水の祭壇の試練・3
アスターの呪文詠唱は、スターチスが事前に溜め込んでいた呪文による障壁により攻撃を遮っていたことと、私たちが必死で短刀を投げ続けたり火であぶったりして、水蛇の気をこちらに集中させているおかげで、どうにか彼の詠唱を中断させるのは免れていた。
そしてスターチスは回復の詠唱を唱え、それを完成させる。
「言の葉よ、紡ぎ語りてその身を示せ……治癒」
その呪文が水蛇にかかった途端、何度もカルミアに焼かれて焦げた鱗も、アルが短刀を投げて傷付いたエラも、全て綺麗に戻ってしまった。
水蛇はそのことに気付いたのか、水中に入ることもなく、またも身をよじってこちらに攻撃してこようとする。
また大きな水しぶきを上げてこようとしたのに、カルミアは「ちっ」と舌打ちしてから、大きく炎を巻き起こした。その熱さに耐えかねたのか、水蛇はまたも水中に引っ込みそうになったところを見計らって、私は短刀を投げた。
水蛇はまたも身をよじって抵抗しようとしたけれど、すぐに私の具現化した短刀は消えてしまった。そして、私が刺した傷も塞がり、カルミアの炎で負った火傷も少し治まる。
アルは少しだけ怪訝な顔をしながら、短刀を水蛇に投げつつ尋ねる。
「いったい短刀に何を付加したんですか?」
「ええ……スターチスの見よう見真似です。私だと、スターチスみたいに怪我を完全に治すことはできませんが、止血する、痛みを抑える、整えるくらいだったら見よう見真似でもできますから」
私はそう言いながら、短刀を再び具現化した。
属性を付加させることはできても、癒すことはできない。例えば毒を放つ魔法を見て、それを真似して剣に毒を足すことはできるけれど、本物の毒の魔法よりも効き目は弱い。せいぜい体を痺れさせてちょっと動きにくい程度にしかならない。
私がスターチスの治癒を見て見よう見真似でやってみても、彼の治癒の力ほど怪我を治せるわけじゃない。傷を完全に治す……まあ、よっぽど小さな怪我じゃない限り、回復呪文でも完治はしないんだけど……ことはできなくっても、絆創膏を貼る、包帯を巻いて止血する、程度の効果は出せるんだ。
つまり、私が具現化した短刀に、見よう見真似の回復呪文を乗せて、それで絆創膏を貼る、止血するを繰り返して、水中に潜る口実を与えないってわけだ。その間にスターチスの呪文が完成したら、それで完治できるんだから。
私の説明で、アルは納得したように頷いた。
「これで、アスターの呪文が完成したら」
「……はい、倒せるはずです。幸い、未だにアスターもスターチスも、呪文を妨害されていませんから」
そう……、あとはアスターの呪文で湖を凍らせたら、クレマチスの象徴の力を使って、カルミアの象徴の力を遠隔操作し、それで九つの首を同時攻撃すれば……水蛇は倒せる。
そう思ったんだけれど、何度も何度もこちらに身をよじって攻撃していた水蛇の様子がおかしいことに気が付いた。
水蛇の周りに、水流ができているのだ。それは渦潮。そこからごうごうと音が響いてくる。
それに「いけません」とクレマチスが叫ぶ。
「リナリア様、アル様、カルミア様! すぐに下がってください! 水蛇が魔法を使ったようです」
「……え!」
詠唱はなかった。そもそもずっと身をよじって攻撃してきていたから、それしかしないと思っていたけれど。
でもでも。よく考えればゲーム内でも、普通にランダムで魔法攻撃してきていた。詠唱がなかったから全然気付かなかったけれど。
渦潮の波はだんだん高くなってきて、とうとう水の祭壇の最上階にまで届いてきた。私たちは慌てて下がったものの、背後は祭壇から落ちるしかなく、前方は水。
こんなの、どうしようもないじゃない……! 思わず悲鳴を上げかけたとき。
突然ぽこんぽこんと泡が私たちを包んだのだ。
「水面に浮かぶ泡沫よ、天地に昇り障壁をなせ……水泡沫」
その呪文を唱え、私たちをすぐに泡で包んだのは、紛れもなくアスターだったのだ。
私はアルと、スターチスはカルミアと、クレマチスはアスターと一緒に泡で包んだのと同時に、渦潮に飲まれて、私たちは水中へと引きずりこまれてしまった。
私は慌てて耳栓を付けると、すぐにアスターへと声をかける。
「アスター、ありがとうございます。ですが、詠唱が……」
『あー、あれ? 問題ないわ。ほら』
そう言いながらアスターはひょいと胸元から出したのは、間違いなくスターチスが呪文を溜め込むために使っていたペンダントだった。ペンダントトップを持ち上げながら、アスターはにやりと笑っている。
耳栓をしながら、カルミアは険しい顔をする。
『だが、これはどうする? 水中で凍らせたら、俺たちまで巻き込まれるぞ? 第一、ここで詠唱以外で水蛇と対峙はできまい。下手に剣を振り回せば、こんな薄い皮膜ではすぐに割れる』
『薄いって……まあ、息ができなくなっちゃ、そもそも詠唱だって使えないけどなあ』
そうなのだ。私たちはどうにかして水面へ脱出しないことには、意味がない。だって水蛇だってこっちの水泡に向かって突進してくるんだから。
アスターは簡単に水泡を制御して動かしていたけれど、どうやって操ればいいの、こんなの……!
水を得た魚というか、自分の領分に落ちてきた敵に向かって、水蛇は水面では考えられなかった動きでこっちに向かってくるけれど、水泡は急に意思を持ったかのように動き出したので、私はびくっとしながら泡を見る。
私がびくびくしているのに、アルは小さく言った。
「クレマチスだろう。クレマチスだったら、味方の象徴の力に限り、介入して操れるのだから」
「あ、ああ……」
たしかに、水泡越しにアスターとクレマチスの泡のほうを眺めると、クレマチスは目を見開いて、私たちとカルミアたちの水泡を睨んでいた。恐らくは耳栓と同じく、介入して操っているだろう。
これで、逃げ回る分には問題ないけれど、水面まで上がらないことには、皆で立てた作戦実行までには至らない。
私が思案していると、スターチスから耳栓越しに提案が入ってきた。
『作戦を変える、にしても水蛇を拘束する必要がありますし、私たちの中で九つ同時攻撃できるのはカルミアだけです。作戦をこのまま継続させたほうがいいでしょう』
『……俺もそのほうがいいと思う。そもそもここだと、俺の象徴の力を使うと共倒れになりかねない』
……障壁でも熱が防げないってことは既に立証済みなんだから、このまま彼が象徴の力を使って湖ごと水蛇を煮てしまったら、私たちも蒸し焼きになってしまってもおかしくない。それはやめて。本当にやめて。
クレマチスはそこに控えめに意見を差し挟んでくる。
『だとしたら、足止めを挟んだ上で、水面に脱出。おびき出して、そこでアスター様の詠唱完成して動きを封じる。とどめをカルミア様……ってことでしょうか?』
『簡単に言うけどなあ……その足止めに困ってるんだっつうの』
そうなんだよね……。
でも、この作戦をそのまま続行するとなったら、足止めするしかない。
私の【幻想の具現化】だったら、動きを鈍らせることくらいはできると思うけど……でもいったい何を出せば、動きを鈍らせることが……?
思わず考え込んだとき、今まで黙っていたアルがそっと口を挟んできた。
「水蛇は、目で物を認識している訳じゃなく、温度や音で認識していると聞く。だとしたら、音でこちらの気を削げるのなら、リナリア様の象徴の力で、よそ見させることは可能なのでは?」
そのことに思わずはっとした。
そういえば……どうして詠唱を唱えているアスターやスターチスを集中狙いしないんだろうとは思っていた。私たちが気を逸らしていたからというよりも、カルミアの炎に寄る熱で、意識が阻害されていたとしたら、説明はつく。
スターチスはそれに気付いたらしく、私のほうに連絡してきた。
『ええ。それでしたら、水面に脱出したあとはカルミアくんの熱でおびき寄せれば……いけるかと思います。リナリアさん、前にカルミアくんにしたようなこと、できますか?』
声をそのまんま具現化して、水蛇の認識を誤魔化す……。うん、これだったらなんとかできる。もし目が使えて、映像を具現化しないと意味がないっていうんだったらお手上げだったけれど、これなら。
再び水蛇がぐるっと泳いでこちらに突進してきた。それを慌ててクレマチスが移動させる。
『リナリア様、水泡はぼくが操ります。その間に、象徴の力を……!』
「……わかりました」
私は目をつむって、さっきまでの戦闘の光景を思い浮かべた。それをそのまんま、音として、水蛇のほうにぶつけた。
相変わらず、私は私の幻想で現実を浸食するって方法はなかなか上手くできないけれど、こっちは何度も何度もやってきたことだから、できる。
水蛇は、途端にビタンビタンと明後日の方向に泳ぎはじめた。さっき、私たちが何度も何度も短刀で怪我をさせるたびにスターチスの呪文で傷が塞がる音をそのまま聞かせたんだから、水蛇にしてみればたまったもんじゃないだろう……私が言うのも難だけれど、維持が悪過ぎる具現化なんだから。
クレマチスが水泡を操って、無事に水面に出てきたあと、水浸しでつるつる滑る状態になってしまった祭壇を干すように、カルミアは炎の壁を一瞬出して水を蒸発させる。
アスターはペンダントトップから、溜め込んだ詠唱を引き出すと、その詠唱に付け足すように、詠唱を続ける。
そして。カルミアの炎により、水蛇がバシャンッと水中から顔を出した。
アスターは、にやりと笑う。
詠唱が完成したんだ。
「……母なる海に架けろ氷の橋。流氷群!!」
途端に、湖にピシンピシンと音が立つ。水蛇はしまったと思って身をよじっても、それより先に氷結のほうが早く、詠唱の長さに比例して、威力は強い。湖の表面は、あっという間に凍り付いてしまった。
それを見ながら、カルミアは「ふん」と鼻息を立てながら、大剣に炎を纏わせる。
「蛇ごときが、ずいぶんと小賢しい真似をしてくれたな」
そのひと言で、炎の輪が水蛇を取り囲み、一気に水蛇を焼き付けはじめた。
水蛇は悲鳴を上げ、私はその轟々と燃える炎の熱と火の粉で思わず目を細める。……敵対したときはあんなに怖かったのに、味方になった途端に頼もしいなんて、本当にカルミアは。
カルミアが焼き尽くしたところで、水蛇はこちらに九つの首をもたげて倒れた。その地響きに思わずひるんだところで、アルが私に自分の大剣を差し出してきた。
「……リナリア様、水蛇に審判を」
ああ、そっか。火の祭壇のときと一緒だ。私が、とどめを刺さないと試練にならないんだ。私はアルに「ありがとうございます」と言いながら、大剣を受け取ると、その重さで思わずつんのめりそうになったものの、どうにかずるずると引きずって、水蛇の真正面に立つ。
これは、私が勝ったんじゃない。皆がすごかったから、勝たせてもらえたんだ。
このことだけは、絶対に忘れちゃいけない……私は皆を助けに来たけれど、私は皆に助けてもらえなかったら、何もできないんだから。
「ごめんなさい」
そう言いながら、私はアルの大剣を振り下ろした。水蛇は見えないはずの目でこちらを見たあと、とうとう動かなくなった。




