穢れの侵攻・2
施設内は血のにおいがあちこちで漂っている。正直気分が悪いし、神殿だといかに甘やかされていたのかっていうのをこれでもかって思い知っているけれど。
隔離壁を降ろさないと、穢れが外に出てしまう。私たちは隔離壁を作動させるために、その装置の付いている部屋を探していた。
通路を走って最初の部屋は倉庫らしい。もしゲーム中だったら、家探ししてアイテムのひとつでも回収したいところだけれど、さすがにそんなことしている暇も猶予もないので、ドアをばんばん開けながら中を確認して、装置がないと判断したらすぐに走るって行為を繰り返していた。
幸い、ここでの実験動物は犬だけだったらしく、それよりも大きく凶暴な穢れには遭わなくて済んだけれど、施設の奥まで入ったと思うのに、こうも人にすれ違わないのがだんだん怖くなってくる。
「ここの部屋も、隔離壁の起動装置はないようですね」
多分ここは施設で働いていた人たちの仮眠室だったんだろう。アルはそっと仮眠室に散らばる寝具に触れる。多分既に体温は消えている。
クレマチスは仮眠室に置きっぱなしの荷物を「申し訳ありません」と言いながら漁ると、そこから施設の見取り図らしいものを引っ張り出してきた。
私たちはそれを広げてみると、正面口と裏口の中央。そこに施設全体の監視室があるとわかった。
「あの、施設内の監視って……」
「おそらくですが、本来は穢れを取り扱っている以上は細心の注意をはらって実験を行わないといけません。ここで結界石や隔離壁の起動を管理していたと思います」
クレマチスは漁らせてもらった荷物に「お借りします」と頭を下げてから、地図をローブの下にしまう。ここから四つのブロックを越えた先に監視室はあるはずだ。
アルは厳しい顔をする。
「しかし、このままでは監視室で隔離壁を起動させても、誰かひとりがしなければ全員閉じ込められてしまいます。もうリナリア様は施設から脱出してください」
それに私は目を剥く……ちょっと待って。まだ本編はじまってもいないのに、アルに死ねって命令できる?
そりゃたしかにここで穢れを閉じ込めることができれば、ウィンターベリーの半壊も、スターチスの闇落ちも防げるけど。それのためにアルに死ねって言わないといけないの?
私とアルが睨み合う中、クレマチスはおろおろと私たちの顔を見たあと、そっと言う。
「……リナリア様、申し訳ありません。ぼくも、それが一番いいと思います」
「ですが、クレマチス……!」
「リナリア様は、替えが利かないんです。それはリナリア様も神殿で神官長とお話したでしょう?」
「ですが……!」
わかっている。どっちのほうが重いかっていうのは。でも、全然納得できない。でも、私にはふたりを納得させられるだけの力がない。
どうして……どうして、象徴の力が、いつまで経っても使えないの……!!
──言葉を大切にしなかったら、その言葉がいい力を持つとは思えないのですよ。穢れは言葉を邪険に扱った結果なように思うんです
ふと、頭に浮かんだのは、スターチスの言葉だった。
そこから、頭に流れてくるのは、私がシンポリズムに来てからの言葉の数々だった。
──……はい、いいんですよ。リナリア様が記憶を失ってもなお、使命に燃えているのを見られたら、ぼくは充分なんですから
クレマチスには、会ってからずっと振り回してばかりだ。今も、つらい決断をさせようとしている。しないといけないのは、本当だったら私のはずなのに。
──いや、いい……世界浄化の旅までだ。俺がお前のことを黙っているのは
私のことをこの世界でただひとり、リナリアとして扱わない人だ。私は、アルを死なせたくない。
ゲームのシナリオとか、ゲーム中の侵攻とか置いておいても、死んでいいなんていう人、いるわけないでしょ。……優柔不断で決断できないって言われてもしょうがないじゃない。死ねなんて、そんなこと本当に言えるの。ねえ。
私がそう思ったとき。アルの目が鋭くなった。
ドアは開けっ放しにしていたんだから、侵入されても仕方がない。アルの手は背中の大剣じゃない、胸元のナイフに伸ばした。クレマチスは聖書を大きく振るったものの、聖書にそれは噛みついた。
それは犬の穢れじゃない。
犬よりも牙が鋭く獰猛な……狼。実験動物として狼まで入れていたらしい。狼の穢れは聖書から牙を抜いたあと、そのまま前脚でクレマチスの腹を突いた。そのまま突き飛ばされたクレマチスは、戸棚に身体をリバウンドさせながら倒れた。
「クレマチス……!」
「リナリア様、お下がりください!」
アルが素早くナイフを投げるものの、それは脚をなんなく弾ませて、跳んでそれを避けた。その牙は、私のほうへと向かっていった。
私は目を大きく見開く。
言葉と向き合う。スターチスやアルメリアの言っていた言葉の意味は未だにわからないものの、今、自分から引きずり出さないと、死ぬということだけはわかった。
リナリアの花言葉は、幻想……。彼女の象徴の力は【幻想の具現化】。
頭に浮かんだのは、パステルオレンジのリナリアの花。そして次に浮かんだのは、鋭利な光を放ち、ときには強盗の足に突き刺さり、ときには私の首筋に当てられたアルのナイフ。瞼の裏に感触まで思い浮かんで、私はとっさに手を伸ばしていた。
狼が口を大きく開けたそのとき。私の手からそれは出た。アルのナイフが、そっくりそのまま出て、それが狼の喉に突き刺さったのだ。それでビクンッと身を震わせる。
一瞬呆気に取られたアルだが、すぐにナイフを取ると、狼の急所に突き刺して引き抜いた。戸棚で激しく身を打ちつけたクレマチスは、ようやく起き上がると私のほうへと寄ってきた。
「リナリア様……! 今のは!」
「あの……とっさに頭にアルのナイフを思い描いたら、出たんですが……」
「それです! リナリア様は頭に思い浮かべたものを一瞬だけ本当にする力を持っていましたから!」
「あ、ああ……」
私は顔を真っ赤にしたクレマチスに手を取られて、目を白黒とさせた。ちらりと狼を見るけれど、喉から血は流しているものの、とっさに投げた幻想のナイフは既に消えてしまっていた。それを眺めながら、アルは自分の突き刺したナイフを抜いて、血を拭き取っている。
「……リナリア様、おめでとうございます」
アルが薄く笑うのに、私はクレマチスに手を取られたまま、思わず頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「でもこれでしたら、隔離壁を降ろさずともなんとかなるかもしれません」
「ええ?」
クレマチスの提案に私はハテナマークを浮かべる。アルもクレマチスの言葉の真意はわからないまま、ひとまず監視室へと向かうことになった。
****
相変わらず人はいない。もし全員避難していたんだったらそれはそれでかまわないけれど、ウィンターベリーの人たちのことはどっちでもよかったのねと憮然としてしまう。
つるんとした廊下をとおり過ぎた先に、物々しい魔科学の装置が並んでいる場所に出た。モニターは恐らくは見る象徴の力を溜め込んだ石が使われている。装置を起動させれば、モニターに映っているのは、施設のあちこちに散らばっている穢れだ。人はいないみたいなのに複雑な気分になりつつ、クレマチスは全部のモニターを表示してくれた。
「リナリア様、今モニターに映っている場所を見てください」
「え、ええ……」
クレマチスは読む癖のついている聖書をぱんと開いた。牙で抉られてはいるけれど、かろうじて読めそうな感じだ。
言われるがまま、私はモニターに集中する。犬の穢れ、狼の穢れが獲物を探してさまよっているのがわかる。
「見てますが……」
「そちらにぼくたちが走っている幻覚を送り込みます。ぼくたちが走っている幻覚を出現させることはできますか?」
「一応走っている幻覚を出すことはできると思いますが……今使えるようになったばかりですので、モニターの向こうに送るなんて芸当、私にはとても……」
「大丈夫です」
クレマチスはにこりと笑った。
「制御はぼくが行いますから。それに一度使った力は、なかなか忘れるものではありませんから」
そうはっきりと言われてしまったら、できるかもしれないと思ってしまうから私は現金だ。私は小さく「やってみます」と言いながら、モニターを見る。
まぶたの裏に、私たちが息を切らしながら隔離壁の装置を探しまわっていたときの光景を思い浮かべる。幻想を具現化できるのは、リナリア本人だったらもっと長いはずだけれど、私だったらせいぜい三十秒あればいいほうだ。私が思い浮かべた光景を具現化する。
途端に、モニターの向こうの犬や狼がその幻覚を追いかけはじめた。息を切らしながら走っている様は、犬や狼に追いかけ回されてもなお、同じ姿勢を保っていた。
私は驚いてクレマチスを見たら。クレマチスの琥珀色の瞳が爛々と輝いていることに気付く。穢れが幻覚を追いかけるのに集中して、施設の外に出ようとしない。
「あの……クレマチス?」
「『……祖から祝福の光を、怨敵に裁きの光を……』」
ああ、そっか。私は思わずクレマチスが聖書の詠唱をはじめるのを見て納得した。
ゲーム中で、リナリアのつくった幻覚をクレマチスが操作し、その幻覚に自身の攻撃呪文を乗せるという戦闘手段が存在する。ゲーム中だったら理屈がよくわからなくって、ネットでも「単純にクレマチスとだけ合体技がないから?」と言われ続けていたけど。
今みたいにモニター越しになんてどうやって幻覚を送るんだろうと思ったけれど、なんてことはない。クレマチスの策略で幻覚を送り込んで足止め。足止めしている間に攻撃呪文でトドメを刺すって寸法だ。
もっとも、超長距離を見られるモニターなり、そんな距離を見られる象徴の力と噛みあわせなかったら、人の出した象徴の力を遠くへ送り届けるなんて芸当できないけれど。
最後に、クレマチスは詠唱を終える。
「閃光……!!」
モニターの向こうに、情け容赦ない光の雨あられが降り注いだ。床もクレーターをつくっていくのに、私は思わず「はあ……」と息を吐いた。
集中を終えたクレマチスはようやく聖書を閉じる。
「これで、モニターで見える穢れは全部始末できたとは思いますが……」
「あとは施設を脱出すべき、でしょうか?」
「いえ。まだ穢れの侵攻の予測装置を取りに行かなければいけません」
「あの……それを取りに行くのは?」
正直、もうここは危ないからさっさと脱出したほうがいいと思うんだけれど。だって既にウィンターベリーの半壊は防げたし、アルメリアの死は阻止できたんだから。
私が首を傾げていたら、今までは黙って見届けていたアルが口を開く。
「……今回の一件は、ウィンターベリーの神殿支部がこの施設の管理者と癒着して見逃した可能性が高いからです。装置の実験のために、町を使う」
「そんな……町の人たちはなにも関係ないじゃないですか……!」
「ええ。そうです。ですからこの装置は支部と癒着してない正しい学者に正しい研究の引き継ぎをするべきだということです」
「幸い、ウィンターベリーの学問所は神殿の管轄ではありませんので、そちらに引き継ぎをできればと思います。……この装置の開発自体は、正しいことだと思いますので」
「そう、ですね」
正直、穢れの侵攻予測自体は必要な研究だと思う。ただ町ひとつを犠牲にする必要はあるのかというだけの話で。一度モニターを見て、装置のある場所に目星をつけると、正面口に近い部屋へと私たちは走っていった。




