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円環のリナリア  作者: 石田空
神託の旅編

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沼の人魚・4

 沼の底に近付くにつれ、光の玉を浮かべているにも関わらず、水が濁ってきているのがわかる。藻や泥が巻き上がっているからにしては、水面と明らかに色が違うのはおかしい。

 おまけに、ひどく肌寒く感じる。これは前に感じた穢れの感覚だ。私が身震いしていると、水泡を操っているアスターがちらっとこちらを見てくる。どうも、巫女だから私は穢れに反応するけれど、その手の適性が全くないアスターは感じないらしい。


「リナリアちゃん、大丈夫?」

「だい、じょうぶです……」

「そっ。巫女の子って穢れに反応すると寒がるみたいだしさあ」


 アスターはそう言いながら、私たちの前を先導して泳いでいるアズレアの小さな背中を見る。


「あんまり耐えられないって言うんだったら、一旦戻ってもいいけど、どうする?」

「……まだ、時間があるだけで、そこまで猶予はないと思いますから。そのままアズレアについていってください」

「りょーかい」


 案外あっさりと引いてくれたことに拍子抜けしつつ、私は濁った水の先をどうにか目を凝らして睨んでいた。

 どうにか背中を丸くして、寒さに耐えていると、アズレアが「お母さん!」と声を上げたので、はっとして沼底を見た。

 唸り声が、水底を揺らしていた。


「うー……うー……うー…………」


 岩に縛ったとは言っていたけれど。

 髪の毛をゆらゆらと触手のように揺らめかせて、岩に人魚の髪で縛られている人魚。間違いなく、さっきアルとカルミアを沼底まで引きずり降ろそうとしていた人魚だ。

 アズレアはパタパタと泳いで、母親人魚の元に寄っていった。


「お母さん! 穢れを祓ってくれそうな人、連れてきたよ! お母さん!」

「うー……アズレア……まだこんなところにいた……の……早く逃げなさいと言ったでしょう……?」


 唸り声からは理性が感じ取れなかったけれど、アズレアとしゃべっているときは、息が途切れ途切れとはいえど、たしかに理性の糸が残っているようだった。

 あの近衛騎士は、理性が完全に穢れに乗っ取られてしまっていて、言葉が通じなかった。でも……これだったらなんとかなるかもしれない。

 母親人魚は、こちらを警戒するような顔で、金色の目を鋭く光らせて睨んできた。


「……祭壇に向かう人間か……今は私は縛られている……今の内にさっさとこの場を立ち去れ……」

「……私は、あなたに危害を加える気はありません。あなたを助けに来ました」

「人間は……好まない……っううっ……」


 喉を鳴らして、明らかに警戒心を浮かべ、こちらのほうに髪の毛の触手をうねらせてくる。

 それに慌ててアスターが水泡を操って回避する。……この泡を割られてしまったら、さすがに私たちもさっさと水面に戻らないと窒息死してしまう。

 でも……私はどうにか泡の割れる割れないギリギリのところまで傍に寄って、母親人魚を観察した。

 リナリアは祓う力を持っていたんだろうか? ゲーム中だったら、一度も穢れを祓う行動は取っていなかったはずだ。人魚だって固有名は出てこず、種族名で敵エネミーとして存在していただけだったんだもの。

 でも、巫女や神官は穢れを祓う術を持っているとは、ここに来るまでに何度も何度も聞いてきた。象徴の力さえ使えればなんとかなると思っていたけれど、ここに来て穢れを祓う力を持っていないとまずいって思い知った。

 ガス人間になってしまった人たちも、たくさん殺してきた穢れに取り込まれた生き物も、狡猾に人を騙し討ちした近衛騎士も。救う方法はあったんだろうか。

 リナリアは、本当に私にわざわざこのことを教えず、どうしたかったんだろう……?

 リナリアは、私に象徴の力を渡すとは言っていたけれど、穢れを祓う力のことは、最初に会ったときから、ひと言も言っていなかった。

 考えてみて、ふと気付く。

 ……そういえばリナリアは、どうして私に何度も自分の記憶を場所を見せてきたんだろう? リナリアの花が咲き誇る場所は、ゲームのセーブ画面だと私はずっと思っていたけれど、あそこは彼女の記憶を具現化して保管している場所だった。

【幻想の具現化】は、今まで私が使ってきたのは、劣化コピー能力としてしか使っていない。見たことあるものじゃなかったら具現化できないし、具現化できた物だって一瞬しか保つことができないし、ずっと残しておくことはできない。でも……リナリアは自分の記憶をセーブ画面のように全部保管できていた……。

 そういえば。リナリアは聖書の文面を全部勝手に消してしまったり、チュートリアルのように近衛騎士と戦う場所を用意していた。

 もしかして……【幻想の具現化】は、私がゲーム上や実際に使ってきた劣化コピーとは、本当は違うものだとしたら?


「リナリアちゃん?」


 私が長考に入っていたのは、アスターの怪訝な声でかき消された。それに私は慌てて謝る。


「ごめんなさい……ちょっと考えていて」

「そっ。で、あの美人さん、まだしゃべれるみたいだけれど。どうする? 今だったら触手にさえ気を付ければ、やれるけど?」

「っ、あの子に助けるって言ったんです! 攻撃なんて駄目ですからね!?」

「冗談よ、冗談。で、できそうなの? 祓うのは」


 私は母親人魚のほうをじっと見る。

 彼女はまだ、理性が残っている。完全に穢れに取り込まれてしまったら、もう祓うことができないって言っていたけれど、彼女はまだ間に合う。

 もし、私がリナリアからもらった象徴の力【幻想の具現化】が本来の力を使えたら……助けることができる?

 私は彼女をじっと見ながら、頭の中で思い浮かべる。思い浮かべたのは、彼女の記憶の場所。何度も何度も行こうとしたけれど、あそこに行くことができなかった。でも……今だったら行けそうな気がする。ううん、行かないと駄目だ。

 ふいに、頭の中に色とりどりの花が、匂いまで嗅ぎ取れそうなほどに、はっきりと再現できた。

 サーモンピンク、オレンジ、ピンク、紫……そして、淡い緑の茎……。


****


「来られた……」


 今までは、自力で行くのはほとんど無理だった。リナリアが自分の記憶を補完している場所がどこなのかは、私もよくわからない。

 ……ここがどこなのかは、あとで考えよう。それよりも、急いで探さないと。

 私は慌ててリナリアの花の一輪一輪を確認しはじめた。

 水の祭壇の近くの、沼のほとり。その辺りに目星を付けて、花を確認する。


「あった!」


 今まで、ここはただのセーブ画面だと思っていた。だから見てもスチルを探せばいいのかな程度にしか思っていなかったけれど、違ったんだ。

 ここは彼女の大量の経験を蓄積させた場所だったんだから、辞書のようにして使い方を勉強しないと駄目だったんだ。

 私は沼で、リナリアが穢れを祓っている場面を発見して、慌ててそれに触れて、内容を読み取る。

 彼女は沼の中にまで入らず、沼のほとりから穢れを祓っているみたいで私とは状況が違うけれど……でも祓い方はわかった。

 でも、気付いてよかった。

【幻想の具現化】は、ただ劣化コピーすればいいってもんじゃ、全然なかったんだ。

 何度も何度もループしているリナリアほど上手くは使えないかもしれないけれど、母親人魚を助けるくらいだったら、できるかもしれない。

 私はそう思うと、急いで意識を元に戻すことにした。


****


 私が目を覚ますと、アスターはさっきと同じような様子で、私を待っているようだった。

 どうも私が意識を記憶の場所に飛ばしていたのは、一瞬程度しか時間が経っていないらしい。そりゃそうか。セーブ&ロードしている間に、時間が経過しているなんてこと、ゲーム中にだってあるわけじゃないんだから。

 私は母親人魚のほうをじっと見た。

 リナリアの持つ象徴の力の、本当の使い方を見られたんだから、なんとかなる。

 手を伸ばすと、必死で溢れ出す言葉を口にした。これは聖書の言葉を詠唱するのとも、魔法の呪文を詠唱するのとも違う。神託……に近いものなんだと思う。


「闇落ちる場所に光あり、夜ある場所に朝はあり、示せ夜明けよ、照らせ天よ……闇祓(ゴッドブレス)


 詠唱が終わった途端に、母親人魚の鋭かった眼光が緩んだ。

 途端に濁っていた水から汚泥がぐるんと巻き上がったかと思ったら、粉々に拡散していったのだ。

 母親人魚も、荒々しい雰囲気が払拭され、アズレアを見た。


「私……は」

「お母さん!!」


 途端にアズレアは母親人魚に抱き着いた。もう彼女は髪の毛を力任せに動かして、人を引きずり降ろすような真似はしないだろう。

 アスターはそれを感心したように眺めていた。


「やー……驚いたわ。本当に祓うとはなあ」

「はい。ちゃんとできてよかったです。人魚が完全に穢れに取り込まれていたら無理でしたが、間に合ったので」


 理屈で言えば、神託や火の祭壇で出会った神の雰囲気をそのまんま具現化し、母親人魚に流したというところだろうか。

【幻想の具現化】は、ただのコピー能力ではない。あれは象徴の力の持ち主の幻想……思いついたり見たり聞いたりしたものを、現実に浸食させる力だ。ただ私の想像力や力だったら、間近で見たものじゃなかったら劣化コピーすらままならなかっただけで、この力は本当だったらもっと応用できる。

 ただ……私はすっかりとくたびれて、水泡の中でしゃがみ込んでしまった。さすがに神の雰囲気をそのまんま具現化しようとしたら、気を張り過ぎて、長時間使い続けることは、まず無理だ。

 周回プレイを続けているリナリアのほうが、もっと体に優しい使い方ができるんだろうけれど、今の私にはこれが精一杯だ。

 私がへたり込んだのに、アスターもしゃがみ込んで、私の頭を撫でてきた。


「そっか。まあよかったな。美人さんを殺すのはこっちも不本意だしな」


 セクハラか。普段だったらもうちょっとやんわりと「やめてください」と言ってアスターの手を振り払っていただろうけれど、今はそれをするのさえも億劫で、されるがままになっている。

 母親人魚はアズレアにより髪の毛を剥がされ、ようやく岩から抜け出てきたけれど、こちらに対して警戒心を緩めることはなかった。


「……助けてくれたことには感謝する。だが、ここは我らの縄張りだ。今は見逃すが、早く出て行け」

「お母さん! でもこの人たち……」

「いえ……アズレア。いいんですよ。お元気で」


 アズレアはなにか言いたげだったけれど、私たちもそろそろ水泡の強度が限界だし、皆の元に戻ったほうがいいだろう。

 私たちはアズレアと母親人魚に手を振って、戻ることにした。

 ……人間が人魚にしたことを思えば、人魚に嫌われてもしょうがないと思うしね。

 そのままくぷくぷと泡が立っているのを眺めながら地上を目指していたところで。

 アスターが耳栓をスポンと抜いたことに気付いた。


「アスター、まだ沼を出てませんのに」

「大丈夫大丈夫。リナリアちゃんのおかげで今晩の内は人魚も見逃してくれるだろうし、明日には沼から完全に離れるしな」


 そう言いながら、今度は私の耳にまで触れると、耳栓を引っこ抜いてきた。ようやく圧迫されていた耳が自由になったけれど……アスターがなにをしたいのかわからず、私は目を細めて見上げてしまう。

 アスターは相変わらず飄々とした態度で「さて」と口を開いた。


「これで、あのチビも立ち聞きは無理だろ。今はリナリアちゃんとふたりっきりだし」

「ええっと……なんですか?」

「うん、一度さしで話をしてみたかったんだよな。普段は保護者が大勢いるわけだし」


 話が見えない。いったいなに? 私はなおも怪訝な顔をしていたところで、アスターはこちらに爆弾を投げかけてきた。


「で、結局リナリアちゃん。君って誰なの?」

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