第1章『陸地球へようこそ』
空港のターミナルから出た途端、予想以上に冷たい空気にびっくりした。
百合山ツユミは、腕にかけていたブルゾンを羽織ると、肩より少し長い髪をさっと背中へ流した。
「さすが北海道ね。埼玉に比べると、まだまだ冬だわ」
「旭川いうたら、日本でもいっちゃんさぶいトコやいうからな」
後ろから、赤いダッフルコートを着込んだ峠キミカが、キャリーケースを引きずりながら、河内弁でそう受けた。
「それよりバス乗り場や」
左手方向にバス乗り場があり、一台停車しているのだが、目的地へ行くバスかどうかわからない。旭川行きか富良野行きか、それとも大雪山陸地球行きか――。
近づきながら運転席上の行き先表示案内を見る。
「やった。陸地球行き!」
バスのステップを上がると、なかは大きな荷物を抱えていても動きやすいように改造されて、広々としていた。荷物をおくスペースも網棚以外にスーツケース用のものが用意されて。その分座席数が犠牲になっているが、バスを二台つなげた連接型にして補っていた。
荷物を置き、二人掛けのシートに落ち着くと、同じ便で降りてきた人たちが、乗り遅れまいと次々と走ってくるのが窓から見えた。
ツユミはさっそくケータイカメラのスイッチを入れる。長時間の動画が撮れる高機能ムービーケータイだ。メタリックな外観の空港ターミナルやバスの内部やらを撮影する。
「キミカ、なんかしゃべってみてよ」
カメラレンズを向けるツユミ。
キミカは小さなレンズに向けて手を振り、
「はーい。はるばる旭川までやってきたでぇ。これからいよいよ大雪山陸地球へ行くねん。――大雪山の真ん中に、突如あいた巨大な穴を抜けると、そこは雪国ならぬ地底世界と思いきや、なんとなんと、どことも知れない異世界であった。果たして我々の行く手には、なにがあるのだろうか――」
バスのエンジンがブルンと動きだした。いよいよ出発のようだ。
空港ターミナルから出てくる人が途切れたのを見計らったようにドアが閉じ、バスは細かな振動を維持しながら動きはじめた。
到着まで一時間強。その間、ずっと雄大な景色を存分に楽しめるわけである。
道路はほぼまっすぐに東へとのびていた。渋滞するほどクルマは多くなく、というよりかなりマバラで、気持ちのいいドライブといった感じだった。もっとも、バスではドライブという気分はでないが。
道路の両側には、耕されたジャガイモ畑が黒く、呆れるほど遠くまで広がっていた。大地はまっ平らではなく、緩やかな起伏を持ち、それに沿って道路もアップダウンしていた。
ところどころに見える防風林がアクセントとなって、風景に遠近感を与えてくれていた。
もう少しすれば、北海道は桜の季節を迎える。道路際やら畑の間にソメイヨシノが見事な花を咲かせることだろう。
しばらく流れゆく窓外の景色に見とれていたが、
「やっぱ、広いわねぇ」
自然、そんなつぶやきが洩れる。
「この広さは、たぶんビデオカメラにおさまらないわ」
「え、そうなん?」
と、景色をながめていたキミカは振り返った。
ツユミはいったんカメラのスイッチを切り、
「以前に花火大会に行って、かなり近くから見たんだけど、すごい迫力で。でもそれをビデオで撮って、あとから見たら、あの臨場感がぜんぜんなくて、がっかりだった」
「それ、テレビが小っさかったからとちゃうん?」
ツユミはきょとんとした表情を浮かべた。
「あ、そうかも??」
「百インチぐらいのでっかいテレビと五・一チャンネルのスピーカーやったら、ごっつい迫力やで」
「そこまでしなくちゃダメなの?」
バスはかなりのスピードで走っていたが、景色が単調なせいで、それほど速さは感じない。よく晴れた空に漂う雲塊が、直線で区切られた畑に影を落としていた。
「あっ、ツユミ。牛やでウシ!」
道路の近くに牧場があった。柵で囲われた草っ原に、数頭のホルスタインが思い思いの場所でたたずんでいた。
まるで遠足の小学生のようにはしゃぐキミカを、ツユミはカメラにおさめた。
バスは順調に、牧歌的風景のなかを進んだ。遠く、美瑛の丘のうえに、鮮やかな色彩の熱気球がゆっくりと動いていた。青空とのコントラストが眼に残るようだった。
ツユミは静止画を撮り、メールを打ち始める。
「なに、彼氏?」
「ん」
と、指を休めずツユミ。
「きれいな景色を見せてやろうと思ってね」
「オーディション、受かったんやてね」
「うん。今、ダンスの練習が毎日なんだって」
「ホンマは彼氏と来たかったんちゃうの?」
「当たり前じゃん」
メールを送信して、ツユミ。
「ほーお、おアツイこって」
やがて進行方向に、雪を頂いた大雪山系の連なりが見えてきた。
標高二二九〇メートルの旭岳を中央に、左右に連なる山脈……。雪深い冬がやっと終わり、春の訪れとともに山が目覚めようとしていた。
「あそこに陸地球の入り口があんのかぁ。なんかわくわくするわぁ」
キミカは窓側から一生懸命山なみを見ようとした。
道路が山を登りはじめた。
蛇行しながらの登り道に疲れてきはじめたころ、バスは大雪高原に入った。
やれやれと思ったのも束の間、こんどは下り道にさしかかった。これまで登ってきた道のりよりももっと下へもっと下へと、地底深くへの道をひたすら下っていくのである。
大雪山系の、絵画のような景色のなかを通る一本道。右へ左へゆるやかにカーブする道路の先には、火山の火口のような巨大な穴がぽっかりと開いていた。
「ねえ、見える?」
と、通路側の席のツユミは尻を浮かして窓の外をうかがう。
「うーん、まだよう見えへんわ」
窓側席のキミカはガラスにくっつくほど顔をよせるが、角度が悪くて見えにくい。
「あ、見えた」
すかさずケータイカメラを向けるツユミ。液晶画面を確認して、録画ボタンを押した。
直径三百メートルほどの穴――。道路はそこへ降りていく。檻のように鉄骨の組み合わさった柱が突き立つように建てられていて、その外周に沿って螺旋状に道路がつくられており、地下の陸地球へと降りられるようになっていた。それはまるで地獄へ落ちていくような印象だった。
バスの乗客たちはその超自然的な眺めにどよめき、しきりとカメラを向けていた。
遠くのほうに、地面が地層を見せていた。それは厚さ十メートルほどで途切れ、再び空間が広がっていた。しかしそこは地底の空間ではなく、どことも知れない世界につながっていた。
そこはいったいどこなのか――。
調査が始まった。
地球上のどこかとつながっているわけではなかった。では他の惑星なのかというと、天中に輝いているのは太陽とまったく同じスペクトルで、夜空にかかる星座や昇る月もお馴染みのものだった。
ここは地球であったが、知られた地球ではなかった。
まさに異世界だった。
当然、この世界の調査がさまざまに行われた。しかし発見から二十八年もたつが、いまだ多くの謎に満ちていた。
やがて、それを目当てに唯一の出入り口であるこの穴の真下は観光地化され、ホテルや土産物屋が林立するようになった。
二百メートル――超高層ビルほどの高さの螺旋道路から見下ろす光景は、迫力満点だ。目もくらむような高さが恐ろしくて、ずっと外を見ない乗客もいた。
ツユミとキミカは二人ともそんなことはなく、鳥にでもなったような気分を味わっていた。
登りと下りは、それぞれ別になっており、ちょうどDNAのような二重螺旋構造をしており、行き交う車両が決して正面衝突しないようになっていた。もし衝突事故がおきたら、ガードレールを飛び出し、さらに外側の防護フェンスを突き破って転落してしまうだろう。そうなったら、まず救かるまい。
「なんだか目が回りそうね」
ツユミがつぶやいた。螺旋状道路だから、それはそうだろう。乗り物酔いに弱い人なら吐いてしまいそうだ。
「あたし、ちょっとだめかも」
ツユミが、うう、とうめいた。
「ややで、見せんとって。吐くんやったら、あっち向いててや」
「なんとか我慢するよ」
と、やや顔色を青くしながら。気分が悪くなると、地表へつくまでのほんの数分が無限につづく拷問のように感じてしまうものだ。
バスの高度はぐんぐん下がり、やがて地上へ到達した。
「セーフ」
何度かこみあげてきた胃液を嚥下しつつ、どうにかこうにか無事に難関を乗り切った安堵感が心地よかった。
ドライブインに入った。広大な駐車場を囲むように建つお土産屋とレストラン。
空港バスはここが終点である。今度は帰る客を乗せ、旭川空港へと戻っていくのだ。
待合室横の停車ゾーンに着くと、乗り物酔いで元気のなくなった乗客たちが降りていく。
ツユミも、キミカに支えながら高いステップを慎重に降りていった。
「どう? ちょっとはマシになった?」
「まあね」
若干悪かった顔色が元に戻っていた。
一つ深呼吸して、周囲を見回す。
観光バスが何台も止まっている。陸地球をめぐるツアーらしい。前面のガラスを通して、旅行会社の名前をつけたプレートが見える。
もちろんマイカーもたくさん。
ドライブインは観光客でごった返していた。おそらくいつもより多い。ゴールデンウィークも終わったというのにこの混雑ぶりは、たぶん明後日開催されるマラソンのためだろう。
出場者とその応援団やら、観戦者、それにたぶんマスコミや競技関係者なんかも混じっているのかも……。夏の観光シーズンのような賑わいである。
トイレも長い行列ができていた。
「あー」とため息のひとつも出る。
「どうして女子トイレばっかりこんなに混むんやろう」
キミカはぼやいた。
「しゃーないさ。並びながら、お昼ごはんのことでも考えよ」
「ふう」
とため息。
二人は列の最後尾についた。よくあることとはいえ、自分が女に生まれてきたことを腹立たしく思う一瞬だった。
昼食は迷ったあげく、小さな喫茶店でとることにした。大きなレストランだとメニューが多彩でいいのだが、団体客が入れ替わり立ち替わりでちっとも落ち着かない。せっかく北海道まで来たのだから、それらしいものが食べたいとキミカは提案したが、今はそこまできばらなくていいとツユミは軽くすませたかった。時間が惜しかったし。
「わかった。ここはあんたにまかせる」
で、喫茶店である。土産屋の片隅に休憩コーナーのようにひっそりと営業していて、カウンターと四人掛けテーブルが二つ。
赤いエプロンの似合っているチョビ髭のマスターが、カウンターの向こうでコーヒーを淹れていた。
ちょうどテーブルの一つが空いたところだったので、入れ替わるようにすべりこんだ。向かい合わせにすわり、荷物をそれぞれの横のイスに置く。黄色い小洒落たデザインのイスだがやや狭苦しかった。
食べたらさっさと出ていかなくてはならない雰囲気ではないので、観光プランを今一度じっくり確認できそうだった。
「北海道での初めての食べモンが、何のヘンテツもない軽食やて」
未練たらしくつぶやくキミカに、まぁまぁ、とツユミ。
「まだあと二日もあるし、北海道の味を満喫する機会はいくらでもあるんだから」
テーブルに地図を広げる。陸地球の地図である。
地図の範囲は地上との出入り口を中心に、およそ五十平方キロメートル四方。その範囲のみに道路が造られており、それより外側へは行けなかった。道路がないから、というのもあるが、そもそも立ち入りが禁止されていた。自然環境保全のため、というのがその大義名分だった。
発見されてから二十八年たち、陸地球の姿は次第に明らかになっていった。
別の次元の地球。したがって広さ――面積も地球と同じだった。
これほど広い土地にもかかわらず、海も山も川もなく、ただ砂漠のような不毛な乾燥地帯が延々と続くのみで、ここが地球だとはとても思えない、退屈な空間だった。
一面岩石が転がり草一本生えておらず、およそ生き物の気配はなかった。それはまるで火星の地表のような光景だった。海がなく、それが「陸地球」と呼ばれる所以なのだった。
しかしその世界にあっても、唯一、人目を引くものがあった。
それは陸地球の入り口下に、いきなり存在していた。
どう考えても自然にできたとは思えない、彫刻のような巨石が陸地球入口を中心に、それを取り囲むように点在しているのである。
まるで古代文明の遺跡のようなそれがあるがために、人々がこのなにもない不毛な土地に興味を示すのだった。もちろん人類が造ったという記録はどこにもない。宇宙人か、はたまた滅んだ古代人か。
巨石の数はぜんぶで二十。地図にはその巨石がすべて記されていた。ようするに巨石をめぐる道路が地図の範囲なのである。道路は巨石を順番につなぎ、それぞれが中心の街ともつながっていたので、ちょうどレーダーチャートのように見えた。
二十もある巨石すべてを見ようとすると、かなりの時間がかかりそうだった。旅行ガイドには、約八時間、とあった。
「今日中にぜんぶ回るのは無理ね……」
ツユミが地図をのぞきこむ。
「それは最初っからわかっとったやん」
出発前におおよそのプランは立てていた。
現在時刻は午後一時半。夜間のライトアップが終了するのが十時だから、無理すれば全部見ることは不可能ではないが、そこまでガツガツしたくはなかったし、ホテルへのチェックインや夕食をとらなくてはならなかったりして、そこまで時間はとれない。
渋滞もあるだろうし。マラソンコースの下見も兼ねていたから、上手に計画しないといけない。
キミカは地図上に爪の長い指をのせ、
「まずはこの辺りの遺跡やね。時間が時間やから、とりあえず西側の五個を目標にして、残りの十五個はあした」
道路に沿って滑らせる。
「オッケイ。効率よく回らないと、時間がなくなっちゃうからね」
ツユミはルートを確認し、うなずいた。
「よし、これで行こう」
オーダーした料理をマスターが運んできた。
「お客さん、あさってのマラソンに出るんでしょ」
と、皿を置いて親しげな笑顔を見せて。
「え? わかる?」
「女の子でそんなに注文する人、珍しいからね」
テーブルには、カツサンド、スパゲティナポリタン、ビーフカレー、ミックスピザが並んでいた。
体格に似合わないその食欲はスポーツマンの証拠。あっさり見破られて、うかつだった、とちょっぴり照れくさかった。
ドライブインの道路をはさんだ向かい側に、原色の目立つ看板をかかげた平屋のプレハブがあった。レンタカーの店だ。プレハブの横のスペースに、何台ものクルマが停められてある。
「あそこがそうやわ」
キミカは指さし、一直線に歩き出す。事前に予約を入れていた店だった。
ツユミはうなずき、ついていく。
信号が遠いので、ドライブインから道路を横断した。
「いらっしゃいませ」
ブレザー姿の若い店員がカウンターの向こうでさわやかな笑みをたたえて迎えてくれた。赤いネクタイと真っ白な歯が印象的だった。
「すみません、予約してたんやけど、あしたまで貸してください」
「はい、ではこちらへどうぞ」
二人は店内を見回すと、店員に促されるままカウンターへと進む。
白く清潔な感じの店内。観光地らしく、あちこちにポスターが張られていた。大自然を前面に押し出したキャンペーンを展開中、といった様子。あさって開催のマラソンのポスターもあった。隅っこに観葉植物の植木が大きな葉っぱを広げている。
カウンターでは先客のカップルが書類に必要事項を書き込んでいるところだった。若いので、夫婦というより恋人同士だろう。
そこからイスひとつをあけてすわった。
「では、こちらをご覧下さい」
店員は取り出したパンフレットを開いた。
きれいに印刷されたパンフレットには、いろんなメーカーの車種が並んでいた。
「予約された車種以外にもまだ空きがございまして、今からでもお選びいただけますよ」
「あっ、そうなんや」
特にこだわりがあるわけではなかったから、なんでもよかった。
「どれにする?」
ツユミはなめるようにパンフレットを見つめる。
「せやなぁ……。二人なんだから小さいのでええんとちゃう? 荷物かて大したコトないし。これにしよか」
キミカは一番小さいのを指さした。スバルR1。軽自動車で、座席の後ろに荷物を乗せるスペースがあるタイプ。あまりスピードは出せない。だが十分な仕様だ。それに、なにより料金が安かった。
「では、この書類にご記入を」
「ウチが書くわ」
ボールペンをとり、さらさらと要領良く書きこんでいく。その間、となりのカップルがキーを受け取って出ていった。店の横に駐車してあるクルマのなかから仲良く選んだらしい一台に乗って出ていくのを、ツユミは窓からついつい見てしまう。
「これでええ?」
書類を書き終えて、キミカは店員に見せる。
「はい、けっこうです」
保険や規約についての説明をざっと受け、料金を支払うと、キーを受け取った。
選んだR1はスタイリッシュな赤のボディカラー。駐車場でもかなり目立った。運転免許は二人とももっていたが(ちなみに二人ともペーパーである)、キミカが運転席にのりこんだ。ツユミは助手席でビデオ係である。
二人とも身長が百六十センチもないから軽自動車でもゆったりしていた。
キャリーケースをシートの後ろへ放り投げるように置いて、
「さあ、出発!」
エンジンが軽やかに始動し、静かにクルマは動き出した。行ってらっしゃいませと深々と頭を下げる店員をあとに店を出る。
久しぶりに握るステアリングの感触に、緊張しながらの出発だった。