他人が指先で打っただけの大量のメッセージの中に、それでも光を見い出したかったのか。それともただの自傷行為だったのか、今となってはもうわからない。
アカウントを閉じる勇気もなく、引退を決意することもない。ずるずると無駄に引き伸ばされた人生を惰性でやり過ごす日々が続いた。
“死ねばいいのに”
シンプルなたった七文字が、あるとき俺の背中をトン、と優しく押した。
二十四歳のときだった。
選手生命としては大往生だろう。
この国に骨を埋めたくない。そんな思いだけで、俺は最後に飛行機のチケットを取った。
行き先はワルシャワだ。この頃の記憶はふわふわと曖昧で、どうしてワルシャワ行きを選んだのかはっきりとした理由は覚えていない。
今になってみれば、「戦場のピアニスト」という映画が好きだったからなんだろうと思う。
飛行機の座席に座り、小さな窓の外をひたすら眺めていた。頭の中で流れていたのは、ショパンの⦅ノクターン第20番 嬰ハ短調 遺作⦆だった。戦火を逃れ、一人生き残ったピアニストが、廃墟に取り残されたピアノに座って奏でる曲だ。
降り立ったワルシャワの街並みは、記憶の中の景色よりも幾分か整然としていた。青緑色の瓦屋根に、クリーム色のレンガを積み上げた建物。俺は行く当てもなく、街中をふらふらと彷徨い歩いた。
馴染みのない街は俺に知らん顔をした。
街だけじゃない、行き交う人も、石畳が敷き詰められた地面でさえ。
誰もが自分のことなど知らない。そんな場所に来たかったはずなのに、いざ辿り着いてしまえば微かな寂しさがついて回った。
このままここで倒れてしまえたらどんなにかいいだろうと思った。永遠に覚めない眠りにつけたら……。
そのとき、霞がかった意識の向こう側から、微かな歌声が聞こえてきた。
よく通る男の声だ。俺は半ば無意識にその音を追って歩いた。
やがて辿り着いたのは、一軒の廃墟だった。ひと目見ただけで誰も住んでいないとわかるほどボロボロの外観だ。しかしその屋敷の中から、たしかに歌声は聞こえてくる。
豊かな男の声は、ジャコモ・プッチーニの 《トゥーランドット》「誰も寝てはならぬ」を奏でていた。
俺は夢心地でその廃墟に足を踏み入れた。
ヴィルム・ホーゼンフェルト陸軍大尉はまさにこんな気分だったのだろうか、と思いながら。
そこで俺は出会ったのだ。
廃墟のただ中で伸びやかに歌いあげる、テノール歌手の亡霊に。
*
「自らの手で己に終止符を打つくらいなら、その命、私のために使ってみよ」
出会い頭、一発目の発言がこれだ。
思えば、最初に出会った時からこの男は傲慢の化身みたいな奴だった。一方の俺はというと、男の発言や身体が透けて背後のカーテンが見えてしまっていることに気が動転していた。
「な……なんで……」
なんでこの男は、俺が人生を諦めようとしていることを知っているのだろう。男は金色のちょび髭を指先で弄りながら、得意げに鼻を鳴らした。
「そなた、私の姿が見えているのであろう? 同じような状態の人間にしか、私は見えぬからな」
「同じような……?」
うむ、とちょび髭の亡霊は頷いた。
「死んでも死にきれぬ、生きようとも生ききれぬ。どちらも彷徨い人であろう。これも何かの縁。さぁ、私を救い出すがよい」
「は……? いや、無理だし」
自分すら救えない男が、誰かを救えるはずがない。だがその男は、今際の際にいる俺に、一枚の古びたレコードを突きつけた。
「我が名はパヴェウ。志半ばで息絶えたテノール歌手である。そなたにこのレコードを預けよう!」
俺は目だけを動かして、ちらりとパヴェウの手元を見た。レコードから白いもやのようなものが漂っており、それはパヴェウの霊的な身体と繋がっているようだった。つまり、いわく付きのレコードだ。
「我が命よりも大切な、魂のこもったレコードである。くれぐれも慎重に扱うように」
「命って、あんたもう死んでるんだろ」
「誰が死人か! わたしにはまだやるべきことが残っている。だからこの世に留まっているのである」
「なんだよ、やるべきことって」
パヴェウはニヤリと笑う。
次の瞬間、彼は雰囲気を変えた。
真剣な眼差しで腹を蛙のように膨らませ、そして、歌を歌い始めた。
それは空気をビリビリと振るわせ、俺の中に収まっている魂までをもぐらぐらと激しく揺さぶった。
廃墟に色が蘇り、窓から差し込む光の中で埃が舞い踊る。
頭の中の、どこか遠いところで、ブレードが氷を削る音がする。
ダブル・ルッツ、トリプル・アクセル、ここでコンビネーションスピンを持ってくると気持ちいいだろう……。
息をするのも忘れるくらい、俺はその男の歌声に聞き入っていた。
気付いたときには目の前でパヴェウがふんぞり返っており、「決まりだな」と言わんばかりにレコードを俺に押し付けた。
「私の望みは、私の歌声を世界中の人間に聞かせることだ」
たしかに迫力のある歌声だった。魅了されたのも間違いない。でも、と俺はへらりと笑った。
「冗談だろ、こんなボロボロのレコード。今はみんなスマホで音楽聞くんだよ。知ってる? スマホってほら、こういう小さい電話――」
「冗談などではない」
言葉を遮られて、俺はぎくりとした。
「私は本気だ」
「な……なにが本気だよ。夢を叶えたところで、どうするんだよ。だってあんたもう死んでるんだぞ? 意味ないだろ!」
「意味があるかどうかは私が決める」
静かな、しかしはっきりと通る声が、俺の口を噤ませる。
「私に協力するかどうかはそなたに任せよう。ただし、そのレコードに触れたそなたに、私は取り憑くことにした。呪われたくなくば、意地でも私の望みを叶えてみせよ!」
「は!? いやっ、おい……、卑怯だろ!」
廃墟じゅうに亡霊の高笑いが響いたあの日から、俺の隣には常にパヴェウが居座っている。
傲慢で、口うるさくて、死んでいるのが嘘みたいに力強い瞳を持っている。
彼は、奇妙奇天烈な俺の相棒だ。
*
『コンビネーションスピン、からのステップシークエンス……良いですね』
悲壮感漂う前半の演奏が終わりに差し掛かった。俺は弧を描いて氷上の中心へ向かう。
“私は本気だ”
再びパヴェウの声が耳元に蘇る。
ずっと不思議だったんだ。
どうして傷付くことを恐れずに夢を口にできる?
無謀だとわかっていて行動する?
臆病な俺は本気じゃないことを言い訳にして、逃げてばかりの人生を歩んできた。本当はずっと、本気になれる人間が羨ましかったんだ。
この四年間、あんたと過ごしてきてようやくわかったんだよ。
本気にならきゃ、手に入らないものがあるんだってこと。
なぁ、そうだろう、パヴェウ。
『いよいよ後半に入ります。この後、大きなジャンプが三つ控えています――』
弦楽器の音が、霧に融けるように消える。
遠くに佇む男の、大きく肺を膨らませる音が聞こえた気がした。
そして――。
――Ma il mio mistero è chiuso in me
パヴェウの声が空気を震わせた。
それは原始の時代から受け継がれてきたヒトの心の琴線を、根本から揺するような深い歌声だった。
圧倒的な力に抗いきれず、衣装の下を鳥肌が駆け抜ける。
その瞬間、俺の中のあらゆる感情が一切の姿を消した。
彼だって同じだろう。無念の死を乗り越えるとか、積年の思いを晴らすとか、建前や理屈なんてものはすべて吹き飛んでしまったのだ。
そうしてただ、歌える喜びに身を任せ、喉を震わせている。
俺は心の打ち震えるままに氷上を駆けた。
無尽蔵に湧き上がる歓喜と自信。
このプログラムを滑りきれるのは世界中でただ一人しかいないという自負。
めちゃくちゃな熱を帯びたパワーが、けれど冷静に身体を突き動かす。
しなやかに弧を描く四肢。
ぐらぐらと沸き立つ熱い塊をバネに高く跳ぶ。
クワド・アクセル――着氷!
『降りた……!』
会場が沸き立つ。
なめらかに滑走し、もう一度、ジャンプ。
音階を駆け上る、荘厳なるテノール。
クライマックスに向けての躍動。
『美しいスピンです。これこそが彼の真骨頂――』
ラストのコンビネーションスピンに入ると、ビブラートの波はいよいよ最高潮に到達する寸前だった。
ふたつの魂が、精神よりももっと深いところで縒り合わされていく。
――Ed il mio bacio scioglierà!
身体が指先から神の息吹に変わっていくのを感じる。
それは情熱の塊になりごうごうと渦を巻き、会場をまるごと飲み込んだ。
拍手が湧き上がる。
歓喜に満ちた喝采が鳴り止まない。
喝采が、鳴り止まない!
――今、すべての魂に、同じ瞬間を共にした奇跡を突きつけてやる。ここに永遠があると証明してみせる!
――All'alba vincerò!
最後の一節をパヴェウが歌い上げた瞬間、俺はダンッと片足を氷上に叩きつけた。
音楽が霧消する。
一切の名残を留めずに。
*
沸き起こる歓声も拍手も、どこか遠くの方で聞こえていた。
客席を埋め尽くすスタンディングオベーション。
次々と投げ込まれるギフトの雨。
パヴェウ。
身体中が熱に浮かされていた。
強者の仮面はどこかへ落としてしまったらしい。
茫然としたまま振り返った先にリンクサイドが見えた。コーチが涙を流しながら、手放しで喜んでいる。
隣にぽっかりと空いた空間にはもう、誰もいない。
俺はもう一度前を向いて、世界中から注がれるあらゆる情熱のただ中に立ちすくみ、天を仰いだ。
永遠はここにある。
そうだろうか。
そうであるといい。
さようなら、パヴェウ。
俺はもう振り返らなかった。
そうして力強く氷を蹴り、皆の待つキスアンドクライへと滑り出した。
2000字以内で、という制約のもと執筆した作品です。
連載ものとして想定していた物語のクライマックスを、この短編だけでも読めるように切り取ってまとめてみました。
加筆後は5000字程度。二人の出会いとその背景を少し詳しく書いています。