第3章『キングブロッサムの花』
明雪館。純和風建築二階建ての荘厳なホテルが、今夜と明日の二日間、二人の陸地球滞在中の拠点となる。
ここを選んだのは、予約をいれたキミカの好みによる。ツユミなら、ペンションに決めるだろう。
拾った花はキャリーケースにも入らず、いったん部屋に入って、あとからR1にとってかえし、上着で被ってこそこそと運び込んだ。ツユミはべつにそこまでしてホテルに持ち込まなくても、と言ったが、キミカは譲らなかった。
「これを見ながら晩酌するの」
と、たいして呑めもしないのに言うのだった。
ツユミが不服なのは、もうひとつ理由があった。
夕食後、ライトアップされた夜の遺跡を見に行く予定だったのに、それが流れてしまうからだった。行ってもカップルばっかりで虚しくなるだけやん、とキミカは切り棄てたが、ツユミはそんなこと、あまり気にならなかった。埼玉に帰れば彼氏が待っているからかもしれない。
ともかく、キングブロッサムの花でアタマがいっぱいのキミカには、なにを言っても耳に入らないようだった。
ホテルに宿泊客は多かった。ゴールデンウイークをすぎたとはいえ、これからが北海道の観光シーズンなのであるわけだし、明後日のマラソンのせいでもあるのだろう。
二階の部屋だった。十畳敷で、床の間に水墨画の掛け軸がかかっていた。電話と二十六インチほどのテレビが並んで置かれ、障子を開けると窓際の小さなフローリングスペースにテーブルセットと小型冷蔵庫。非常にオーソドックス――というより二十世紀から時間が止まってしまったような装いだった。
時刻はもう六時をすぎていたが、この時期、高緯度地域にある北海道は日が長く、夕方とは思えないほど空がまだ青い。窓から見下ろせる庭園の緑が目に鮮やかだった。
もう食事を始められますが、と部屋にお茶を運んできてくれた仲居さん。
「ハイハイ、階下のレストランでしたっけ」
夕食は部屋に運んでもらう、いわゆる部屋食ではなかった。一階の和風レストランで夕食をとるのである。宿泊客だけでなく、だれでも利用できる作りになっていたから、昼食もそこでとることができた。
二人とも空腹で、瓦せんべいを一瞬で食べてしまうと、お茶をすすり、すぐにレストランへ下りていった。
ガラスの自動ドアの向こうには、思っていたのより広いダイニング。適度に暖房がきいていて、見た目ほど寒くはなかった。
「峠様」の札の乗った四人がけテーブルには白いクロスがかけられ、バラの一輪挿しと、スプーンやフォークの入った細長いカゴが置かれていた。
「わぁ、なんかいい感じじゃない」
純和風の旅館のレストランとは思えない佇まい。
「このホテル選んだんは、ここの料理がええっちゅうのもあってん」
キミカは顔をほころばせた。
「いっぺんチーズフォンデュっちゅうの食べてみたかったからやねん」
「ねぇ、キミカ……。キングブロッサムの花のことだけど……」
「シッ!」
キミカは眉をつりあげた。
「ウエイトレスが来るかもしれへんから、ここでその話すんの、やめとこ」
なにか言いかけたツユミだったが、その台詞をのみこんだ。
「それよりツユミは食べたことあんねやろ? チーズフォンデュ」
「うん」
「どうすんのか教えて」
「簡単だよ」
大きな赤いエプロンをかけたウエイトレスがフォンデュ鍋を持ってやって来た。
「いらっしゃいませ」
テキパキと準備を始める。コンロに火が入れられ、チーズのいい匂いが湯気とともに立ち昇ってきた。あらかじめ、ある程度は温められていたのだろう。
ウエイトレスが一通り説明して去っていった。
チーズがトロトロに溶けて食べごろになる間、ビールで乾杯し、ポタージュスープをいただく。濃厚なスープが、舌にからみつきながら喉を下りていった。
「おいしい……。やっぱ北海道って感じね」
目眩のような軽い感動が心地よかった。
「ほんま、いいとこ泊まったわ。ここに決めたん、ウチやで」
と自分を指さす。
「わかってるって。あ、チーズ、そろそろいいんじゃない?」
「おっ。じゃ、食べてみよか」
「ちょっと待って。写真、撮るから」
かごに盛られているのは三、四センチ角に切られたパン。北海道産の小麦を使ったこだわりのフランスパンだ。それを鍋につっこみ、直営工房で作られた手作りチーズをたっぷりからませる。
いきなり食べると火傷するので、ふうふうと息を吹きかけかじりつくと、ピザのようにチーズがのびた。
「どお?」
とツユミ。
キミカははふはふと熱そうに咀嚼して、ゴックン。
「これがチーズフォンデュなんかぁ……。おいしいやん」
「あたしが以前に食べたのより、断然おいしいわ。さすが北海道」
二人は夢中で食べ続けた。その間に、手作りソーセージ、ポテトコロッケ、小羊のステーキなど、地元の食材で作られた料理が何皿か運ばれてきた。どれもこれも贅沢な味で、キミカはいちいち感動し、ツユミはいちいち写真を撮った。
デザートのアイスクリームは富良野の牧場でその日とれた牛乳でつくったもの。
これで、昼食で味わえなかった北海道の味を取り返すが如く堪能したといった感じである。
「やっぱり広い風呂はええわぁ」
浅い湯船でキミカは手足をのばす。やや熱いぐらいの湯が肌に心地よく、たちまち額に汗が吹き出した。
夕食後に入浴。浴衣に着替え、長い廊下を歩いて歩いて到着。ホテルのパンフレットに載っていた写真ではもう少し広く感じたのだが、十分大浴場にはちがいなかった。
時間がやや遅いせいか、洗い場もそれほど混雑していない。
「アパートの狭いユニットバスやったら、窮屈やもんなぁ」
と、濡れタオルを頭にのせたりして、キミカ。
「あの石、どうするつもりなの?」
湯船に肩までつかり、ツユミがささやくように訊いてきた。雲形定規に似た形の風呂はクルマ二台分ぐらいの大きさで、獅子の口から水が出ているところがなんともレトロ。
「まさか埼玉へ持って帰るなんて言わないでしょうね。あんなもん、飛行機に乗せられないよ」
「それもそやな。キャリーケースには入らへんし、宅配便で送ったら、壊れてまうかもしれへんなぁ。いやぁ、さすがにそこまでは考えてへんかったわ」
わっはっはっと頭の後ろへ手をやった。
「やっぱり落ちていたところに戻しておこうよ」
罰金云々より、根本的にしてはいけないことをしている、という捉え方をしているツユミだった。それはちょうど道ばたに立つお地蔵さんを無断で持っていくような後ろめたさに似ていた。
「ウチらが見たあの飛んでいった花、あれが第一号でないことははっきりしてる」
けれどもキミカは取り合おうとはしない。
「キングブロッサムの花が全部でなんぼあんのか、だれも正確に知らへんっちゅうこっちゃし、花が飛んでってるっちゅうのんも、知られてへんねや。ニュースになってへんわけやし。たぶん、今までは夜とかに飛んでいっとったんやろ。となると、ウチらが第一発見者や。これはニュースになんで」
「え? それじゃあ……。テレビ局に知らせようって?」
「ストレートすぎるやん。たしかにあさってにマラソンを控えてテレビ局や新聞社が集まってるやろから、やりやすいやろけどな。だから余計になんかアッと驚くような方法で発表したいやん。なんかあれへんかなぁ」
首をちょいと傾け、
「ええアイデアない?」
「……」
結局なにも考えてなかったことを知って、ツユミは大きなため息をついた。
キングブロッサムの花は障子の向こうに隠してあり、あとでワインでも飲みながら、じっくり観賞しようというキミカの魂胆だった。
部屋へ戻ると、キミカはまっさきに花を確認した。窓際の小さなテーブルの上に置くと、それだけでいっぱいになってしまう。
夕食のときにビールを二本もあけたのに、今度はワインのボトルをとりだした。
「ほら、小樽ワインの白やで。甘くて飲みやすいからツユミもどう?」
風呂上がりに売店で買ったミネラルウォーターのペットボトルをラッパ飲みしていると、キミカがグラスを二つ指にはさんでみせる。
「一杯だけね」
「オーケー、オーケー」
コルク栓がポンと景気のいい音をたてて抜けた。
「さささ、部長、まぁ、一杯」
「だれが部長よ」
細長いワイングラスなんかがちゃんと部屋においてあるなど、いきとどいたサービスぶりだ。
透明な液体が、少し泡立ちながら注がれると、甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「かんぱーい」
いっきに半分ぐらい呑み干してしまうキミカ。
「あんた、二十歳そこそこなのに、いい呑みっぷりしてるわね。末恐ろしいわ」
テーブルの向かい側にすわり、ツユミはワインをひと口。ブドウの酸味が舌にひろがったかと思うと、飲み込んだとたんに喉に刺激が残った。
「なに年寄りみたいなこと言うてんの」
しみじみと花をながめながら、キミカ、「いやぁ、なんぼ見てもええわぁ。なんか、あさってのマラソンなんか、どうでもようなってくるわ」
「本気で言ってんの?」
ツユミが驚いて声を荒げた。
すでに二杯目をつごうとしているのを見て、
「あんた、もう酔っぱらってんじゃない?」
キミカは上気した頬を膨らませ、
「そんな早よ酔うわけないやん。でもな、今回の旅行の大きな目的、観光とマラソンが、なんかかすんで見えんねん」
「なに言ってんのよ。明日のスケジュール、わかってんの?」
事前の予定では、二日目は前日に見られなかった遺跡を、マラソンコースに沿ってクルマで巡ることにしていた。コースの下見が終わったら、あとは時間が許すかぎり遺跡を回るつもりだった。
しかしキミカにしてみれば、今さら他の遺跡に対しての興味を失いつつあった。
「世界的に有名な遺跡ちゅうても、結局はただの石像やし」
「それ、昼間あたしが言った台詞じゃない」
「えっ? せやった? まぁ、細かいことはええやん」
「…………」
ふう、と吐息をひとつ、ツユミはワインをひと息で飲み干した。食道から胃にかけて、熱く焼けていくようだった。
「もう一杯ちょうだい」
「お、いけるん?」
これ以上、議論しているような雰囲気でないと感じて、ツユミはキミカのペースに合わせることにした。こういうのも、また旅行を楽しみ方だろうし。
ツユミのケータイから着メロ。慣れた手つきでメールを確認。
「彼氏?」
「今、練習が終わって解放されたんだって」
「へぇ」
「これから食事」
「これからって、もう十時やん」
「しょうがないの。ミュージカルだからどうしても練習がハードになるし。公演が終了するまで忙しいのはわかってた」
「それまでデートもでけへんの? つらいのう」
とキミカはハンカチを取り出し、横山たかしのように大げさなアクションで握りしめた。
「でも、彼の夢だもん。応援してやらなくちゃ。あたしらもマラソン、がんばろう」
「そうきたか」
ツユミはせっせと返信メールを打つ。
キミカはツユミのグラスにワインをついでやる。と、なにかの気配を感じてツユミを見つめた。
「なに?」
送信を終えケータイを折り畳んで、ツユミはその視線に首をかしげた。
「ちょっと酔うてもうたかな。そら耳が聴こえた」
「そう」
ツユミはついでもらったワインに口をつける。くくっと半分ほどあけた。と、その動きが止まる。
「なにか言った?」
「なにかって、なに?」
「もうすぐ発芽するって」
「なにわけのわからんこと言うてんの。あんたも酔うてんちゃう?」
「そうかもね。今夜は呑んだくれてもいいと思ってたから」
「うん。ウチも酔うてきた。やっぱり幻聴聞こえるし」
「どんな?」
「発芽の時期がやってきた。あとは速すぎて、よく聴きとれへん」
「発芽って、なによ」
「さあ……。種子が陸地球の外へばらまかれる……」
「種子? そう、すべての本体から何百の種子が……」
「ちょお待ち!」
キミカが突然さけんだ。
「なんかヘンやで」
「幻聴にしては……」
「種子って、なんの話やねん」
「わかるもんか」
「種子っちゅうのは、植物のタネのことやろ。それって……これのこととちゃうん?」
キミカはテーブル上の石の花をじっと、今までとちがう、玉手箱を見るような目付きで見つめた。
キングブロッサムを文字どおり植物になぞらえ、花は花であり種があるとしたら、発芽はどういう意味になるだろう。石が割れてキングブロッサムの苗がにょきにょきと生長していくイメージを二人は同時に思い浮かべた。
「いったいどうしてそんなこと思っちゃったんだろ」
「いや。さっきから幻聴とちゃうかって感じてたんは、実はこの花のテレパシーやったりして……」
「え?」
なにをばかな、といった表情のツユミ。まだ常識的にアルコールのせいだと考えていた。
「そう思ったほうがおもろいやん。花がなにかを言ったとな。これこそホンマの花言葉」
「マジで言ってなくて、ホッとしたわ。あんたときどき突拍子もないこと言うから」
と、ツユミはそこで少し押し黙り、言をついだ。
「他の遺跡からも種子が飛散して、ついに繁殖が始まる。断片的な思考だけど、同じフレーズが繰り返されているような感じ……。キミカが言ったこと、正解かも」
そう言いつつも、まだ本心から信じきれなかった。理性が現実を否定する瞬間だった。
一方キミカはわずかな可能性でも逃すまいと、行動を起こした。
「紙に書き留めてみよ」
キャリーケースから、いつも持ち歩いている薄っぺらいアランジアロンゾの手帳とアタック25のロゴの入った二色ボールペン(予選の参加賞。結果は予選落ち。ちなみ本選より問題がむずかしい)を取り出すと、真剣な表情で文字を書き記していった。それは一瞬だけ光る電光掲示板を読みとるような作業だった。
「発芽」「陸地球」「繁殖」「時期」「我々」
ツユミものぞきこんでみる。手帳に書き込まれていくキーワードは、ツユミの頭に浮かんでくるものと同じだった。
それらがどこから発せられるのかまでは特定できないが――キミカは花だと確信しているが――とにかく、何者かがなんらかの意志を伝えようとしているのはまちがない。
頭に浮かんでくるのは、文章にもなっていない単語ばかりで、しばしばあまりに速く浮かんでは消えるので、残像さえ結べないものもあった。だが何度も繰り返されるうちに、なんとか意味がつかめてきた。
キミカの手帳に現われた単語の羅列が次第に文章へと形作られていった。
キミカは読み上げる。
「我々はやっと繁殖の時期を迎えた。何百何千の種子が空を覆い、地に落ちて発芽する……」
手帳から顔を上げ、
「えらいこっちゃで! キングブロッサムの花が全部飛んでってまうんや! しかも芽ぇ出す言うてんで」
「キングブロッサムだけじゃないみたいよ。すべての遺跡から種子が分離するらしいわ」
「すべてか……。でも双立大仏に花なんか付いてなかったで」
「花のような形状をしているとはかぎらない。きっと、植物によってタネの形がちがうように、遺跡によって種子の大きさも形状もちがうのよ。キングブロッサムは、たまたまわかりやすい形をしていたのにすぎないと思う」
「ということは、他の遺跡の場合、すごい地味すぎて、だれも気ぃつかへんうちに、もうぎょうさんタネ蒔かれてるかもしれへんな」
「それより、芽はいつ出るのよ」
ツユミはテーブルに鎮座している花を見やった。
その視線を追うように、キミカも花を見る。
花は、拾ったときとなにも変化はない。花の中心の膨らんだ部分にヒビの一本も走っているかと思えばそんな様子はまったくない。しかし、あのメッセージを発したからには、すぐにでもなにかが起こるようなのだが。
「もしよ――」
ツユミは声をひそめた。
「マラソンのときにそれが起こったらどうなるの?」
キミカは眉をひそめた。
「陸地球の土地がタネで埋めつくされてもうたら、マラソンどころとちゃうかもな」
果たしてそうなるのだろうか。今のメッセージだけではまったくわからない。
「でも、どのみち放っとかれへんで」
「やっぱりテレビ局へ?」
「売名行為に熱中してる場合とちゃうわ。事実を知った以上、世のため人のために行動するのが、人間としての義務や」
「なんか、大きなことになってきたわね」
「陸地球の危機から人々を救ったっちゅうことで、ウチらは英雄やで」
ツユミは口あんぐり。
「なんだ、結局それか」
「よし、もっと情報収集につとめよ」
キミカはペンと手帳をとり、キングブロッサムの花を凝視し精神を集中した。
長い夜になりそうだった。




