胡蝶の夢
濡れた何かが頬を伝い、こそばゆい感覚とぼやけた視界に蛍光灯の加減の知らない光をあびて僕は目を覚ました。
ポケットから携帯を取り出し、時間を確認する。あれからけっこう時間が経ったと思っていたのだが、実際は一時間程だった。
「あっ、やっとおきた~!」
誰かの声がしてベッドの脇に目を向ける。そこにはえらく美人な可愛らしい女の子が座っていた。
「あれ?僕って結婚してたっけ……?」
「はぁあ!?何言ってんのタク!?」
頬をペチペチと叩く音がする。しばらくこのままで……んん?あれ?聞き覚えあるぞ!この声!
「いってぇ……なんだよ!いきなり! びっくりしたじゃないか!来るなら来るって言えよマナミ!」
「一緒に帰ろうと思ったらタクが走って帰っちゃたんでしょ!」
片手に漫画を持ちながらマナミが頬をつねってきた。僕もお返しに鼻をつまんでみせた。
「ちゅーきゃどうにゃっていえにはいっちゃんだよ!」
「うぎゅ~!しょんなのあいぎゃぎにきまっちぇんでしょ~!」
え?なにこいつ?うちの合鍵持ってんの?怖いわー……きっと母親の気まぐれで持たされているんだろう。幼馴染とはいえ信用しすぎだから……
僕とマナミの一ラウンドが終わり、お互いに向き合う。
「ていうか! お前ら毎日のようにうち来すぎだから! 一昨日も来てただろ!?」
「うん! だから昨日は来なかったじゃん! あっ、あとそろそろソウちゃん来るよ!」
「だ~か~ら!!」
マナミと奏間は幼馴染だ。仲はわりといいし来られて嫌という事も無いのだが、正直少し疲れる。
マナミが僕にいつものように缶コーヒーえお差し出す。
「いつもお邪魔しておりまする~」
わざとらしく深々とお辞儀をし「ささ!」と僕の手にコーヒーを渡す。こいつめ~・・・
「それに、来てたんなら声かけろよ。そしたらすぐ起きたのに」
「うん……でも気持ちよさそうに寝てたから……それに……」
「それに?」
「……ううん!なんでもない!」
無駄に明るく笑う彼女に少し違和感を覚え、ふと頬に感じる湿った肌を触った。あれ?泣いていたのか?何でだ?ユメ?何のユメ?
あー……僕は夢の中で泣いていたんだ。なんだか懐かしいようで、身に覚えがないような、しかし、何か大切なそして大事な何かだったのだろうと思った。
「そういえばー」
マナミがニヤニヤしながら近づいてくる。
「結婚ってなに~? 私を見て言ったよね~? このこの!」
なぜか自慢げにそして意地悪な顔で僕の腕を突いてくる。こういう時の顔は椿ねえと一緒だ。さすが姉妹だ。
「ああ。世界で一番キレイな人が僕の傍にいるって思ったよ」
「えっ……それって……」
よし!かかった!姉とは違いマナミはちょろいぜ!
僕はわざとらしくこう言うんだ。
「大丈夫!!勘違いだったから! はぁーはっはあぁー!!」
顔を真っ赤にしてマナミは漫画を投げつけながら「むきー!!」と叫んでいた。「それじゃまるで猿だぞ」って言うのはさすがに控えた。後が怖いし……
僕はマナミから貰った缶コーヒーを開け、一口飲んだ。微糖と書いているがとても甘いコーヒーは缶コーヒー独特な味わい深さだと思う。喫茶店『淀』ではいつも大人ぶってブラックを飲んでいた僕は、基本的に家では砂糖たっぷりなのだ。早くブラックの良さに気付ける大人になりたいと毎度ながらそう思う。
それからしばらくして、お菓子の沢山入ったコンビニ袋をぶら下げて奏間がやって来た。
「お二人さんお待たせぇー!」
なにやら楽しげに爽快なステップで部屋に入ってくる。
「はぁ?待ってねーし」
「遅いよソウちゃん!ささ早くチップ食べよ~! あっ、タク飲み物ちょーだい」
僕の小言など聞いてはいなくて二人は早くもテーブルにお菓子を並べている。
「あたしコーラね!」
「俺はジンジャね!」
「うちにはウーロン茶しかありません!」
二人のオーダーを聞き、重い腰を上げ階段を下る。窓を見ると外は薄いオレンジ色をしていた。これから日が伸びて暑苦しい夏がくると思うと溜息が出そうになる。夏は嫌いだ……。
夏が近づき、気温が高くなるほど学校では運動が盛んになる。僕は運動が苦手だし、汗をかくのも嫌いだ。それでも楽しそうに走っている生徒はいるし、暑い中運動して自分を窮地に追い込んでいる生徒を見ると「えっ?エムなの?」と聞きたくなる。
食器棚から三人分のコップを取り出し、氷を入れてコーラを注いだ。炭酸の弾ける音が何故か心地良く聞こえる。でも、理由なんてわかっている。
『きっと僕はこの時間が好きなんだ。』二人には言えないけど家に遊びに来てくれる『友人』がいるっていうのは悪くない。むしろ嬉しい。絶対言わないけどね。今更恥ずかしいし。
おぼんにコップを乗せ、階段を上がる。
ドアの隙間から楽しそうな二人の声が聞こえる。
僕はドアの前でふと足を止めた。
この感覚を一言で表すのは簡単だ。しかし、自覚してしまうとどうしようもなく自分という人間が嫌いになる。
『僕がいないのに』
心の隅のわずかな振動が僕の身体を揺らす。
それは僕という人間の醜い束縛欲と焦燥感に似た本当にちっぽけな感情なのだろう。
幼い頃の記憶を思い出す。あれは小学生の三年か四年の頃だったと思う。
友達がいなかった僕はある日を境に友達を作り出した。ここで言う『作り出す』とはべつにモンスターを妄想で作り出すとか、エアー友達とかではない。まぁ、もっと小さい頃には「スライムとか友達召還出来たら楽しいだろうなぁ」とか思ってたけど……
まぁ、そんな事はどうでもいい。とにかく僕は友達を作った。
結果的には友達作りはうまくいった。案外簡単に友達は何人か作れた。自分が思っていたほどは難しくはなかったみたいだ。
そう思っていた。
しかし、問題はここからだ。最初は小さな輪だった交友関係もだんだんとその輪からの派生で大きくなっていった。休み時間になるといつも誰かしらの席に集まり自然に時間を過ごしていたが、
三人で話している時は二対一
それから二人新しく輪に加わると二対二対一
たまに僕が中心で話している時に、新しく人が増えると話しの軸は完全にそっちに持っていかれるのだった。別にイジメられているっていうことではなかったが、たまに相づちをしたりするだけの存在になっていた。
最初に仲良くなった何人かもだんだん僕よりも他の新しい友達と遊ぶ事が多くなった。
いつの間にか僕が仲良くなった『友達』は僕を見なくなった。きっと僕の話が面白くなかったんだろう。僕自身がもっと魅力的なら――。
たらればな話かもしれないが、あの時僕がもっよ積極的で、もっとみんなの好きな事や自分の好きな事を共有できていればこんな傲慢な疎外感を持たなくてすんだのかもしれない。
それから僕はまた、人付き合いが下手になった。いや、元の自分に戻ったというのが正しいのだろう。
しかし、一度周囲の暖かさに触れてしまうと、元に戻っただけなのに余計に寂しく僕を思わせた。
これなら最初から知るんじゃなかった。覚めてしまえば何も残らないまるで胡蝶の夢のようだ。
それからはますます人との接し方が分からなくなり、僕はいつも孤独だった。
そんな時に声を掛けてくれたのはこの二人だった。だから他の人とは違う。もっと自分もうまくやろう。今度こそは大丈夫。って自分に言い聞かせた。
もうあんな寒いところには戻りたくない! 戻れない!って思ったんだ。
それなのに僕は今更何を考えてるんだ。
うまくやるんだ。こんな醜い感情捨ててしまえ!
二人はきっと僕を見捨てたりはしない!僕たちは本当に友達なんだから!
僕は一呼吸して前を向いた。
きっと大丈夫だ。と。




