妖精の誘惑・1
次の日、私たちはいよいよペルスィを出て、大地の祭壇を目指すことになる。
ソルブスさんから備蓄をわけてもらい、お手伝いさんたちに何度もお礼を行ってから、出ていくこととなるけれど。
大地の祭壇に向かう際に、何度も何度もスターチスから言われたことが引っかかっていた。
「大地の祭壇は、神殿の教義を強要するために、妖精や巨人族を迫害してきたという歴史の地に存在しています。そのために、あちらは大変な危険地帯で、管理している神官もいません。今回は戦うことよりも、逃げることに徹してください。向こうに手を挙げることは、決してしてはいけません」
ゲーム上だと、妖精や巨人と戦うことはあったと思うけれど、あれはゲーム的な処理で、実際は逃げの一途を守れってことらしい。
そう考えると、水の祭壇の管理をしていた神官さんはいかにいい加減だったのかというのもわかってしまうので、頭も痛い。
大地の祭壇に神官がいないということは、備蓄もその先の風の祭壇まで得られないってことなんだから。
あからさまに顔をしかめるカルミアやポーカーフェイスを決め込むアル、マイペースを極めるアスターの顔をそれぞれ眺めながら、やがておずおずとクレマチスが口を挟んだ。
「あとこれはスターチス様と話をしていたんですが、妖精の誘惑が来たら、絶対に耳を貸さないでください」
「あれ、人魚のときと同じく、耳栓で対処できるもんじゃないの?」
アスターが髪を揺らしながら、クレマチスが沼の人魚対策に用意した耳栓を引っ張り出して指摘すると、クレマチスが首を振る。
「人魚のときは明らかに象徴の力を使って幻惑魔法を使ってきたんですが、妖精の誘惑は、別に象徴の力でもなんでもないんです。ただ、妖精が象徴の力を使って、心を読んでくるだけです」
それに思わず私は目を見開く。
ああ、そうだ。既にフラグが折れていたから安心しきっていて、忘れていた。
大地の祭壇は、ゲームでスターチスの好感度を上げていたら特殊イベントが発生していたんだ。妖精に心を盗み見されて、スターチスが旅に同行した理由が発覚するイベント。ここで彼が寡夫だっていうこと、同行理由が妻の復讐だっていうことが発覚するんだけれど……。
ゲーム内だったら発生したのがスターチスだけだったんだけれど、今回はそもそもアルメリアは死んでないから、スターチスのこのイベントは発生しないし、そもそもスターチスが既婚者だっていうことはカルミア以外は全員知っている話だから、意味がない。
むしろこの妖精に心を読まれたせいで、全員の秘密が剥き出しにされることのほうが怖い……私の場合はどうなるんだろうな。リナリア本人じゃないってばらされるのは、ものすごく困るんだけれど。
私が悶々と考えていたら、アルが短い問いを投げかける。
「妖精の声を無視するっていうのは難しいのか?」
「見えれば対策も立てられるんですが、妖精は象徴の力を使ってきますので、どのタイミングで出てくるのかが最後まで読めませんでした」
スターチスはそう言いながら、羊皮紙の地図を広げて見せてくれる。私が昨日クレマチスに見せてもらったものと同じだ。
その地図にはしっかりと書き込みがある。最短距離ではなく、明らかに大地の祭壇へ向かうには遠回りが過ぎる道が書き込まれていた。
「これは……妖精だけでなく、巨人族を刺激しないためか?」
「はい。縄張りにさえ入らなければ、あちらも象徴の力を使ってくる理由がありません。ただどうしても」
そう言いながら、スターチスは指を差す。
遠回りした道の先には森が広がり、その森の中に大地の祭壇は存在している。
「大地の祭壇に入るには、森を突破する必要があります……妖精の、縄張りをです」
「どうせ戦うんだったら、もう最初っから森を突っ切って最短距離で行くっていうのはなしなのかね?」
「……それはおすすめしかねます。妖精は誘惑が恐ろしいですが、巨人族は物理的に対処するのが難しいですから。森を焼き払うならともかく、森を焼き払ったら、その時点で大地の祭壇は破壊されます」
……要は、敵は妖精だけに絞って、巨人族と戦うのは避けようってことなわけね。たしかに物理的に対処するとなったら、カルミアの炎で焼き払うのが一番早いけれど、巨人族を刺激しかねない。縄張りを破壊したんだから、やり返されてもしょうがない。
アスターはにやりと笑いながらカルミアを流し見る。
「だってさ。気が立ったからって燃やすんじゃねえってさ」
「……わざわざ妖精や巨人族を怒らせてどうする。住処を奪われて怒るのは当然だろう」
カルミアにこんな軽口を叩けるのはアスターだけだもんね。よかった、こちらのふたりはそこまで仲悪くなさそうだ、と私はほっとする。
ただ……。昨日の今日で、アルとはまだひと言も会話をしていない。アルは何個か質問をスターチスとクレマチスにして、ひとりでなにかしら考えているようだけれど。
ソルブスさんにお礼を言ってから、私たちはペルスィを後にする際、「巫女様」と呼び止められる。
私が振り返ると、ソルブスさんはにこにこと笑っていた。
純朴な人で、神殿の利権とは縁もゆかりもない、本当に信仰にだけ生きている人なんだと思う。
「はい、どうされました?」
「アルのことを、どうかよろしくお願いします。あの子はなかなか思っていることを口にしない子ですが、大切なものは決して手を離さない子ですから……頑固が過ぎて、心配になります」
「ソルブス!」
ここまで言ったソルブスさんの言葉に、アルが顔を真っ赤にして遮る。それ以上はあれこれ口に出されたくないみたいだ。
「……俺は、平気だ。だからあまり心配するな」
「そうは言ってもね。毎日手紙を書いていた子から手紙が来なくなったら、心配になるものだよ」
「だから……本当に心配するな」
そこで、私は目を丸くしていた。アルが律儀に故郷に毎日手紙を送っていたなんて、一年ほどほとんど付きっきりで護衛してもらっていたのに、気付きもしなかった。
……いや、アルも休憩中や交替時間、私と一瞬離れる時間があったら、故郷に無事の知らせくらいは送っていたのかもしれない。
ソルブスさんはにこにこと目を細めてから、こくんと頷く。
「知ってるよ。頑張りなさい」
そのひと言と共に、私たちは送り出されていった。
水の祭壇から出てきた道を通り、私たちはいよいよ大地の祭壇へと足を踏み出すわけだけれど……。
濃い緑の匂いと土の匂いで、めまいを覚えそうになる。辺り一面苔の蒸した木々が生えている。水の祭壇のときも湿地帯の独特の雰囲気だったけれど、大地の祭壇への道もより鬱蒼としているように思えて、私は辺りをしきりに見回す。
「これだけ木で覆われているにもかかわらず、妖精を避けられるのかよ」
そうアスターがぼやくと、クレマチスはおずおずと口を開く。
「はい……妖精はそれぞれの木を縄張りにしていますから、木に蔦や花が絡んでいる場合は、問題がないかと」
「なんだそりゃ」
「ええっと、妖精同士でも縄張り争いがありますから、明確に木が一本一本になっていないと、そこに住まないんです。あと樹齢が百年以上超えている木でなければ駄目なんで」
「げえ……聞きたくなかったわ」
妖精は妖精で、大変らしい。
でもこんなに森が鬱蒼としているし、枝だって下のほうに垂れ下がっているのに、こんなところに巨人族が住んでいるの? と私は辺りを見回しながら不思議がる。
「あのう、ここに妖精だけでなく、本当に巨人族も住んでるんですよね? ここだと枝がたくさんありますから、引っかかったり、頭をぶつけたりしないんでしょうか?」
「ああ、巨人族というと、縦に大きい存在のほうが有名ですが、大地の祭壇の付近に住む巨人族は、人間よりひと回り大きいですが、身長自体はそこまで大きくありませんよ。ただ、横には大きく、人間よりもよっぽど筋力がありますから、敵に回すとなったら厄介だというだけです」
そうスターチスに教えてもらって、なるほどなあと思って辺りを見回した。
そういえば。私は森をきょろきょろと見回していて気付いた。
水の祭壇の付近では、穢れに取りつかれていたとはいっても野生の動物の存在が確認できたのに、大地の祭壇に入ってから、その気配がないということに。
虫の音だって、聞こえない。
「どうかしましたか、リナリア様」
そうアルに言われて、私は思わず肩を跳ねさせそうになったものの、昨日のことは置いておくことに決めたんだ。平常心で答えないとと、私はできるだけ普通を装って言葉を紡いだ。
「いえ、ここに入ってから、動物の気配がなくなりましたね」
「ああ……おそらくは、プレッシャーのせいでしょう」
「ええ?」
ふとアルを見上げて、気が付いた。
アルはずっと背中の大剣の柄に手を触れさせている。
私だと把握できないけれど……ずっとプレッシャーを感じ続けていたんだ。アルは火の祭壇のときと同じく、ずっと神経を研ぎ澄ませている。
きっと野生動物も、巨人族の警戒心剥き出しの威圧感にやられて、この辺りに住むことがないんだろう。縄張りに一歩でも足を踏み入れるということは、殺されてもかまわないというのと同義語だ。
それにカルミアは言葉を吐き出した。
「巨人族も、縄張りを荒らされたら承知しないとのことだ。縄張りに足を踏み入れないようにするしかないな」
「……そう、ですね」
こうして私たちは、大地の祭壇へと足を踏み出した。
最短距離で行くんだったら一日ほどで済むらしいけれど、できる限り縄張りにちょっかいをかけないという道を選んだ以上、最低でも四日はかかるとスターチスが教えてくれた。
戦闘をしなくってもいいのはありがたいけれど、こんなに神経をすり減らしながら移動することになるとは思わなかった。
ちらちらとアルを見上げるけれど、昨日のはいったいなんだったんだっていうくらい、アルはいつもの神殿騎士のままだったために、私も口を利く気にはなれず、このままにしておくことにした。
自分で聞くのもおこがましいし、どこで聞けばいいんだろう。乙女ゲームをしているからといって、人の感情の機微に詳しいわけじゃない。




