1)夏休みに少女が目撃する
「最っ低!!」
朝のロードワークから戻って来た由美が、吐き捨てるように怒声を発した。
距離か本数を端折ったのか、あるいはペースを上げたのか、何時もより帰って来るのが早い。
「な、何だよ? イキナリ……。」
妹の叫びを耳にして、夏季休暇中に仕上げなければいけない課題レポートに、リビングのテーブルで頭を悩ませていた大学二回生の大庭晃人は、驚いて顔を上げた。
――なにやら波乱の気配がする……。
「ちょっとアキ兄、聞いてよ!」
中学二年生になった由美が、小学生の時みたいに晃人の事を『アキ兄』と呼ぶ場合には、およそ頭に血が昇っているものと相場が決まっている。近頃では両親の目が無い時には、恰好を付けている心算なのか、『アキト』と呼び捨てにしてみたり、『アニキ』なんて言葉を使ってみたりしてくるのだ。
そのくせ、母の前では『おにいちゃん』と猫を被っている。
涼しい内にレポートの構想を固めておきたかった晃人だが、諦めて妹の話しを拝聴する事にした。
ここで「後で。」なんて突っ放すと、妹は頑強にヘソを曲げる。
由美は汗まみれのトレーニングウェアのまま、晃人の前にドスンと腰を下ろしたが
「あっ、ちょっと待って。」
と冷蔵庫へと向かった。
そしてグラスに牛乳をなみなみと注ぐと
「芳野がフグを埋めているのを、見ちゃったんだよ。」
と言い捨てて、喉を鳴らして一息に飲んだ。
芳野道俊は由美のクラスメートで、鯰石中学校(通称 ナマ中)に通っている。
線が細く一見内気そうな少年で、陸上部短距離エースで日に焼けて引き締まった外見の由美とは好対照だ。
「道俊君なら、死んだフグを埋めてたって、別に不思議はないだろ?」
由美から牛乳の紙パックを受け取り、インスタント・コーヒーの顆粒を溶かしながら晃人が答える。
「彼は地面に捨てられて、日干しになったフグが可哀想で仕方が無いんだよ。由美も知っているじゃないか。」
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晃人と道俊とは、元々は由美を介さない友人同士である。
二人は近所を流れる鯰石川を、6㎞ほど下った河口部にある小さな漁港で、ちょいちょい顔を合わせる事のある釣り仲間だった。
鯰石川は水量の豊かな二級河川で、晃人が住んでいる辺りではソメイヨシノが見事な並木として河川堤防の堤頂横に植わっている。
だから春には花見客で賑わうし、秋には堤防の法面の芝生部分を曼珠沙華が真っ赤に覆うから、これまた見物客が押し寄せる。
けれどもソメイヨシノと曼珠沙華のオフシーズンには、河川敷のジョギング・サイクリングコースを散歩したり走ったりする近隣住民の憩いの場となっている。
河口近くは松並木だから、観光客が訪れることがないが、サイクリングや散歩にはうってつけだ。
この遊歩道を、晃人は自転車で漁港まで魚釣りによく通ったものだし、由美は桜並木付近をロードワークのコースに決めている。
雨の多いシーズンには、河川敷公園やジョギングコースの遊歩道が水没して、地元テレビ局のクルーが深刻そうな顔つきで荒れる川面を撮影している事もしばしばだが、日頃は穏やかで水の綺麗な川だ。
漁港ではスズキやクロダイといった大物も稀に顔を見せる事があるけれど、メインの釣り物は夏の豆アジと秋のマハゼだ。
アジやハゼで賑わうハイ・シーズンには大勢の釣り客が訪れるけれど、それ以外の時期には人影もまばらなので、常連同士は自然と顔なじみになる。
そんな中、冬場に大物マコガレイを連続水揚げし、一際注目を浴びたのが、まだ小学生だった時の道俊だったのだ。
一方で道俊は、豆アジ餌の飲ませ釣りやフローティング・ミノーを使ったルアー釣りで、豪快にスズキを仕留める晃人を、憧れの目で見ていたらしい。
おずおずと「教えて下さい。」と申し出てきた道俊に、晃人が快く予備のルアー竿を貸してやり、一緒にスズキを攻めたのが交友関係の始まりだった。
共通の趣味の他に、二人に『大庭由美』という別の接点が有る事を知ったのは、今年のゴールデン・ウィークの事だ。
由美は釣り餌のグニャグニャ動く青イソメや、防波堤の上をカサコソと高速で走り回るフナムシを「キモい。」と言って滅多に漁港に姿を見せない。
(園児の頃は、両親に連れられて漁港に遊びに来ると、両手に持って遊んでいたり、口に入れたりしていたにも関わらず、だ。)
けれどもその日は、どういう風の吹き回しか「アニキ~、釣れてる? ジョギングついでに、見に来てやったよ~!」とか恩着せがましく口にしながら、上機嫌でコンクリートの防波堤の上を大きなストライドで刻みながら風を切る様に走って来たのだ。
「んんん、駄目だァ。丸っきり、アタらん。」
晃人が大声で返事をしながら「妹なんだよ。ウルサくて、悪ぃ。」と隣の道俊に目をやると、彼は冷凍光線を浴びたみたいにフリーズしている。
一方、由美の方も「ちょっとぉ……どうして?」と声を詰まらせ、棒立ちになって固まってしまった。
――二人の反応が不審過ぎる。……つぅか、由美と道俊君は少なくとも知人関係にあるのは間違い無いな。
晃人が『二人が恋愛関係にあるのではないか』と疑わなかったのは、彼が常日頃から『妹はもう少し性格が穏やかにならないと彼氏を作るのは困難であろう』と決めつけていたからだ。
「知り合い同士?」晃人が二人に訊ねると
「クラスメート!」と、ちょっと怒ったように由美が答える。「アニキ、何で芳野クンと一緒なのよ!」
「何だよ、それ。道俊君とは彼が小学生の時からの付き合いなんだぜ? ここで顔を合わせたら、挨拶したり一緒に釣りしたりする仲間なの! ……そう言うオマエはどうなんだよ? 道俊君と知り合いだなんて、聞いた事無かったぜ?」
「芳野クンとは、小学校は別だったんだよ。」と由美が道俊と知り合った経緯を解説してくれる。「中学に入って、学区が広がったから同じ学校に通うように成ったのね。この春に同じクラスになるまでは、芳野クンの事、詳しくは知らなかったの。スゴイ秀才がいるって噂は聞いてたけど。」
「……中二になってからのクラスメートか……。オマエ、まさか道俊君をイジメてるんじゃないだろうな? 固まっちゃってるじゃないか。今までにそんな様子、見た事無いぞ?」
二人が対立関係にあるのなら、道俊君側に立って参戦しようと考える兄である。
妹を嫌っているわけではない(むしろメチャクチャ可愛いと思っている)が、彼女が誤った事をしていれば、それは正してやらねばなるまい、と思ったからだ。
そのくらい晃人は道俊という人物を買っている。
一方で、由美に限ってまさかイジメなど、とも感じている。
――馬鹿だが、正義感は強いヤツだからなぁ……。
ただ正義感というヤツは、誤解を元にした一方的な盲信に陥り易いなど、時に歪んだ自己正当化をもたらす事もある。
「違うよォ。芳野クンは頭脳明晰・超優秀で、人望が厚いんだから。次期生徒会長候補なんだよ? ……と言うか、会長選に立候補しないなら、アタシが推す。本人は迷惑がってるかも、だけど。」
「いえ……僕なんかより……大庭さんの方が適任だと思います。」道俊は頭を振って由美の発言を否定する。「文武両道だし、統率力も高いし……。僕はどちらかというと参謀タイプの人間だから。」
晃人は二人が、生徒会長という面倒な役職を互いに押し付け合っているのかな、とチラリと考えたが、由美は我が妹ながら姉御肌の気の良い少女だし、道俊君は由美が言う通り練れた少年だから、互いに認め合っての推し合いなのか、と納得する。
それならば自分が口を挿むような話ではない。勝手にやっていてくれ~!! ――というのが、兄の正直な感想だ。ツマラナイ男が妹にチョッカイを出していたのなら、「許さん!」とか爆発出来たのにな!
「で、芳野クンはアニキの事、私の兄弟であるって疑った事は無かったわけ?」
今度は由美が道俊を問い詰める。「小学校の頃からの付き合いだったなら。」
「僕、オオバさんの事は、大きな場所の『大場』さんだとばかり思ってたんだよ。まさか大庭さんのお兄さんだとは、思いもよらなかった。」
まあ、そんなモンだな、と晃人も道俊の発言に同意する。
趣味人同志の交流など、コアとなる共通の趣味以外の部分には、驚くほど無頓着なとことがあるからだ。
現に今まで晃人も、道俊の交友関係など全く興味が無かったのだから。
「それはそうと、二人は何で生徒会選挙にそんなに熱くなってるの? 具体的な学校改革の野望でもあるわけ? もしくは、やりたいイベントが有るとか?」
不思議に思った晃人は、そんな疑問を放ってみる。
中学校の生徒会なんて、シビアな見方をすれば学校配下の雑用係だ。
内申点は上がるかも知れないけれど、生徒側がイニシアティブを握って学校側にモノ申す、なんて無理なのだから。
「親ネコ派と反ネコ派の対立を、何とかしたいって考えてるのよ。」
由美の発言は意外なものだった。
「親ネコ派と反ネコ派ぁ?」晃人は思わず疑問の声を上げた。「今、ナマ中って、そんな事でモメてるの?」