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第7章『避難勧告』

 それは警察手帳のようだった。水戸黄門の印籠のように、はっきり見せてくれるわけでないから、よく見えなかったが。

 とすると、この男は刑事?

 大きな体に隠れて気がつかなかったが、後ろに二人の制服警官の姿。どうやら本物らしい。

 調整室に熱い緊張感が走った。

 責任者の気谷ディレクターが前にでた。

「どういうご用件でしょう? 本番中ですのでお静かに願います」

 臆することなく、気丈な応対だ。

 警察が来た理由は一つしかない。

 人々に大きな影響を与える放送局が、こともあろうに「陸地球が閉鎖される」と吹いて回っているのである。不安を煽り、混乱させようとしているとして、当局が介入してくるのは当然といえた。が、あまりに早すぎる。放送が始まってから、まだ三十分ほどしかたっていない。警察がこれほど早く動くとは。これは驚愕に値した、といえば失礼だろうか。

 考えられるのは、遺跡のカケラの大量飛翔を予言したことで北海道中央放送に注目していたというのと、今も街中に転がっている遺跡のカケラの対応でこの近くを回っていたからなのだろう。

「いえ、ご心配なく。犯罪捜査じゃありません」

 スタジオ内で放送をつづけている笛野レイナを一瞥し、刑事は切り出した。

「率直に伺います。陸地球は本当に閉鎖されるんですか」

 鋭い眼光が、気谷を射抜くようだった。

 はい、と気谷は目線を逸らすことなく返答した。

「我々は確信しています。陸地球の入り口は、明日必ず閉鎖されるでしょう」

「その……」

 と刑事は言いにくそうに言を継いだ。

「――遺跡がそう言ったと?」

 気谷はうなずいた。

「こちらへどうぞ。論より証拠、聴いていただきましょう」



 北海道警察・南富良野署・刑事課の校山だと自己紹介した。

 狭い調整室にさらに人が増えたので、全員は入れず、いっしょに来た警官二人は気の毒に廊下で待たされることになった。室内はいっぱいで、会議机の回りの椅子にすわることさえできなかった。息苦しい。

「これが、キングブロッサムのタネ……」

 校山刑事がまじまじと机上を見つめた。

 これらが空を飛んでいたのを校山も目撃していた。どういう原理で空中に浮かんでいたのか、まったくわからない。近くで見ても、首をかしげるばかりである。

 表面を撫でてみた。石の感触で、風船のような弾力は感じない。たとえ内部が空洞で、水素やヘリウムが高圧で詰められていたとしても、一センチたりとも浮かびはしないだろうと思えた。

 そのとき――。

《陸地球は閉鎖する》

 校山は「うっ」と呻いて、絶句した。キングブロッサムの花からの声が彼の脳にも届いたのだ。耳からであれば、人為的細工を疑っただろうが、その余地はまったくなかった。

 しばらく声も出ず、だが、咳払いし、立場上もっとも理性的であらねばならないと、努めて平静を装い言った。

「しかしこれだけの情報で……。本当に陸地球閉鎖が起こるとは……」

「十分な根拠だと思います。現に遺跡のタネは空を飛びました」

 気谷が言うと、校山は「ううむ」とうなった。

「それにしても、明日とはなぁ……」

 壁にかかる時計を見る。六時半。日付がかわるまであと五時間半。いかにも早すぎた。

「とにかく、人々の避難を自主的に任せていては、大混乱になる。今後は警察の指示に従って避難を呼びかけるようにしてもらいたい。よろしいかな?」

「では、警察がちゃんと動いてくれるんですね?」

「陸地球が閉鎖する可能性がゼロではないとなれば、適切な処置をとらねばならないだろう。何も起きなかったら、それはそれでいい。が、万が一のことを思えば、できることをしなければならない。信用してくれていい」

「わかりました」

 その瞬間、硬かった気谷の表情に、笑みが戻った。

「もとより我々はそれを望んでいたんです」

「すみやかに全員の脱出ができるよう、すぐに態勢を整えます。で――」

 と、校山は室内を見回した。

「この件に関して、一番詳しいのはどなたですか。ぜひ同行していただきたいのですが」

 さっと音がしそうな勢いで、視線がツユミとキミカに集中した。

 ツユミは一瞬ぎょっとした。

 そう。今回の件に関して最も詳しいのは、だれあろう、ツユミとキミカなのだ。警察が乗りだしてきたら、真っ先に事情聴取される身だった。キングブロッサムの花を拾ってから、丸一日が経過している。キングブロッサムのタネの声をだれより多く聴いていた。

 警察に協力を求められるのは当然といえた。理屈で考えていけば十分想像できたことだったが、こう展開が早いとじっくり立ち止まって思考を巡らしている暇がない。そのときになって、目を白黒させるばかりだ。無論警察に同行するとなれば、しばらくは(どれくらいの時間かは今の時点でまったく予測がつかない)拘束されるだろう。

 全員の視線をたどった校山が、ツユミとキミカに目をとめた。

 そのとき、駅村が咳払いした。

「私が行きましょう」

「駅村さん!」

 伝法があわてた。普通のロケならディレクターが行方不明になっても、大変だとはいえまだどうにか乗り切れるが、このイレギュラーな事態にあって現場を離れてしまうのは困りものだった。しかも、警察が求めるところの当事者であるなら仕方がないと諦めもつくが、駅村はそうではない。おそらく、コトをここまで大きくしてしまった責任を背負い込むつもりなのだろう。

「ちょっと待ちぃな」

 キミカが長い沈黙から解放されたように、鋭く言い放った。

「ウチらに気ィ使わんでもいいで。刑事さん、ウチらが第一発見者や」

 と胸を張って。

 ツユミはキミカの度胸に一瞬退いた。普段経験できないようなことが転がっていたら、目を輝かせて首をつっこんでいくキミカのことだから嫌な予感はしていたのだ。

 面倒なことになるのかな、ならないのかな、とツユミが思っているうちに、

「ご協力感謝します」

 校山と行くことになってしまった。



 生まれて初めてパトカーに乗った。よもや長い人生においてこれに乗ることになろうとは……、旅行に出る前には想像すらしなかった――するわけがない。

 もっとも、逮捕されたわけではないのだから、だれに後ろ指をさされることもない。キングブロッサムの花を立ち入り禁止区域までクルマで入って拾ったのは、たしかに違法行為ではあるのだが、かかる事態のため、今回は不問に付すと言われたときには、二人ともやはり少し気まずかった。

 パトカーはセドリック。広い後部座席に乗った。校山刑事は助手席、廊下で待たされた二人の警官の片方が運転。もう一人は連絡係としてスタジオに残った。

 無線器でどこかと交信する校山。第一目撃者を発見、などと話している。

「どこへ行くんですか?」

 ツユミは訊いた。陸地球の外へ出るなら、ひとまず安全なのだが。

「駐在所ですよ。陸地球に警察署はないので、駐在所が今回の臨時の対策本部になるんです」

「駐在所……」

 交番よりちょっと広いかもしれないが、ほとんどかわらない。何人もの人間が会議できるほどの広さはないだろう。臨時とはいえ、無理がある。

 パトカー出発。夕暮れの市街地は、気の早いイルミネーションが点灯しだして観光地らしく飾りたてられ、とても明日大異変が起こるといった様子を感じさせなかった。

「協力って、どれくらい時間がかかるのかしら」

 ツユミはささやくように、隣にすわるキミカに言った。どの程度のことまで想定しているのか確かめたかったのだ。

「さぁ。んなんわかれへん。でもはっきりしてんのは、今夜のジンギスカン鍋は食べられへんっちゅうこっちゃ」

「あちゃー」

 ツユミは額をぺちんと叩いた。

「たしかにそれは我々にとって大きい。楽しみにしてたのにな……って、そっちかい」

「でもお腹すいたやろ」

「うん……」

 素直に同意した。

 どのみち今ホテルに戻ったところで、食べられないだろう。たとえホテル側が外の騒ぎに動揺することなく誠意をもってもてなしてくれたとしても(たぶんそうしてくれるだろう)、二人のほうがのんびり料理を味わうどころではなく、とっととその夜の宿泊をキャンセルして(たとえキャンセル料をとられても)R1で陸地球脱出を試みていたろう。R1はレンタカーで今日まで借りる予定だったが、もちろんいちいち律儀に返しに行くつもりはない。レンタカー店にしても、陸地球が閉鎖されれば失われてしまうクルマだからと、大目にみてくれる――いや、むしろ大事な商品を守ってくれたと感謝されるかもしれない。ちゃんと返せれば、の話だが。

「そういえば、荷物、ホテルに置いたままだったよね。取りに行ってる暇、あるかしら」

 夕食のことを聞いて、そんなことが気になりだした。マラソンに備えてもってきたシューズやウェアもキャリーケースに入っていた。あきらめるには高価すぎる。

 パトカーが路肩に停止した。どうやら到着したようだ。ほんのすぐそこだ。一キロと離れていないかもしれない。

 交番、より少し大きかった。草色の急傾斜の三角屋根の二階建て。壁は淡いブラウンに塗られており、窓は黒い枠でちょっと出窓にしつらえられ、いいアクセントになっていた。まるで喫茶店か欧風レストランを連想させる外観だった。

 陸地球の町並みに違和感なく、「陸地球駐在所」と縦書きされたプレートがなければ、だれも駐在所だと思わないだろう。

 校山はシートベルトを素早くはずすとパトカーを降り、後部座席のドアをあけてくれた。

「着きました。なかへどうぞ」

 若い男にはない紳士的態度。外見にももう少し気を使ってくれれば二重マルなのだが。

 パトカーを降りると冷気が足元から這いあがってきて、ツユミは身を縮ませた。

「早よ中入ろ」

 と、キングブロッサムの花を大事そうに両手に抱えながら、キミカがあとから降りてきた。そして駐在所をひとめ見るなり、

「ドア開けたら、カウベルでも鳴りそうなぁ」

 ツユミと同じことを思っていた。

 校山にうながされて、ガラスの自動ドアから入った。

 ほんのりと暖かい。

 五メートル四方ほどの広さの部屋に、受付カウンター、テーブルとそれ用の椅子が四脚、事務机が二つ置かれていた。隅っこには小さな観葉植物クワズイモが枯れそうな葉を広げ、壁には防犯標語のポスターが二種類、少しのズレもなく同じ高さに並べて貼られていた。

 制服警官が二人いて、一人は電話中で、もう一人は校山に向かって敬礼した。

「どうだ、状況は?」

 と校山。

「はい。すでに渋滞が始まってます。住民からの問い合わせも多くなってきました」

「旭川からの応援は?」

「今、こちらへ向かっているところです。旭川でも大騒ぎだそうですよ」

「どういうことだ?」

「遺跡の花が飛び出してきたことで、なにか大異変でも起こるのでは、というデマも、一部で流れているようです」

 校山は渋面をつくった。

「困ったもんだ。早く対策をたてないとな」

 すぐに渋滞整理に向かうよう言うと、命じられた警官は外へ出ていった。今しがたツユミとキミカを運んできた警官はパトカーに残ったままで、二人して渋滞整理に赴くのだろう。

「こちらへどうぞ」

 校山は奥の部屋へつづくドアのノブに手をかけた。「会議室」という小さなプレートを貼りつけられた木製ドアの向こうは、ここより少し大きな部屋になっていた。

 折り畳み式の長机が二つ、ぴったり付けられていて、その周囲にパイプ椅子がずらりと並ぶ。

 そこに四人の男たちがいた。三人は制服警官だが、一人は私服なので刑事だろうか。携帯電話で話をしながらメモをとっていたり、ノートパソコンを開いて操作していたりと、忙しそう。

「ちょっとみんな、聞いてくれるか」

 校山が部屋の全員に呼びかけた。

 電話中以外の三人が振り向いた。その視線が校山ではなく、明らかにツユミと、キングブロッサムの花を抱えているキミカに向けられていた。



 校山の一通りの説明のあとの一同の驚きは、もうお馴染みの光景だった。

「それじゃ、他の石も、同じようにしゃべるんですか」

 若い警官が、口から泡を飛ばしながら質問した。

 校山は、いや、とかぶりを振った。

「そうじゃないらしい。今のところ、この石だけのようだ。石が語った、なんて報告、来てるか?」

 質問した警官は口を閉じた。

 代わりにもう一人の警官がつぶやくように言った。

「でも、いったいなぜ……」

 当然の疑問だった。なぜ石が話すのか。しかもこの石だけが。

「それはおれにもわからん。また、今は詮索している場合ではない。我々がここで考えたところで、なにも解明できまい。ただ確かなのは、こいつの予言が的中したってことだ」

「でもそれは一度だけなんでしょう?」

 警官は食い下がった。予言、となると、とてもそこまでは信じられないといった響きがあった。

 そうだ、と校山はうなずいた。

「だが、もう中央放送ラジオが流してしまった。おまえがどんなに信じなくても、すでに市民は動きだしている。ということは、すでに事実とかわらん。陸地球閉鎖が起きようと起きまいと、我々はそのつもりで対処しなくてはならんだろう」

 警官は黙り込んだ。理解のそとにある現象に巻き込まれることが理不尽でならない、といった表情。

「ということで――」

 と、校山はさっきからつっ立ったままのツユミとキミカに向かって、

「この石が、明日のいつごろ陸地球閉鎖が始まるのかを言ってくれるのか……。前回、いつ石の一斉飛翔が始まるのか予言したときのことを詳しく説明してもらえませんか」

 明日、といっても明日の何時頃なのか。それがわかるのとそうでないのとでは、全然状況がちがう。最大二十四時間の差は大きい。

 そして、「閉鎖」というのは、どんなふうに起きるのか。時間をかけて徐々にゲートが閉じていくのか、それとも突然予告もなく通路が消失してしまうのか。完全閉鎖なのか部分閉鎖なのか。さらに、閉鎖後再び開くことはあるのか。あるとしたら、それはいつのことか。

 とにかく情報が足りなさすぎた。警察といえども、情報がなければ動きようがない。どんな情報でも欲しいところである。

 で、まずは事情聴取。

 この石から、どういう過程を経て情報を得るに至ったかを明確にし、後の対策とするのである。

 ツユミとキミカは交互に話し始めた。が、一度ラジオの生放送でしゃべっていたキミカのほうが、要領よく上手に説明するので、ツユミは後半下駄をあずけたようになってしまった。

 説明が終わると、校山は、ううむ、とうなった。

「とくになにがきっかけになった、というわけでもないようだな……」

「あたしもそう思います。だんだん言ってる意味がわかってくるんですが、いつどんなことを話してくれるのかはわからないんです」

 そのとき、場違いな着メロが流れ、私服の男が「ちょっと失礼」と言って携帯電話を取り出した。

 三十秒にも満たない会話のあと、電話を切った男が一同に向かって言ったことに、だれもが驚きを隠せなかった。

「富良野市役所から今電話がありまして、陸地球に避難勧告が出されました」



 避難勧告――。市役所の出張所に、対策室が設置された――。その電話を受けた私服の男は、富良野市役所陸地球出張所に勤務していて、今回のことで警察へ出向いていた職員だった。

 自治体が動きだした……。

「そんなことが……」

 校山は言葉を飲み込んだ。

 ツユミとキミカも同様だった。確たる情報もなしに住民への避難勧告を出すとは……市役所はそれほど柔軟だったろうか。

 だれもが想像していなかった意外な知らせに、どよめきすら上がった。

「市役所も、しゃべる石を確保したのかもしれへんな」

 キミカがぼそりとつぶやいた。

「えっ?」

「うん。だって、おかしいやん。役所が根拠もなしに動くかいな。今のところ、根拠いうたら遺跡のメッセージしかない。ちゅうことは、役所もしゃべる石を見つけたんや」

「しゃべるのは、わたしたちが持ってる一つだけじゃなかったということ?」

「たぶんな。だいたい不自然やんか。たった一個しかしゃべる石がないやて。遺跡だけでも二十も在んねんで」

「そうよねぇ……」

 ツユミは納得した。と同時にほっとした。

 今回の異変を予見した、しゃべるキングブロッサムのカケラの第一発見者であり、唯一の情報源をもつということで、一種特別な存在として重い責任を背負わされるのかと――いや、もう半分そうなっていた――不安だったから、それから解放されそうな予感に、胸を撫でおろしたい気分だった。

 が、キミカは不服そう。

 訊かなくてもツユミにはだいたい見当がついた。せっかくステージの真ん中でスポットライトを浴びていたのに、急に退場させられるのが残念なのだろう。しかしいつまでも警察につきあっていたら、脱出の機会を逃してしまうかもしれない。ツユミはそれが気が気でなかった。

 校山があわただしく指示をだした。

「道警に応援を要請しよう。人手が要りそうだ。それとおれは役場の出張所へ行く。対策室から指示を出すからここは任せたぞ」

 市役所の職員と二人の警官に同行するよう言うと、キミカに向かって、

「この遺跡の一部はこちらに預からせてもらいたい。よろしいね」

 口調は柔らかいが、有無を言わさぬ目だった。キングブロッサムの花をよこせ。

 もともと所有権があるはずもなかいから断れない。はいどうぞ、と言って差し出したものの、キミカの心中穏やかでないのはツユミにも想像できた。もちろん、おもちゃを取り上げられた子供ではないのだから、そんな素振りは表に出さなかったが。

「きみたち、わざわざ来てもらってすまなかったね」

 キングブロッサムの花を受け取って、校山。

「避難勧告が出された以上、きみたちも避難してください。さっきのスタジオにクルマを置いているのかね」

「いえ、クルマはレンタカーです」

「ホテルに荷物が置きっぱなしやねん」

「それならそのホテルまで送っていこう。ホテルなら送迎バスがあるし、宿泊客はそれで脱出できるだろう」

「はい、お願いします」

 校山は部屋に残っている警官にツユミとキミカを送っていくように言うと、ドアを開けて出ていった。

 これで、この駐在所に残るのは、会議室の外――最初の部屋にいた警官一人だけとなった。彼はずっと電話の応対に忙しい。

「役所の出張所へ行く。留守を頼む」

 と校山は声をかけると、警官はちょうど電話を切ったところだった。

「はい、わかりました」とこたえ、「しかし、住民や、道内から問い合わせが殺到して、どうこたえていいやら……」

 困惑顔の警官。

「現在真偽を調査中、としか返事のしようがないな……。とにかく、陸地球に避難勧告が出されたから、大忙しになる。ここへはなるべく頻繁に電話するようにする」

 早口で言い、避難勧告と聞いてびっくりした顔の警官を残して出ていった。同行する役場職員らが自動ドアを抜ける間に吹き込んだ外気に、警官は二の腕をさすった。

「これで晴れて自由の身ってわけね」

 ツユミは明るく言った。お腹も減っているわけだし、いつまでも拘束されていてはたまらなかった。

「うん」

 が、キミカの返事はどこか上の空。キングブロッサムの花を供出させられたことがそれほど惜しかったか。いや、理屈では納得しているのだ。ただ、テレビ局のディレクターに話をつけ、生放送で驚愕すべき異変を知らせ、展開によっては一躍時の人になっていたかもしれなかったわりには、あまりに幕切れがあっけなさすぎるのだ。なにか、ドラマの終盤を録画し忘れてそれっきりといった気持ちにも似て。

「では行きましょう」

 留守番一人を残し、ツユミとキミカを送っていくよう言われた警官に促されて、そろって外へ出た。

 駐在所横のカーポートにはミニパトが一台残されていた。ダイハツムーブだった。

 運転席に乗り込んだ警官はがっしりした大柄な男で、ミニパトにはすごく不釣り合いに映った。後部座席に二人が落ち着くと、発進。

 警官は、校山刑事とちがい、この駐在所に一年ほど前から詰めていたので陸地球の地理には明るいのだと話してくれた。行き先のホテル「明雪館」の場所はよく知っていた。

「せっかくのご旅行なのに、大変なことになりましたね」

 と警官は同情してくれた。

 ええ、まぁ、とツユミは弱く微笑み返した。もし第一発見者でなかったら、ここまでバタバタとあわただしく振り回されてはいなかっただろうから、ある程度は身から出たサビといえなくもなく、警官の言葉に素直にうなずけなかった。が、たとえそうでなかったとしても、陸地球が閉鎖されるのは避けようがないわけで、そういう意味では「不幸な事故」に遭ったといえる。ただ、一方で、他ではできない貴重な体験もできたわけだし、そう考えると、あながち不幸とばかりもいえないだろう。

 むしろキミカはこうなったことを歓迎しているきらいがある。もっとも、無事に脱出できれば、の条件付きであるが。

「ホンマや」

 キミカはしかしずうずうしくも平気で肯定した。

「せっかくマラソンの用意してきたのに、台無しや。参加費、返ってくるんかいな」

「あんた、マラソンが中止になっても、気にしてなかったじゃない」

「わかってへんなぁ」

「なによ」

「なぁ、お巡りさん。お巡りさんは、最後に脱出すんねやろ」

 キミカはさっと話題をかえた。それでツユミは理解できた。単に警官の話に合わせているだけだ、と。話の真偽はどうでもよく、その場の空気が流れていけばいいのだ。キミカのそういうところに、なかなか気がつかないツユミだった。

「はい、たぶんそうなるでしょう」

 警官は真面目にこたえた。「住民の避難が最優先されますから」

 窓の外では、土産物店がところどころでシャッターを下ろそうとしていた。閉店時間かと思いきや、二十四時間あいているはずのコンビニエンスストアまでシャッターを下ろしていたことから、避難勧告に従って、脱出しようとしているようだ。

「でも、不安になるでしょ? もしその間に陸地球が閉じてしまったら」

「この職業に危険は付きものですよ。とはいえ、まさかこういうことになるとは思ってもみませんでしたけどね。平和でのどかで、北海道でありながら雪さえ降らない。永遠に存在するとは思ってませんでしたが、まさかね……」

 ツユミはうなずいていた。陸地球という、現代科学を超えた存在なだけに、その動きも予測しがたい。だが二十八年という時間がそれを日常化してしまい、いつなにが起こるかわからないという可能性を人々の心から薄れさせていた。だから今回のことは、ここが異世界である、と思い出させてくれたともいえる。そしてのちにあの二十八年が夢だったと語られるのだろう。

 サイレンは鳴らさず、静かに走行するミニパト。

「しかし、どんなことがあっても、全員を脱出させないといけない。それが我々の務めです」

 優等生のこたえ――立派な心がけの警官である。

 明雪館が見えてきた。

 本当は陸地球の外まで送って行ってあげたいんですけど、と警官は申し訳なさそうに言った。

 正面玄関につけてくれた。送迎用マイクロバスが一台、エンジンがかかって出発直前といった様子。宿泊客だろう、座席の半分ほどがうまっているのが見えた。パトカーがやって来たのを何事かと見ている。

 礼を言いながらミニパトを降りた。

 警官が敬礼し、ミニパトは去っていった。

 玄関から入ろうとしたら、ホテルのスタッフとばったり鉢合わせた。ゆうべ部屋に案内してくれた仲居さんだった。ずい分あわてた様子だった。

「お客様、大変です。さきほど陸地球に避難指示が出されたんです。なんでも、陸地球が消えてなくなるとかで……。お部屋に戻っておられなかったんで電話をおかけしようとしていたところでした。とにかく、送迎バスで外へお送りしますので、急で申し訳ありませんが、ご用意をお願いします」

 本当に申し訳なさそうに頭を下げた。

 ツユミとキミカは互いに顔を見合わせ、苦笑した。たぶん、今回の顛末を一番詳しく知っているのは自分たちじゃないだろうか。舞台裏を知っている二人の涼しい態度が、仲居さんには意外に思えたかもしれない。

「わかりました。すぐ用意します」

 ツユミが返答した。もとからそのつもりで戻ってきたのだ。

 それにしても、避難指示とは。

 避難勧告とは、災害の起きる可能性があるときに出され、避難指示は実際に災害が起きているときに出されるのが普通である。今回、災害が起きてもいないのに勧告から指示に切り替わった。起きてからでは遅いという役場の判断なのだろう。いよいよものものしくなってきた。

 フロントでカードキーをもらった。ちょうどやってきたエレベータに乗ろうとすると、大きな荷物を抱えた夫婦らしき宿泊客とすれちがった。玄関前に停まっているバスに乗るのだろうか、いきなり宿を追い出されることに不機嫌な表情がみてとれた。ついさっきチェックインしたばかりなのかもしれない。

 二階の部屋へ急ぐ。

 ドアを開けて入ると、きれいに片づけられた部屋の一番奥、窓際のフローリングに置いたキャリーケースを取りに行く。こまごまとしたものはすでにキャリーケースへ入れてあったから、あわてて荷物を詰め直す必要はない。結局、せっかくもってきたシューズとウェアは出番のないままである。

 クローゼットにかけてあった着替えをとると、もうもって出るものはない。念のために忘れものはないかと一通り見回して(おそらく忘れものをしても永遠にもどってくることはない)いると、ツユミの携帯電話が鳴りだした。メールではなく、通話だ。表示を見ると、カレだった。そういえば、そろそろレッスンの終わる時間だ。

「はい、もしもし」

 なんだか妙に緊張した。

「あっ、今いい?」

 ほとんどメールばかりで電話なんて滅多にかけてこないのに――もっとも、それはツユミも同じだが――、そのせいか、ひどく新鮮に感じた。

「ん。いいよ。なに?」

「『なに』じゃないだろ。今、テレビ見てたんだけど、たいへんなことになってるじゃないか! だいじょうぶか? ちゃんと帰ってこれるんだろうな」

 早口でまくしたてる声に、切実な気持ちが含まれていた。

「ええ、まぁ……たぶん、だいじょうぶ。これから脱出するから」

 陸地球の外では今の状況がどう伝わっているのかわからないが、当事者の思いとはかけ離れた報道がされていることはよくある。その状況下に置かれている人よりも部外者のほうが深刻に受け止めていたり。

「キングブロッサムはなんて言ってるんだ?」

 彼はだんだん興奮してきているのか、さきさき話し始める。

「え、それが……」

「こっちから質問してみたか? どう言ってた?」

「え……?」

 キミカとともに部屋を出て、電話しながら廊下を進む。話し声が薄暗い廊下に反響する。

「キングブロッサムの花に、なにか訊いてみたんじゃないのか?」

 数瞬絶句していたツユミだったが、彼が重ねて詰問してきて我に返った。

「ううん。質問なんかしてない。そうか、こっちの言葉もわかるかもしれないんだ!」

 ツユミは叫ぶように言った。

 気がつかなかった!

 キングブロッサムからメッセージが伝わってくる――。その現象があまりに衝撃的で、つい聞き耳をたてることばかりに一生懸命になっていて、人間側からアクションを起こそうなどと思いつきもしなかった。

 ツユミたちだけではない。放送局の駅村たちも、警察の校山たちも、だれもそこまで考えられなかった。すべては、非現実的な現象と、そのメッセージが伝える内容を前に、あたふたと動き回り、対処することしか神経を使っていなかったのだ。だいたい、石には耳がないのだし。

 しかし――。

 それに気づかされても、もはやキングブロッサムの花は、二人のもとにない。第一発見者として華々しくスポットライトを浴びかけたのだが、すでにそれは夢のようだったと回想する過去でしかなくなっていた。今や一介の旅行者だ。

 テレビで見たとカレは言った。ということは駅村も忙しく立ち回っているのだろう。もうツユミたちに関わっている場合ではないかもしれないし、警察だってそうだろうから、今後ツユミたちがキングブロッサムの花に接触することはないだろう。

 エレベータで一階へ移動している間も通話はつづいていた。

 ツユミは説明した。

「キングブロッサムの花は警察に引き取ってもらったの。あたしたちはこれからホテルの送迎バスで脱出するから心配ないわ」

「そうか……」

 おそらくつながりにくくなっている電話を何度もかけてくれたのだろう。キングブロッサムのことはどうあれ、とにかく安心させてあげないと、とツユミは思った。

「電話してくれてありがと」

 自然、そんな言葉がでた。「あとで必ず電話するよ」

 そして、通話を切った。



 マイクロバスに乗り込むと、もう大方座席はうまっていて、二人はキャリーケースを抱えながら空いていた後部座席におちついた。

 宿泊客たちは突然の避難指示に、戸惑いを隠しきれない様子で口々に不満や不安を漏らしていた。情報不足でイライラしているのだろう。ラジオを聴いていたり、携帯電話でテレビを観ていたりする人もいた。

 ほどなくして蝶ネクタイをつけたフロント係の男が小走りで乗り込んできて、運転手に合図、ドアが閉まった。

 マイクロバスが動きだすと、フロント係は運転席のすぐ傍らに立ち、マイクをとって客席のほうを向いた。

「えー、たいへんお待たせしました。これよりバスは旭川市内へ参ります。本日は当明雪館のご利用、誠にありがとうございました。本来でしたら当ホテルで旅の疲れを十分とっていただくところでございましたが、陸地球全域に避難指示が出され、やむなく本日のご宿泊を中止させていただくことになりました。遠方からお越しのお客様にはたいへんご迷惑をおかけします。謹んでお詫び申し上げます」

 一礼。

「本日、旭川市内の別のホテルにいくつか部屋を確保しました。今夜はそちらへご宿泊となります。なお、費用は当明雪館が負担しますのでご安心ください。また、お食事がまだお済みでないお客様もいらっしゃいますので、ここにお弁当を用意しております。ホテルの食事には及びませんが、ささやかながら、サービスさせていただきます」

 と締めくくった。

 やたっ! とキミカがガッツポーズ。

「やっぱ、ええ旅館選んだわ。お腹減ってきたし、今夜はなんも食べられへんのかと心配やってん」

 配られた弁当は幕の内だった。ペットボトルのお茶も用意されていて、殺気だっていた車内の空気がいくぶん穏やかになった。やはり、人間、空腹だとイライラしやすいのだ。

 ツユミは流れゆく窓外の景色を見る。

「これが見納めになるのか」

 とつぶやき、さめた海老フライに箸をのばした。

 キミカがむさぼるように弁当を食べ始めた。

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