神官見習いの幸福
ぼくがスターチスさんから論文を借りて読んでいるとき。ドアが開く音がしました。外を見ると、アル様とリナリア様がふたりで連れだって歩いているのが見えます。
スターチスさんがお茶を運びながら「おや」と言います。
「夜はあまり人気がないんで危ないんですが、大丈夫ですか?」
「それは大丈夫だと思います。アル様はお強いですから」
「ああ……アルストロメリア君は、たしかに」
象徴の力のことでここに滞在したことがあるらしいですが、スターチスさんにも彼の腕は認められてしまっているようですね。スターチスさんが「妻からの差し入れです」と勧めてくれたお茶をありがたく飲みながら、ぼくは論文に目をとおさせてもらいました。
一般的に使用されている象徴の力のことは謎が多く、哲学的な見解からそれを紐解こうとする試みが面白く、ページを進める手がなかなか止まりません。
「それにしても、リナリアさんの件は不思議なものですねえ……」
スターチスさんはお茶を飲みながら言うのに、ぼくは顔を上げました。
「記憶喪失が原因で象徴の力が使えないというものです。名前を覚えていたら、本来は染み込んでいるものなんですがねえ。記憶喪失になったという前後のことはアルストロメリア君の手紙にもありましたが、自分の象徴の力の使い方がわからないという例は今まで調査をしてきましたが、そんな症例ははじめて見ました」
「そうなんですね……リナリア様は」
「はい?」
「忘れたかったのではないかと思いました。彼女も立場の難しい人ですから」
スターチスさんは一瞬眉を潜めましたが、短く「そうですか」とおっしゃってくださいました。
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思えば、王城にいた頃から、彼女はいつもここじゃないどこか遠くを見ていました。たしかに彼女は人と比べれば美しい顔立ちをしていて、皆が「お美しい」と褒め称えていましたが、ぼくにはその顔がひどく恐ろしく思えたんです。
まだリナリア様が神殿に入る前、叔父上が生きてらっしゃった頃。ぼくは王城の庭で迷子になっていた頃がありました。
彼女はいつも人に囲まれていましたが、その中で本当に珍しくひとりでいたのを見たんです。迷子になって泣いていたぼくは、知っている顔を見つけてほっとして、声をかけようとしました。
「リナリア、さ……ま……」
その声はすぐに小さくなって、最後は尻すぼみになってしまいました。
彼女の顔は、いつも笑顔が浮かんでいたはずなのに、その日に限っては全然ちがう表情を浮かべていたんです。無表情で、人形のよう。
その表情を見て、ぼくは思わず逃げ出してしまいました。
でもあの表情を見せたのは、ひとりっきりのときだけ。彼女は人と一緒にいるときはいつも笑顔を浮かべていて、最初はあれはぼくが迷子になって不安だったせいで見た幻だったんじゃないか、思い込みだったんじゃないか。そう思いましたが、あれだけ印象的に残った表情が幻だったのか、ぼくにも自信がありませんでした。
やがて、叔父上は崩御されました。
国葬の際、叔母上は声を上げて泣き、ぼくたち王族の子供ももらい泣きしていました。でも、そのときにぼくは見てしまったのです。
表情を失ったリナリア様を。
誰もがリナリア様のその姿を「おいたわしい」と言っていましたが、ぼくだけはちがいました。あのとき見た無表情な彼女は、決して幻や見間違いじゃない、本当に見たものだったのだと。
ぼくはひどく混乱しました。優しい従姉のあの笑顔は、優しさは実は全部演技だったのではないか。本当は全部自動人形的にやっていただけで、なにも感じないあの顔が本性ではないのかと。
やがて、リナリア様は神殿に入られました。父が亡くなり、王位を継ぐのは伯父……ぼくの父上がふさわしい、自分は父を弔いながら生きると。
まだひと桁の子供が言うことではなく、当然彼女の神殿行きは反対されましたが、同時に神殿側は彼女が来ることを大層喜んだのです。当時は神殿には巫女がおらず、近い将来行う必要のある儀式……世界浄化の旅を執り行う巫女が育てられないという事情があったというのは、あとから聞いた話です。
リナリア様が巫女になったのは、まるで穢れのことを予見していたからに思えてならないのです。あの無表情も、やがて訪れる災厄と対峙する恐ろしさを殺していたのだと、そう思います。
ぼくが神殿に入ったのも、表向きは王位継承権で争わないように、兄上たちの迷惑にならないようにするためと皆には思われているでしょうが、実は違います。
彼女が表情をこれ以上殺す必要がなくなるようにしたかったからです。
神殿でしばらく会えなかった従姉に再会することができました。彼女は王城で見せたときよりも美しくなっていましたが、同時に未だに表情が人形のように見えました。
「リナリア様……! ぼくも神殿に入りました」
「クレマチス……あなたは来なくてもよかったのに、国王陛下にはなんとおっしゃったのですか?」
「……父上には立派な息子が他にいますから、大丈夫ですよ」
「そうですか……」
リナリア様が気遣わしげに目を伏せる様は、演技だったのでしょうか。本当に気遣いだったのでしょうか。今となってもはっきりとしませんが。彼女の心労がすこしでも和らぐようにと、ぼくは必死で勉強し、修業をはじめました。
神殿にいれば、あちこちで穢れ祓いの嘆願書が届き、そのたびに神官が出かけていき、ときにはリナリア様も出かけていくのが目に入りました。
聖書に書かれていた、世界浄化の旅が、だんだん現実味を帯びはじめたとき……彼女はすべての記憶を失ったんです。
それを見たとき、ぼくはまさかと思いました。
彼女は使命で押し潰されてしまったのではないか。自分がいなくなってしまいたいと思ったのではないか。リナリア様がいったいどこまで予知していたのかはぼくにもわかりません。ですが、別人のようになってしまった彼女を見ると、あながち間違いではないように思えるのです。
無表情で、すべてをガラスのような目で見ている彼女。
使命のために、外出許可が降りるのをじっと待っている彼女。
神殿で出会ったアル様の前では力を抜いている彼女。
記憶を失ったせいか、力の使い方も忘れてしまった代わりに、つくり物じゃない笑顔を見せるようになった彼女。
どれが正しいのか、どれが間違っているのか、ぼくにはわかりません。ただぼくは、もう彼女が自動人形的に受け答えする様を見たくないだけなんです。
アルメリアさんと一緒に必死で慣れない家事を行うリナリア様を見て、ぼくは心底ほっとしました。彼女にもまだ、人間らしさは残っていたと。右も左もわからず途方に暮れながらも、一歩一歩前を向いて歩こうとするさまは、ぼくが見ていた限りなかったものです。
力はたしかにアル様はもちろん、神殿騎士の方々には劣るかもしれませんが、他の方法でリナリア様を守る方法は身に付けました。彼女がもう心を砕かなくてもいいようにするのが、ぼくの今の目標です。
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しばらくしたら、リナリア様とアル様は戻ってきて、リナリア様はアルメリアさんが貸した部屋に戻っていきました。ふたりの話は終わったようですし、ぼくもそろそろやすませてもらおう。
スターチスさんにお礼を言って部屋に戻ろうとしたとき、ドアが鳴りました。
「はい、どうぞ」
スターチスさんが声をかけると「失礼する」と入ってきたのはアル様でした。
「お帰りなさいませ。先程リナリア様とお話を?」
「……ああ」
ぼくの問いにいつもの様子で短く答えると、アル様はスターチスさんに声をかけました。
「たしかウィンターベリーには穢れの侵攻を予測する装置を開発している施設があったと思うが、今もそこは研究は進んでいるか?」
唐突すぎる言葉に、スターチスさんは少々面食らったような顔をしましたが、すぐにおっとりと答えてくださいました。
「ええ、町外れですが、今も行っていますよ。それがどうかしましたか?」
「……リナリア様の象徴の力が戻るまでの間、彼女を頼む。明日はちょっとそこの様子を見に行ってくる」
アル様は普段、用事があったら用件だけ言うのですが、なんだか本調子じゃないように思えます。
リナリア様といったいなにがあったんでしょうか。
「あの……リナリア様となにかありましたか?」
「いや、リナリア様が慣れない環境にいるのを大丈夫か話をしていただけだ」
「そうですか」
リナリア様は弱音を吐かない上、あまり心内を語るかたでもないのに。アル様らしくない嘘に、ぼくはただ首を傾げていました。
でも。明日は論文を読まずに彼女の傍を離れないようにしたほうがよさそうです。




