しおり
「あら、いきなりごめんなさい」
高坂さんは尻もちをついた僕にスっと手を差し伸べてきた。
「だだだダイジョブ」
こんなに近くに女の子が来たのは数年ぶりで(まなみは別)、僕の心臓は爆発してしまいそうな位にドクドクと脈を打っていた。人間の脈拍数は生まれた時から決まっているなんて聞いたことがあるけど、今、この子は確実に僕の寿命を短くしただろう。
僕は立ち上がり尻についた埃を叩き、一呼吸してから高坂さんと向き合った。孤高のお姫様は意外と馴れ馴れしいなと少し思ってしまった。
「匠くん!久しぶり!」
『にぱー』と明るくクールビューティーな彼女の印象とは真逆の笑顔で僕にそう言葉をかけてきた。待てよ、久しぶりって……
「あのー……高坂さん?人違いじゃありませんか? うん、匠違い……」
「いえ、何を言っているの? あなたの事よ?高橋匠くん。その顔、間違えるわけないじゃない!」
確かに僕は高橋匠だけど、この顔は結構一般的な顔だ。それにやはり僕は彼女の事を知らない。
「昔からあなたの目は変わらないわね。自信のない表情。それなのにどこかまっすぐに何かをみつめている……」
昔から僕はそんな不景気な顔だったのか……そんな事を思いながらも彼女の言っている事が理解できず、ただまっすぐに彼女を見つめた。だめだ! さっぱりわからん! 思い出せん!! こんな美人そうそう忘れないぞ!
「本当に憶えてないの?」
彼女がまた近づいてきて、俯いてしまった僕の顔を覗き込む。
「あの、ごめん。思い出せなくて……」
覗きこんできた顔にまたドキドキしながら僕は謝った。
「そう……ならもういいわ」
とても哀しそうな声で、うっすらと浮かぶ涙に僕は心が締め付けられた。
彼女は一人で教室に向かい、ぼんやりと窓の外を眺めていた。そして、最後の授業終了のチャイムまでその姿が崩れる事はなかった。
放課後になり生徒が部活に向かうなか、僕はそそくさと帰路につく。まなみは水泳部へ奏間はテニス部へ。僕も本当なら自分が所属しているボランティア部へ行くのだが、生憎ボラ部は活動という活動がまったくないのだ。厳密に言うと手話やら老後施設の手伝いなどがあるのだが、多くて月一ペースなのだから毎日暇である。暇な生徒は部室で駄弁り、他の生徒はほとんどアルバイトなんかをしている。
僕も二駅隣の喫茶店でバイトをしているのだが、今日はバイトは休みだ。特に仲のいい訳でもない生徒と話す事など僕はしないで颯爽と家に帰るのだった。それに今日はなんとなく早く家で寝転びたかった。椿ねえのスパルタ体育が堪えたのかもしれない。もしかすると朝の全力ダッシュかもしれない。それにしても今日は本当に走りっぱなしだった。
そんな事を思いながらいつも通りに耳にイヤホンを押し込んだ時、ふと高坂さんの事が頭をよぎった。
「辛そうだったな……」
朝の彼女の視線も眠たそうな顔も、いきなり魅せた笑顔と涙も全て僕に見せた姿なのに僕は応える事が出来なかったんだ。だってしょうがないじゃないか。僕は『知らない』のだから。
それでも彼女を思い出すたびに感じる胸の鼓動は収まり方を知らなかった。
だけど明確に分かるのはきっとこれは『恋』ではないという事。そして、何もなかった僕の人生に根拠もなくただただ近づいてくる物語を予感させる高揚感である事だった。
僕は今一番ホットな音楽をかけ、自分の身の丈に合わない様な大きな一歩を踏み出し帰路へとついた。




