沼の人魚・1
寝て起きたら、じんわりと汗ばんでいるのが気持ち悪く、ごしごしと汗を拭いてやり過ごした。
今日の夢にはリナリアは出てこず、当然ながら彼女の記憶の空間に入れることもなかった。
世界浄化の旅がはじまってから、どうしてリナリアは私にコンタクトを取りに来てくれなくなったんだろう? フラグ管理がどうなっているのか、いまいちわからないんだけれど。
安全牌は今のところ、アルとスターチスくらいだと思うけれど、他が読めないんだよな。アスターのフラグは折れているのかいないのかわからないし、思っているよりも早いパーティー加入だったカルミアのフラグはどうなっているのかわからない……クレマチスの場合は、今のところ完全に姉弟の関係を維持しているし、なにもフラグが立ってないと信じたい。
それにしても……リナリアが私とコンタクトを断っている理由が全然わかんないなあ。彼女の性格を考えたら、私にリナリアの役を投げっぱなしにするとは思えないんだよね。
やり方は正直気に入らなかったけれど、ゲーム本編開始までは、私を鍛えようとしている節があったのに。
「うーん……」
考えても埒が明かないから、ひとまずは勢いを付けてベッドから起きることにした。
今日から火の祭壇を出て、水の祭壇に向かわないといけない。
場所は湿地帯だって言っていたけれど、暑くてしょうがなかった火の祭壇よりもましだといいんだけどなあ。
いくらゲームでシナリオ全部読み込んでいるとはいっても、知っているのと実際体験するのとでは大違い。
匂いや温度だけは、シナリオだけじゃわからないんだもの。
部屋を出たら、食堂に向かう。食堂では私たちの朝ご飯以外に、神官さんがあれこれと食事と水の備蓄を荷物にまとめてくれていた。結構な数だけれど、これ神官さんの分は大丈夫なのかしら。
「あの、神官様のぶんは大丈夫でしょうか……?」
思わずそろっと聞いてみると、神官さんはうっすらと笑う。
「心配いりません。自分は巫女様たちが無事に火の祭壇を通過したことを神殿にまで報告に上がりますから。このときに交代しますし備蓄もそのときに運ばれますから」
「ああ……そうですね」
そっか。
神殿からしてみても、巫女一行が無事に世界浄化の旅を遂行しているってことを知ってフルール王国に報告しないといけないもんね。
私がそう納得していたら、既に食堂に来ていたスターチスとクレマチスが挨拶をしてきた。
「おはようございます、リナリア様」
「はい、おはようございます」
「昨日から、人魚の対策をスターチス様としていたんですが」
人魚の歌が厄介だとは、ふたりも指摘していたけれど、こればっかりは管轄外過ぎて、なにも意見が言うことができなかった。
学者ふたりが額を突き合わせて、なにか意見が出たのかしら。私がクレマチスのほうを見ると、クレマチスとスターチスが頷き合う。
「こちらを皆に配って、どうにかならないかと思ったんです」
そうして私の手に載せられたものを見て、思わず目が点になる。
コルクみたいな木の栓みたいな……耳栓みたいに見えるんだけれど。これ付けて、大丈夫なの?
私が困惑していると、スターチスが解説してくれた。
「特別製の耳栓です。ですが遮断するのは人魚の歌であり、他の音を遮断するものではありません。はめてみてください」
「ええっと……はい」
一応髪を避けて耳にはめてみるけれど、音が堰き止められたような感覚はない。普通に……音が聞こえているよね。
「なにも変化がないように思いますが」
「ええ、これはクレマチスくんの象徴の力を込めていますから」
「クレマチスの……ですか?」
彼の象徴の力である【策略】を込めたら音が聞こえるの?
わからないって顔をしていたら、今度はクレマチス本人が解説してくれた。
「前にリナリア様の【幻想の具現化】を、モニター越しに【策略】を使って制御したのと同じです。索敵を使って周囲の音を拾い集めますが、人魚の音は弾くように設定しているんです。全部の耳栓にそう制御が入っています。これでしたら、人魚の歌に対応できます」
「なるほど……」
一見ただの耳栓だけれど、こんな細かいことができるようになっているんだね。全部の音じゃなくって、特定の音だけを弾くようにするっていうのは、私の世界の科学でも結構高度なことだ。補聴器とかについているノイズキャンセラーってことだよね。
「まあ、人魚は歌で人を操って来るのが怖いから、これでちょっとは制御できたら儲けもんだよなあ」
そう言ってあくびを噛みしめながらやってきたのはアスターだ。
一方、同じくやってきたカルミアは、耳栓をちらっと見つつも、眉を潜ませている。
「人魚だけではないだろう? 湿地帯の穢れは」
「たしかにそうですね。早急に対策が必要だったのが人魚だけで、あそこは沼いっぱいに穢れが潜んでいますから。水の祭壇に流れ込む沼の水は、元は各地の穢れの濾過が追い付かずに沼地の生き物に取り憑くものですから」
「あのう……少しだけ質問はいいですか?」
その話を聞いて、少し疑問が湧いたので、スターチスに向かって手を挙げてみる。
「はい、リナリアさん」
「人魚は元から人魚なんですか? 穢れがついた別の生き物なんでしょうか?」
ゲーム中にマップ敵として現れる穢れについて、深く考えたことはなかったけれど、ちょっと考えれば疑問だったので、聞いてみることにした。
それに目をパチリとさせると、スターチスは馬鹿にすることなく教えてくれた。
「そうですね、元々人魚はそういう生き物でした。人間と慣れ合うことが嫌いで距離を置くために、人間の住む場所にはほとんど存在は確認できません。水の祭壇の沼に住んでいるのも、水の祭壇の管理をしている神官以外の人間以外はほとんど来ないからでしょうね」
「でも、それだったらわざわざ倒すことはないんじゃ……」
こっちがわざわざやってきたんだから、それが原因で縄張り意識の高い人魚が怒るんだったら、逃げちゃったほうがいいような気がするんだけれど。
それともこっちがお人好しが過ぎるの?
私の言葉に眉をひとませたのは、やはりカルミアだった。
「……縄張りに入ったのはこちらだが、攻撃してくるのに反撃しないのは、殺してくれと言っているのと同じだろうが」
「そう、なんですけれど」
「穢れだろうが獣だろうが、こちらに手を出してきた場合は殺すしかないだろ」
この人、他に言うことがないのかな!?
私はこの冷たいことを言う人に思わずムキになりかけたけれど、それに「恐れ入りますが」と口を挟まれてしまった。
ちょうどひとりで朝から日課の鍛錬を行っていたアルが、ようやく食堂に入ってきたのだ。
「彼の言うことももっともです。刺激したほうが悪い。それは事実ですが、それが原因でこちらに危険が生じる場合は、逃げるよりも殺すほうが早いです」
「アル……そうなんですか」
そうだ、アルとカルミアは、相当折り合いが悪いとはいっても、考え方は一番似ているんだった。
でもふたり揃って、思考パターンが脳筋過ぎないかと思うのは、私だけか?
思わずぐぬぬぬぬ……と黙り込んでしまった私を、どうにかなだめるようにスターチスがまとめに入った。
「我々も遭遇しない限りは人魚を殺す必要はありませんから。会わないことを祈りましょう……もっとも、水の祭壇の湿地帯が、こちらの思惑に沿ってくれるとは限りませんから」
そう、だよなあ……。
どうにか割り切らないといけないなと思いつつも、納得しきれないのは、やっぱり平和ボケがし過ぎるのかもしれない。
熊に会ったら逃げるか殺すかしかないっていうのと、一緒なのかもしれないけれど。
でも……悪いのは縄張りに勝手に入った私たちのはずなのに。
アルは「慣れるな」と言ってくれているけれど、慣れないと駄目なんだろうか、とついつい考え込んでしまう訳だ。
****
「巫女様たち、どうか道中お気を付けて」
「はい、こちらこそお世話になりました。ありがとうございます」
火の祭壇の神官さんに何度もお礼を言ってから、いよいよ水の祭壇へと向かう。
試練が終わってから出てきた神が言っていたとおり、昨日ここに着いたときには閉ざされていたはずの道が開け放たれている。なるほど、代々巫女姫が道を開くまでは直通の道は閉ざされているんだな。水の祭壇や他の祭壇にも神官たちが派遣されているはずだから、神殿からの道はあるはずだもの。
火の祭壇から水の祭壇に伸びている道は、気のせいか火の祭壇付近のからからに乾いた岩砂漠の風とはちがい、吹き抜ける心地がさわやかだ。おまけに緑の匂いがする。
いよいよ水の祭壇へと繋がる道に足を踏み入れた途端。土の柔らかさに、思わず「ぎゃっ!」と悲鳴を上げそうになったので、思わず口元を手で押さえる。リナリアはそんなこと言わない。
私が声を上げそうになったのに、アスターはニヤニヤと笑いながら話しかけてくる。
「なあに、リナリアちゃん。甲高い悲鳴を上げそうになっちゃって」
「き、気のせいです……っ。それにしても、水の祭壇への道に入った途端にガラリと変わってしまうんですね。さっきまで岩砂漠でしたのに、次はこんな湿地帯で、土もどろどろしてますし」
ぬかるみってほどでもないけれど、足元はぐちゃぐちゃしているような気がする。これは沼以外でも足元に注意しないと、すぐ疲れてしまうなあ。
それにスターチスが解説してくれる。
「この辺りは火の祭壇と同じく乾燥しているのと同時に定期的に洪水が訪れますから。空気自体はそこまで湿気を含んでないかと思います」
ああ、そういえば。日本だったら湿気イコールじめじめしているって感じの梅雨が頭に浮かぶけれど、この辺りは土が柔らかい割には、空気は湿気てない。
ぐちゃぐちゃの道の脇には沼が広がっている。浮草はぷかぷかと浮いているし、背の高い草もたくさん生えている。
沼の色は気のせいか緑色に見えるけれど、こんなところに人魚が住んでいるんだ。そう思ったけれど、思わず首を振る。
わざわざ殺したくないから、できれば出てきて欲しくないなあ……。
そう思っていたら、クレマチスのほうから皆に声がかかった。
「それでは、皆さん火の祭壇で配りました耳栓は付けましたか?」
全員頷く。私も、一応付けっぱなしだけれど、耳になにか入っている感覚がある以外は、本当に普通に音は拾えているんだ。
「こちらも人魚に遭遇しない限りは戦いませんが、できるだけ早く沼から離れましょう……今日一日はどうしても沼から離れそうもありませんが」
たしかに。水の祭壇へと続いている道の脇の沼が、いったいどこで途切れるのかが、今歩いている道からじゃ全然見えないんだ。
……お願いだから、来ないで。そう思わずにはいられない。




