『moon on the water』
最後に歌ったのはいつだろう?
その意味は鼻歌でも観客のいないステージでもない。
僕が彼女と言葉を交わしたあの日の記憶。
僕はいつも夏と冬になるとあの公園に向かった。それはあの少女と会うためだ。
僕が秘かに恋をし、僕の憧れである少女『おりんちゃん』に会うためだ。
毎年夏と冬に来る少女。それは当たり前のように僕の前に現れ、音もなく静かに去っていく少女。
今日も彼女は僕の前に現れる。
「やあ。元気?」
「うん。そっちは?」
『久しぶり』でも『おはよう』でもなく僕達は語り合う。
もう小学校を卒業も間近の頃だった。冬休みに入って僕はクリスマスのプレゼントでマナミから貰ったマフラーを身につけて公園にいた。そこには最初会った頃は幼く元気でいたずらっ子な女の子も、ずいぶんと大人っぽくなったおりんちゃんもいた。短かった髪は少し伸びていて、彼女が動くたびにゆらゆらと揺れる。
「そのマフラー似合うね」
「ありがと。貰ったんだ」
「へー? 彼女?」
おりんちゃんはイジワルそうな笑顔で僕をからかった。
「ちがうよ! ともだち!」
僕はなんとなくムキになってそう答えた。
「そっか。友達できたんだね。……よかった」
「……友達なんてたくさんいるよ。ほら、よく言うでしょ? 『学校のみんなお友達』って」
「さぁ。それはどうなの?」
僕達は久々の再会にも、今までの別々の時間も関係なしに、今まで通りに時間を過ごした。
彼女はいつも明るい歌を歌った。とても楽しそうに。最初は歌っている彼女が少し恥ずかしくて僕は顔を伏せていた。だけど、彼女に誘われて(強制?)僕もぶつぶつ歌いだした。やっぱり最初は恥ずかしいと思っていたけど、おりんちゃんと歌う事は楽しかった。
公園の滑り台、ブランコ、ジャングルジムが僕らのステージだった。いつしか僕は音楽が好きになっていた。
「わたし、歌うのが好き」
彼女はブランコに揺られながらそっと呟いた。
「僕も好きだよ」
僕はゆらゆら揺れるその髪を目で追いながら答えた。
「よかった……わたしは歌が好き。お花も好き。太陽もお月様も好き。でも一番好きなのはあなたの歌ってる姿……」
「えっ?」
「なんてね! でもほんと!」
「なんだよそれ? どっちだよ」
彼女は無邪気に笑った。僕も笑ったけど顔がほのかに熱いのはきっと気のせいじゃない。
「わたし、歌手になる。そして匠くんがわたしの声を聞きたくなったらいつでも聞けるようにする。匠くんは一人じゃないよっていつも言ってあげる。うん! そう決めた!」
おりんちゃんは相変わらずの笑顔で僕に告げた。
「えー……ノイローゼになる~」
「はぁ!? 意味分かんないし! 嬉しいはずだし!」
僕は内心嬉しかった。彼女が僕を見てくれていることが本当に分かったから。いつも僕を引っ張っていく女の子。僕も何か伝えたかった。
「じゃあ、僕も傍で見てるよ。そうだな……ベースとかで横に居たらかっこいいと思わない?」
「ふふ。似合う」
僕達は暮れる空を見上げながら笑った。それがきっと無垢な願いで、叶わぬ夢としても僕にはそれで充分だった。オレンジ色の空に願いを込めて僕は息を吸う。
彼女がいつも最後に歌う曲がある。僕はこの曲の名前も意味も知らない。彼女はいつも帰り際、それを歌う。
「おりんちゃんその歌好きだよね」
僕の少し前を歩く彼女に僕は声をかける。
「……うん……好き」
彼女はいつも明るい歌しか歌わないのにその歌はそこか寂しげだった。
僕も口ずさむ。
「忘れないで」
「ん?」
「へたくそっていったの!」
「あっ! 傷つく!」
僕はイジワルに笑って逃げるおりんちゃんを追いかけた。
この日が幼い僕らの最後の記憶。
次の年もその次の年も彼女は僕の前に現れる事はなかった。
好きな人に、信じた相手に去られるのは、いいや、『捨てられた』のは何回目だろう。僕はそれから人を信じなくなった。思い出も全て胸の奥の深い扉にしまいこんで僕は生きようと思った。
彼女の好きだった曲の名前が分かったのはずいぶんと時が経ってからだった。




