変わらなかった日常
「じゃあ帰るね」
マナミと奏間はぼんやりとしていた僕にそっと声をかけた。
「うん。また明日」
二人の姿が見えなくなるまで僕は玄関に立っていた。
二人の姿が見えなくなり、残されたのは背中から薄暗く光るオレンジ色の電球に頼りなく照らされた僕の影だけだった。
五月の初めだというのに夜の風はまだ少しだけ冷たい。足早に何かを忘れるように僕は誰もいない家に入った。
時刻は八時三十分を過ぎていた。母がもうすぐ帰宅する時間だ。兄はもしかしたら時間どうりには帰らないかもしれない。介護師の仕事はなかなか大変みたいだ。
僕は冷蔵庫の中身を確認し、簡単に夕飯の支度を始める。今まで料理などしたことはなかったが、高校に入ってからバイト先やら梅さんに教えられながら少しだけ料理が出来るようになった。
一度家族のために作った食事がけっこうな評判で、今日みたいに家族の帰りが遅くなる時は僕が食事の準備をするのが決まりになった。作ったものを喜ばれるのはこちらとしても嬉しいのだが、なんか仕事を押し付けられたみたいで納得がいかない・・・。
その事を母に言うと
「お母さんは毎日それをやってるのよ? どう? 少しは気持ちが分かった?」
と、少し困ったように笑いながら話す。確かに少しだけその気持ちが理解できたと思う。そのうえで改めて思う。『もやし』最強だと・・・。
今晩のメニューはあらかじめ決めてあった。和風パスタと食パンを使ったピザだ。食材を切って、ボールにまとめて入れておき、ピザはトースターに入れて最後に電源を入れれば完成だ。本当に簡単な事しかしてないのにあんなに喜んで食べてくれると作り手としても本当に嬉しい。
全ての準備が整ったところでドアが開く音がした。
「ただいまー・・・今日も疲れたぁ~」
母のご帰宅である。
「おかえり母さん。 お疲れ様。食事もうできるよ」
「おー! タクちゃんのゴハン! うれしいなぁ!」
母さんは大袈裟に喜び、カバンも置かないまま冷蔵庫を開ける。
「あったあった! ビールビールぅ」
『ウキウキ』と聞こえそうなほど嬉しそうに缶ビールのふたを開ける。プシュっと景気のいい音が部屋に響く。
「ビールもいいけど、飲む前に何かつまみなよ。すきっ腹にお酒は良くないよ? あとしっかり手を洗いなさい」
「な~にタクちゃん? ずいぶん詳しいのね。さすが私の子!」
「何言ってんの。母さんが教えてくれたんじゃないか」
母さんは缶ビールをテーブルに置き、素直に台所で手を洗う。
「今の時期風邪なんか引かないわよ?」
「風邪だけじゃなくていろいろ問題はあるでしょ?」
「なに? お母さんをバイキンあつかい!?」
「いやいや。そうじゃないでしょ・・・」
母さんはふざけて濡れた手の水を僕に引っ掛ける。いい歳した大人が・・・
「今日は何作ってくれるの?」
母さんは無邪気にカバンを放り出し、僕の背中から顔をのぞかせる。
「今日もパスタ・・・あとピザ」
僕の自信を持って作れる料理などレパートリーは限られる。少しバツが悪そうに答える僕に対し母さんは
「やったぁ!タクちゃんのパスタ大好きぃ! いつもありがと」
無邪気に答える。そんな姿にこちらこそありがとうと伝えたい。
二人分のパスタを皿に盛り、母さんはテーブルにグラスやフォークを並べる。
お互いに準備が整ったところで食事は始まる。
「いただきます」
おたがいにそう言うと母さんは美味しそうにパスタを食べ始めた。
母さんは今でこそこんなに楽しそうにしているが、父と別れるまではこんな笑顔は見たことが無かった。どちらかというと僕ら兄弟にはとても怖い人だった。
父が子供に関心のない人だったから、僕らが悪い事をしても何も怒らず、怒るのはいつも母の役目だった。今思えば、母には頼れる『夫』そして『父親』がいないのと同然なのだから、全ての憎まれ役も一人でこなさなければならない。本当にしんどい事だと思う。そのなかでしっかり僕らは母に愛され、ここまで育ってきた。
思い返せば僕らは『父』背中を知らない。僕らが幼かった頃から見て、感じてたのは本当の『母』の愛だと思う。優しい腕に包まれ、けっして道を外れないようにしっかりと支えて、抱きしめてくれたのはずっと母だった。
「母さん・・・いつもありがと」
僕はビールを美味しそうに飲んでいる母さんにそういっていた。
「いきなりどうしたの?」
目を丸めて母さんはキョトンとしてる。
「タクちゃんだっていつもお家の事考えて色々してくれてるじゃない。自分で稼いだバイト代だって家計に入れてくれるし、こうやってお食事だって・・・」
そう言う母さんの目は少し悲しく、切ない気持ちに僕をさせた。
母さんにそんな顔をさせたくて言ったわけじゃないのに。そう思い僕は話をすぐに変えた。
「あれ?アニキ遅いね」
「またおばあちゃん達が倒れちゃったのかしら・・・」
「アニキも大変だね・・・」
そんな話をしていると
「たーでーまー・・・」
ドアが開く音と共に疲れきった兄の声が聞こえた。
僕はそそくさと立ち上がり玄関に迎えに行く。
「おかえり。先にご飯にする?」
「おお。ただいま。じゃ、ご飯にする」
アニキからカバンを受け取り、母のカバンの横に添える。その後は大急ぎで鍋に火をかけ、フライパンに油を引き、にんにくを入れる。
僕がアニキの食事の支度をしていると、母と兄が二人で話していた。
「いやー、シフトどうりに上がれると思ったんだけど、夜勤と引継ぎ作業してたらおばあちゃんが転んじゃってさー・・・」
「あらやだ。大丈夫だったの?・・・」
アニキはスーツを脱ぎながら疲れきった顔で話す。僕はそんな姿を見て、急いで料理を作る。
「おまたせ」
アニキの前に大盛りのパスタを出し、グラスにウーロン茶を注ぐ。
「おお。サンキュな。それで――」
アニキはまだ仕事の話をしている。どうやら相当お疲れのようだ。
食事を済ませた後は各自お風呂に入る。今日は早く寝たかったので先にお風呂をいただく事にしよう。そう思い、部屋にまだ着ていた制服を掛け、ズボンを脱いだ時、ポケットから何かが落ちた。
「あっ・・・しまったぁ・・・ハンカチ洗わないと」
今朝に出会った小柄の女の子に借りたハンカチの事をすっかり忘れていた。急いで階段を降り、母さんに聞く。
「母さんごめん。洗濯今からお願いしてもいい?」
「あら、パンツ一丁でどうしたの?」
「そこは気にしなくていいから」
僕はお酒で程よく顔が赤くなっている母さんにハンカチを渡した。
「ああらー! 可愛いハンカチね!」
そう母さんは言うと眉毛を上下に動かし、にやけた口元を隠しながら「おんなのこぉ?」と聞いてくる。まるで今朝の奏間のように。
僕は溜息一つ着いて
「違うよ」
と答えると「つまんないのー」と笑いながら洗濯機を回し始める。
「学校は楽し?」
母さんは突然振り返り、僕の目をしっかりと捉えて聞いてきた。
楽しいか楽しくないかと聞かれたら、僕は間違いなく後者である。何も変わらない毎日に変わらない感情に、明日、目が覚めたら何をしようという期待も希望も、あまつさえ欲も無い。平凡で美しいとはよく言うが、これではまるで針の進み方を忘れた懐中時計だ。
しかし、『今日』に限って言うのなら、僕は自信を持ってこう答えるだろう。
「楽しいよ」
と。
「そう。ならお母さん安心だ!」
そう母さんは言って酒の席へと帰って行った。
僕は暖かい湯に浸かり、今日の一日を振り返る。
朝の小柄な少女。
隣の席の転校生。
奏間とマナミと僕の関係。
明日ハンカチ返さなきゃ。でもクラスも分かんないし・・・
「憶えてないの?」 憶えてないんだなぁ・・・
二人は・・・きっと大丈夫だ。
明日もうまくやろう。何も変わらない毎日を。そう結論付けて僕はお風呂をあとにした。
暖かいベッドに潜り込むと睡魔が軽く襲い掛かる。瞼はゆっくりと閉じていき、意識は遠のく。しかし何故だか頭の中には『高坂 栞』の「憶えてないの」という声が何度も繰り返された。
僕が次に目を覚ましたのは「なら、もういいわ」と声が聞こえてからだった・・・。




