『特別』の意味
僕はその後高坂栞、彼女に
「学校遅れちゃう! 早く飲んで! 早く支度して!」
と朝のコーヒータイムを急かされ熱いコーヒーを一気に飲み干し、手を引かれて『淀』をあとにした。
僕の手を引きながら走る彼女の後ろ姿を見て僕は何か思い出せそうな気がした。
「あ、あの……」
「あっ……ごめんなさい……」
僕らは一度足を止めて、彼女は手を離しお互いに見つめあった。
この子が本当に『おりんちゃん』なんだ……
僕は今の今まで思い出せなかった、公園で昔遊んでいた女の子の顔を思い出した。
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僕らは幼い頃会っていた。
まだ小さかった僕は自分一人で『淀』に行く事はなく、母さんが常連でよく連れて来られた場所だった。
「匠くんおはよう。いらっしゃい。」
「うめさんおはようございます」
「ありゃりゃ!しっかりモンなこたーいい事だが、アタシの事は『おばあちゃん』ってよんでいいんだよ?」
梅さんはいつも僕が『おばあちゃん』と呼ばない事に不満を思っていた。
「……」
そんな事を言われると僕は決まって黙り込んでしまう。
「あらあら、ごめんなさいお梅さん。この子って恥ずかしがりやで変に律儀過ぎちゃって……。友達のママのことも『何々さん』って言うのよ? もーいっつも私の方が恥ずかしくって……」
母さんの服の袖を掴み僕は母さんの背中に隠れてた。母さんはそんな僕を少し困ったように、でもどことなく嬉しそうにいつも頭を撫でてくれていた。
「じゃあそんなしっかり者の匠くんに一つお願いしちゃおうかな!」
そう梅さんは顔にしわをたくさん作りながらニンマリと笑うとカウンター奥の部屋に声をかけた。
「――ちゃん!――ちゃん!おりてきなさーい!お友達きたよー!」
優しい声がドアの向こうに消えていった。
僕は何をすればいいのか分からなくておろおろとしていた。そんな僕を梅さんは見つめて目線を合わせるようにしゃがんで優しく声をかけた。
「今日ね、おばあちゃんの孫が遊びに来てるんだよ。だから少しの時間でもいいから遊んでやってくれるかい?」
僕は「うん」と答えた。いや答えようとした瞬間に僕は誰かに手を引かれた。そしてそのままの勢いで店のドアを開き外に出ていた。
いつの間にか梅さんの後ろに来ていた女の子がイタズラ気分で僕を連れ出したのだった。「カランカラン」と鈴がなり「バタン!」とドアが閉まった。
女の子に連れて行かれながら僕は後ろに振り返った。
「こらー!!――ちゃん!挨拶ぐらいしなさーい! あと転ぶんじゃないよーー!!」
だんだん遠くなる梅さんが叫んでいた。女の子も振り返り笑顔で手を振っていた。
信号が赤に変わり、僕らはやっと足を止めた。
「あの……どこ……いくの?」
息を切らしながら僕は女の子に聞いてみた。
「公園に行きましょうよ!」
女の子も少し息を切らしていたがとても元気にそう答えた、
「公園だったら道反対じゃない?」
「こっちにも公園あるのよ? 知らないの~?」
少し小バカにした口調で言われた僕も少しだけ反論した。
「インドア派なんでね。外には興味がないんだ」
女の子は言葉の意味が分からないのかキョトンとしていた
「あなたってよく変わってるって言われるでしょ?」
「キミだってけっこう言われてそうだ」
ふふっと女の子は笑うとまた僕の手を引いて道を走って行った。僕はその間、ただただ手を引く女の子の背中を眺めるだけだった。
公園に着くとそこはひどくボロイ公園だった。人なんかだれもいなくて、まるで別の世界に足を踏み入れた気分になった。
そんな少し不気味な雰囲気の公園に女の子は鼻歌を歌いながら楽しそうに足を踏み入れた。
僕も躊躇しながらも女の子の後に続いた。
端のほうにベンチを見つけて僕はそこに座ると
「こっちおいでよー!」
と女の子が無理やり引っ張って僕を砂場に連れて行く。前日の雨でまだ湿っている土を楽しそうにいじっている姿に僕も釣られて土を触る。やっぱり手にベタベタと引っ付いて少しも楽しくなかった。
「やっぱりキミは少し変わってる」
そう僕が言うと
「ねー!『キミ』って呼ばれ方イヤ。なんか上から目線でイジワルそう」
女の子は湿った砂を握りながらそう答えた。
「じゃあなんて呼べばいいの?」
「……おりん……うん!『おりん』って呼んで!」
「おりんちゃん?本名?なの?」
「いえ、おばあちゃんが観てた時代劇に出てくる茶屋の娘の名前よ?」
「……ふーん……で、本名は?」
「まだ教えないっ!」
おりんちゃんは土で作ったお団子を綺麗に並べて、その中で一番大きな団子を僕に差し出した。僕はそれを受け取って聞いてみた。
「なんで?」
おりんちゃんは少し恥ずかしそうにこう答えた。
「名前で呼び合う人は特別な関係なの。だからまだ教えられないの」
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僕は高坂栞、彼女に声をかけた。
「栞さん」
「なに? 匠くん?」
僕たちは特別な関係になったのだろうか。大人になるというのはこう言う事なのだろうか。
僕は彼女の瞳に写る自分自身にそう問いかけた。




