祠
あれだけすっきりと晴れていた昼間の空は、夕方に向かうにつれてあっけないほど簡単に灰色の雲に包まれた。
雨が降る気配はないが、気温はぐっと下がり吐く息が白く浮かぶ。
山道を黙々と登りながら、憂の息は少し上がっていた。
耳に入るのはまだ雪を含み湿っている地面を踏みしめる音だけだ。
家の近くにあるこの山の名を、憂は知らなかった。
近所に住む人の散歩コースとして程よく整備されながら、開拓の手は一切伸びず鬱蒼とした木々に支配されている。
都心ではほとんど見ることができない自然の塊は、見ようによっては少し不気味なほどだ。
憂にとってこの山は、友達のようなものだった。
元々友達が多くはない憂は、何か発散したい事が出来ると一人この山に登り、打ち明けた。
何も返してはくれない。
ただ黙って受け止めてくれるだけの都合のいい友達。
だから今日も、自然とここに足を運んでいた。
周りに人影はない。
散歩コースとは言えど灯りが不十分なため、暗くなる前にはみな山を降りてしまう。
冬も終わりに近付き日が伸びてきても、この時間に人がいるのは稀だった。
散歩コースに分岐点はない。
ただひたすらの一本道。
頂上は木々のないちょっとした広場になっていて、適当に置いてあるベンチから眺める町の光は下手な観光地にも負けない綺麗さだ。
遠くから向かってくる木々がなびく音に、ユウは我に返った。
だらんと垂れていた首を持ち上げると同時に、いやに冷たい攻撃的な風が全身を襲う。
少し後ろに仰け反りながら数秒の攻撃を受け流し、乱れた服を手で軽く整えて改めて顔を前に向けると、辺りがすっかり薄暗くなっているのに気がついた。
登り始めたときはこんなに暗くなかったはずだが、ぼーっと歩いていたからどのくらいの時間歩いていたかはわからない。
そして暗くなったからか、道を少し外れたところにある青色の光に、自然と意識を奪われた。
あれは、なんだろう。
青い光がもやのように立ち込み、その先で何が光っているか、目を細めてもわからない。
不気味だ。
あんなものは見た事がない。
ユウは吸い寄せられるように、青い光の方へ進路を変えた。
道を逸れるとまだ雪が残っている。
水滴をいっぱいに付けた背の高い雑草をかき分けて進むうち、ユウの足元はあっという間にびしょびしょになった。
ゆっくりと歩みを進めるにつれて、光の先の輪郭が少しずつ見えてくる。
あれは、祠だろうか。
祠なんてほとんど見た事がないユウには、それを祠と言い張るには少し自信がなかった。
ユウの背に少し届かないくらいの高さで、木の板と棒を器用に組み合わせたような飾りっ気のないシンプルな作り。
ユウに対して正面を向いているのか、中央には観音開きできそうな取っ手が2つ付いている。
足は今にも折れてしまいそうな細い棒が4本あるだけ。
大人が2人いれば、簡単に持ち運びできそうだ。
祠まであと数メートルというところまで近づいて初めて、青い光が祠から発されているわけではないことに気がついた。
祠の目の前、観音開きの窓の前に、小さな光の玉がふわふわと浮いている。
光は弱々しいのに、どうしてか祠をすっぽりと青く包み込んでいる。
ただの光ではこうはならないからか、気味の悪さが増していく。
行っちゃダメだ。
引き返せ。
逃げろ。
脳だけじゃない。
全身に浮かび上がる鳥肌が、ユウに緊急事態の信号を送り続ける。
それでもユウは歩みを止めることはできず、ついに光の玉に手が届くまでの距離にきた。
手が、まるで吸い寄せられるように、ゆっくりと玉へ伸びる。
玉が、手のひらに触れる。
その瞬間、光の玉がパッと消えてなくなった。
見続けていた光が消え、ユウの視界は祠も見えないほどの暗い闇に包まれる。
ガタンと、静寂を切り裂く大きな鈍い音。
突然の音に恐怖の声を上げる間も無く、ユウの身体は強い引力に引かれ、地面から離れた。
大きく開いた観音開きの窓が、ギシギシと鈍い音を立てながらひとりでにゆっくりと閉まっていく。
閉まりきると、辺りは再び深い静寂に包まれた。