太陽の冷たさ
たぶんここからが物語のはじまり
学校へ僕らは走った。教室の時計を見ると時間は八時を過ぎた辺りだった。
「セーフ!」
高坂栞は元気にそう言った。
「そんな慌てなくても大丈夫だったんじゃ……」
僕は彼女に手を引かれ、長い長い坂道を走らされた。運動不足なうえ、前日のスパルタ体育のせいで全身ボロボロの僕は息を切らしながら彼女に声をかけた。
「もー! だらしないなぁ匠くんは!」
少し呆れたように高坂はそう言った。そんな彼女も少しだけ息を切らし、額にうっすらと浮ぶ汗がなんだか色っぽく見えた。
授業はいつも通りに進む。秒針の針は変わる事のないスピードで進むように毎日を繰り返す。いつもと同じだ。
いつもと違うのは、空白だった僕の隣に彼女がいる事だけだった。でも、彼女が『おりんちゃん』であったとしても、きっと僕の毎日に変化など訪れないのだろう。
毎日学校へ行き、つまらない授業を受けて時間が過ぎるのをただ待つばかり。学校が終われば奏間たちとバカやって時間を過ごす毎日。バイトで笑顔を引きつらせる毎日だ。何も変わらない。
休み時間になると奏間が声をかけてきた。
「なぁ、なんだか昨日と高坂さん雰囲気ちがくね?」
「あ、ああ。なんでだろな……」
高坂の席には生徒が集まっていた。昨日は一日中顔を伏せ、机に突っ伏して不機嫌そうだったのとは反して今日は人当たりがよく、みんなの輪の中心にいた。
楽しそうに話している彼女の横顔を見つめていると、僕は昔の彼女はこんな風に笑っていたなと思い返した。そうだ。これがおりんちゃんだ。
昨日の彼女は嘘みたいに『此処』にはいなかった。
「ねえ!しおりちゃん!」
輪の中にいた斉藤だか佐藤だかという名前だったと思うが、少し調子のいい男子生徒が高坂に声をかけた。
「しおりちゃんって高橋とどんな関係なの? 今日二人で手を繋いで登校してたじゃん?」
僕はいきなり名前を呼ばれたのに驚き、そして朝の光景を見られた恥ずかしさでゆっくりと顔を隣に向ける。
彼女の周りに集まっていた生徒は全員僕を見ていた。座っている僕を見下ろすその目は、なんだか得体の知れない何かを見るように、そして自分の所有物を汚されたと言わんばかりの目だった。
僕の額から汗が滲み出る。今まで根暗で他の生徒とは話した事がない僕にはこの時間が永遠の監獄に入れられた気分になった。
僕はまっすぐ、怖い気持ちと不安に胸が潰されそうになりながら隣の席を見た。
薄いベージュのカーテンの隙間から日の光が差し込んで、その暖かな光の中に彼女はいた。
「えー!? 見てたの? いやー、なんか照れるなぁ。うん。私の大切な人なの」
彼女は笑っていた。何の穢れも知らないようなその顔は、その目は、まっすぐ僕を見つめていた。
「えっ……いや、あの……」
僕は何を言うべきなのだろう。そんな事を沈黙の中ひたすら頭の中で考える。
彼女が『大切な人』と言ったのがクラスの人気者や目立っている人間ならきっと黄色い声も少しは湧くのだろうが、生憎僕はそうじゃない。今だってみんなが静まり返って僕と彼女を交互に見ている。
そもそも彼女はいささか突拍子のない事をさらりと言いすぎである。
「ちょっと高坂さん」
「ん?」
僕はこの沈黙に耐えかねて彼女の腕をとり、席を立った。
奏間が現状を把握できないのか口が半開きになったまま僕らを見ている。そんな奏間の横を通り過ぎ、僕と彼女は教室を出た。
教室のドアを出ようとした時、そのかげにマナミが立っているのが見えた。マナミは僕と高坂さんの姿を見ると、小さく「あっ……」っと呟いたがそれ以上は何も言わなかった。
僕はなんとなく胸が締め付けられる感覚がして急いでその場を離れた。マナミには後で訳を話せばいい。というか、あんまり気にしなくても大丈夫ではないか? 僕とマナミはただの幼馴染なんだから……。
「もう授業始まっちゃうよ?」
彼女は階段の踊場についた時、僕にそう言った。
「あ、うん。ごめん……じゃなくって! どういうつもりなのさ!?」
「何が?」
彼女は僕が何を言ってるのか分からないみたいにキョトンとしている。
「何って……教室でのこと。あのさ、簡単に『大切な人』とか誤解の生まれること言わないほうがいいと思うよ」
「何で?」
「何でって……」
思わず僕は溜息をつく。ほんとこの子は……。
「いい? ちゃんと聞いてね。 はっきり言って迷惑なんだ。 僕はキミ達みたいに人付き合いがうまいわけではないし、目立ちたくない。他人とは一定の距離でお互いに干渉しないそれがベストなんだ。その、キミ達みたいなリア充?が光なら、僕みたいな陰キャは影なんだ。影は影なりの役割がある。それに、キミは僕のことそんなに知らないでしょう? そんな相手のこと『大切』なんて……言わないほうがいい」
伝わっただろうか? 僕は相手の目を見て話さないから彼女がどんな顔で聞いているのか分からない。少し言い過ぎただろうか。いや、でもこういう事は最初からしっかり伝えなければ後々面倒になる。それだけはごめんだ。
結局、昨日は楽しかった一日も過ぎてしまえば日常の一環であったという事だ。なんら変わらない。『高橋 匠』はそうやって生きていくんだ。第三者だから楽しめる。傍観者であることは痛みを感じなくていいからだ。
「知っているわ。匠くんのこと」
「知らないよ!!」
つい声を荒げてしまった。
彼女は何も知らない。それは当たり前のことだ。
僕は彼女の事を本当はどこかで憶えていた。毎年必ず長期休暇の時期に現れる彼女。公園で毎日そうだった事のように僕の前に突然現れる彼女を。
僕が苦しいとき突然消えた彼女を。
僕が苦しい時、傍にいてくれたのはあの二人だけだ。だから僕の『大切な人』は奏間とマナミだけでいい。それが本物だと信じてるから。
「じゃあ……あなたは私の何を知っているの?」
彼女がそっと震えた声を出す。
「えっ……」
彼女は目にうっすらと涙を浮かべていた。そんな姿の彼女を見るのは初めてで、僕はひどく動揺した。やっぱり少し言い過ぎたみたいだ。
「ごめん」
そう言おうとした時、始業のチャイムが鳴った。
「あっ! 授業に遅れちゃう! ほら、匠くんも急いで!」
さっきまでの彼女とはうってかわり、教室にいた時のような笑顔で僕に言う。
僕らはその後無言のまま教室に戻った。
教室に戻ると、一部の生徒は僕たちを見ながら小声で何か話し合っている。
そんな事も気に留めないかのように高坂は笑顔で明るく席に着いた。
僕はどことなく気がひけるおもいで席に着いた。
奏間は何か言いたそうに口をあけているが、僕のそんな様子を察してか前の黒板に顔を向けた。
僕は今まで自分に向けられた事のない空気に戸惑いながら授業を受けた。
彼女が今どんな気持ちで僕の隣にいるとも知らずに……




