沼の人魚・3
「それで、沼底では人魚が髪を手繰り寄せているはずです。それを突破する方法はあるんですか?」
スターチスは落ち着いた声で尋ねる。
一応人魚の髪の毛は剣でどうにか断ち切れる強度だけれど、それを無視してどうやって行くのかって話だ。
それに難なくアスターは答える。
「人魚の一番の脅威は歌だし、それはクレマチスの耳栓で問題はねえ。水泡沫で向こうに行く。それで空気は問題ねえが、問題は人魚の髪だなあ。あっちを戦意喪失させるしかねえが……リナリアちゃん、人魚にカルミアにやったような奴、できるか?」
「えっ? 人魚に……」
カルミアはピクンと眉を跳ねさせた。
私はアスターの言葉に、思わず唇に指を当てる。カルミアに今まで聞いてきた一般の人の悲鳴の音を具現化させて届けたけれど、あれはカルミアは別に暴君じゃないし、力のない一般人の実情を知れば止まってくれると思ったからできたことだ。
「……一応、私が具現化できるのは、私が見てきたり聞いてきたものだけです。カルミアの場合は、苦しんでいる皆さんの本当の声を聞いてもらえれば止まってくれると思いましたからできましたが……人魚は人間が嫌いなのに、なにを言って止まってもらいましょう」
「俺たちは聞こえなかったが、リナリアちゃんは人魚の声を聞こえたんでしょう? 聞こえたって返事で、それをそっくりそのまま送ればいいでしょうが」
「あ……」
そうだ。耳栓をしているのに聞こえたあの声。穢れに抵抗している状態の今だったら、まだ話を聞いてもらえるかもしれないし。
……もし、ここで人魚の穢れを祓う方法を習得することができたら、この先穢れを祓うことで、無駄な戦闘を省くことができるかもしれない。
こちらのやり取りを聞いていたアルは、一瞬目を細めたあと「それで」とアスターのほうを睨んだ。……どうにも、アルはアスターへの風当たりが強い気がする。
「お前の魔法だったら、何人まで行けるんだ?」
「今回は戦闘するつもりもねえし、俺とリナリアちゃんのふたりで」
「……仮にそのまま戦闘になった場合は?」
「その場合は話し合いは中断。即離脱するわ。これでいい? 過激な保護者さん」
よ、余計なこと言わないで、アスターも! ほら、アルの眉間にみるみる皺ができてるじゃない! 私はあわあわしつつも、アルにどうにか「心配しないでください」とだけ伝える。
「本当に危なくなったら、どうにかして逃げますから! ほら、耳栓で情報は全部皆さんに受け渡しできますし!」
「……本当だったら、自分も一緒に行きたいですが、駄目なら仕方がありません。ご無事で」
アルがそう言って私の手を少しだけ掴んだ。クレマチスは困った顔で、アスターのほうを見上げる。
「リナリア様のこと、どうかよろしくお願いします」
「オッケーオッケー、大船に乗ったつもりでまーかせなさい」
それだけ言うと、アスターは「リナリアちゃんこっちおいで」と手招きされて、そのまま呪文詠唱をはじめた。
本当だったら水泡沫は名前の通り水の泡で全体攻撃する呪文だけれど、円障壁でガス人間を圧縮して倒すくらいだし、魔法もただ攻撃や防御に使うんじゃなくっていろんな使い方があるんだろうなと思う。
「水面に浮かぶ泡沫よ、天地に昇り障壁をなせ……水泡沫」
詠唱を手早く終えると、私とアスターの周りを、ちょうど透明な障壁が包んだ。スターチスが出す障壁は薄皮一枚に包まれるような感覚だったのに対して、こちらはシャボン玉みたいで、すぐにパーンと割れてしまいそうで落ち着かない。
私があわあわと辺りを見回しているのに気付いたのか、アスターは笑いながら私の肩を寄せてくる。
「あんまり怖がらない怖がらない。それじゃ、ちょーっと行ってくるわ」
「くれぐれも、無茶だけはしないように。もし危険だと判断しましたら、こちらから象徴の力を使って介入しますから!」
「そうならないよう努めるわ」
クレマチスは心配そうに、意外とスターチスは落ち着きを払ったまま。カルミアはポーカーフェイスで、何故かアルはものすごく眉間に皺を寄せたまま、私たちは泡に入ったまま、沼の底へと向かったのだ。
****
沼の中は、私が浮かべた光の玉でどうにか背景はわかる。
魚は水底で眠っているらしく、泳いでいるのが見つからない。藻や水草は波紋で揺らめいている中、アスターが水泡を操って辺りをうかがっている。
「それで、リナリアちゃん。人魚の声は今も聞こえる?」
「ええっと……」
耳を澄ませれば、やっぱり聞こえる。
──あなたはどこ?
──どうして意地悪するの?
──やめて、やめて。こっちに来ないで
甲高くて舌っ足らずな声だ。さっきは謎解きみたいな言葉だったのに対して、今の声は脅えを含んでいるように聞こえる。
「ずいぶん怖がっているみたいです。それにしても……アルやカルミアを襲ったときみたいに、髪を伸ばさないんですね」
「俺も学問所でちょーっと聞いた程度だけど。人魚っつうのは本来臆病なもんなんだと。鱗は丈夫な武装になるし、髪は万能薬の材料になりえる。流す涙は真珠になるっつうことで、一時期乱獲されて、今はずいぶん数が減ったんだと。スターチスが水が綺麗な場所じゃねえと見つからないって言ってたけど、それにプラスして、乱獲されない安全な場所ってのが限られてるんだよ」
「それ……ますます私たちが悪役みたいじゃないですか」
人魚の肉を食べれば不老不死になるっていうのは、私もそんな題材のゲームをさんざんやったことあるけど、この世界でも人魚はそこまでされる扱いだったんだ……。
でもそんな希少価値高い生き物が穢れに取り込まれるって、大変なことなんじゃ。
私は耳を必死で澄ませて、人魚の行方を探していると、アスターが「おっ」と声を上げる。
上げた先には、豊かな水草が揺らめているのが見えた。その水草が揺らめいている中で、一見すると藻に見えるけれど、違うものが一緒に揺れていることに気が付いた。
……さっきアルやカルミアを引きずり込もうとした、深緑の髪の毛だ。
髪の毛は波に揺れているけれど、こちらに気が付いたのか、振り返った。
それにアスターは「ヒュー」と口笛を吹く。
さっきたしかに見えた、人魚の姿だ。
違うのは、さっきふたりを沼底に引きずり込もうとした人魚は成熟した女性だったけれど、今目の前にいるのは、水草を巻き付けた体のラインはまだ凹凸の乏しい子供だっていうことくらいだ。
「だあれ?」
鼻にかかった甲高い声は、やっぱりさっきから聞こえていた声だ。アスターは「あの子か?」と聞いてくるので、私は頷く。
「私はリナリア。『やめて』って声が聞こえてきて、ここまで来ました。さっき、陸にいた私の仲間が襲われましたが……あなた……じゃないですよね?」
できるだけ怖がらないように言葉を選ぶと、人魚の女の子はびくんと肩を震わせて、ぷるぷると首を振った。
「あのね……お母さんが、いきなり怖くなっちゃったの。危ないから、逃げてって言って……そして、お母さんの髪がいきなり伸びて、皆を襲いはじめたの……」
「ん、皆っていうのは、お嬢ちゃんの仲間の人魚かい? ああ、俺はアスターって言ってリナリアちゃんの騎士」
そう言って私の腰に手を回そうとするアスターの手の甲を、私は思わずつねり上げていたら、人魚の女の子は小さく頷いた。
「皆、人間は怖いの。なにもしてなくっても襲ってくるから……でも、私の声が聞こえる人は、悪い人じゃないから、大丈夫って、お母さんが言っていたの」
「ん。それって、リナリアちゃんが聞こえていたっていう奴か?」
それに、私は目をぱちくりとさせてしまった。
たしかにリナリアの【幻想の具現化】は強い象徴の力なんだと思う。なんたって見たり聞いたことあるもの限定だし、力は弱体化するとはいっても、コピーできるんだから。
でも。それを持っていたら信じてもいいって、どういうこと?
それとも、これは象徴の力の種類が問題なんじゃなくって、巫女姫の持つ神託の義務のせいなのかな? たしかに巫女姫じゃなかったら、神託は受けられないけれど……。
私が困っていると、人魚の女の子は舌っ足らずの声で教えてくれた。
「神様の声が聞こえる人じゃなかったら、私のさっきの声は聞こえないから」
「そうなんですね……」
納得していたところで、アスターが「で、リナリアちゃん。この子の親御さんが穢れに取り込まれているみたいだが、どうする?」と聞いてきた。
そうだ、この子の言い方だと、この子のお母さんのことで、この子の仲間も逃げちゃったんだ。
私たちは明日には沼を離れるとはいっても、このままじゃ人魚たちが住処を追われてしまうし、最悪この子のお母さんを殺さないといけなくなる……。
穢れを祓う方法っていうのを、私ができるのかがわからないけれど、このまま放っておくこともできない。
「あなたのお母さんは、今は?」
「……お母さんは、今、皆でどうにか岩に縛ったけれど……お母さん、しゃべれるときと言葉が全く通じないときとあって、さっきは全然私の言葉が通じなかったの」
どうも。いきなり髪の毛を伸ばして無差別攻撃していたときは、正気を失っているときだったみたい。でも言葉が通じるときがあるってことは、まだ完全に穢れに取り込まれていないってことだ。
以前出会った守護騎士さんが頭によぎる。あの人のときは、手遅れで殺さざるを得なかった。私が手を下していなくっても、見殺しにしたのも同じだ。
……リナリアは、穢れを祓う術を学んでいたんだろうか。巫女や神官でも、穢れを祓える人と祓えない人といるみたいだけれど。
まだ間に合うんだったら、どうにかしたい。
「案内してください」
私の言葉に、アスターは少しだけ口をひん曲げたけれど、やがてふっと笑うと人魚の女の子に笑いかけた。
「お姉ちゃんが助けてくれるってさ。よかったな。ああ、お嬢ちゃんの名前、お兄さんに教えてくれないかな?」
彼女はぱっと笑うと、頷いた。
「私は、アズレア。お母さんはあっち!」
アズレアはそう名乗ると、私たちを先導して泳ぎはじめた。
光の玉がだんだん少なくなってきているし、水泡の空気もいつまで持つかはわからないけれど、ひとまずは行ってみるしかない。私たちはアズレアの背を追いかけて、水泡を泳がせた。




