馬車馬
「ちくしょう!なんでだよ……」
桜舞う坂道を目指していた僕は今、公園の水道で髪を洗っている。それがとても寒い・・・気持ちがいい訳ではけっして無い。
朝の射光を全身に感じてほのかに香るコーヒーの苦味を堪能していた矢先の出来事である。みなさんは感じた事は無いだろうか?あの「電柱の上のカラス」が爆弾を落とす予感を……僕は敏感に感じる事が出来る。数少ないスキルの一つだ!……あまり嬉しくはないな。
この日の僕は油断していた。少し早く出てきてしまったからかもしれない。雲の間から顔を出す太陽に見惚れてしまったかもしれない。昨日聴いたバンドの曲が頭から離れなかったからかもしれない。とにかく僕は、数少なくそして使いどこの少ない僕のスキルを駆使出来なかったのである。
近くに公園があったのは不幸中の幸いだった。肩まで伸びている髪を大型犬の水浴びの如く左右に振り回した。
そういえば、この公園に入るのは何年ぶりだろう。子供の時はよく遊びに来たっけ。あの時は沢山の友達と……いや、昔から友達少なかったっけ。でも一人だけ遊んでた女の子がいたなぁ。
僕はその女の子の事を思い出そうとしたが、途中でやめた。もう、昔の事だ。それに顔も名前もよく憶えていない。
「これ、よかったら……」
後ろから突然声がして、ビクっと勢いよく振り返ると目の前の少女も体をビクっとさせ目を丸くしていた。ずぶ濡れの長髪の男が目の前で突然動けば大抵の女子は同じ反応をするだろう。
「あ、ありが――」
「し、失礼します!!」
小柄な体系のショートカットが良く似合う女の子が目の前にいたはずなのだが、お礼を言う前に全力で走り去ってしまった。僕は受け取った可愛らしい花柄のハンカチを見ながらただ立ちすくむのだった。小さいハンカチで出来る事など限られるのだが、あの子の優しさにひまわりのような暖かさを感じ、胸の奥が一瞬『ドクン』と鼓動を鳴らしたのが分かった。
「ふふ」
そんな速さで逃げなくてもいいのではないか?腹を抱えて笑いこけている僕は、ベンチに座り暖かな日の光に身を任せ、少し光合成を極めこむことにしようと決めた。酸素の変わりに笑い声を出しながら。
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「やばいやばいやばい!やばい!」
公園のベンチでいつの間にか寝てしまった僕が桜坂を目指して苦肉の形相で走るまで、時間はそうかからなかった。
今までのコーヒータイムも女の子の後ろ姿も、あまつさえカラスの爆弾さえも忘れ、馬車馬の如く速さで忠実に経路を走るのだ。今思えば、あの女の子も同じ学校の制服だったのだから始業のチャイムが、登校時間が目前に迫っているのは明白である。
「なんだ匠ぃ、今日も遅刻かぁ!!」
「たまには早起きしなさいなぁ」
すれ違う町のおばさんおじさんにからかわれながら登校するのはいつもの事だ。
「いつも遅刻してないよー!!今日だってこれでも早起きしたんだよー!!」
走りながら大声で叫び、手を振る姿はまるで時間ぎりぎりのマラソン選手みたいだ。完全に僕のはかっこ悪い姿なのだが。
僕は朝が苦手だ。得意な奴なんてそうそういないだろう。そんないつもギリギリで目覚めて、ギリギリまでコーヒータイムを楽しむ僕が、「早起きしました!」なんて、結局みんなと同じ時間に起きている程度なのだ。
今日は完全に遅刻みたいだ。途中で聞こえた始業のチャイムにあざ笑われた気分になりながら、とぼとぼと道を歩く。
「今日も晴天いい天気!さぁ!覚悟決めますか!!」
最後の坂の前にようやく着き、全力で走りあがる。そう、『ここまで全力で走りましたぁ!』アピールだ。
「すいませーーーーーん!!!」
薄い桃色の花びらが肩に触れる。僕は高校生になったんだと今更ながら感じながら、このあと怒られるであろう教室に向かい全力で走るのだった。