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おおかみさんがおおかみになったわけ

「あなたただものじゃないわね・・・。」

「そりゃあ、だっておおかみだもの。」

「てつがくのおおかみ。」

「まあ、なんとでも呼んでくれ。」

「なんか話して?」

「何を?」

「何でもいいから。」

「困るな。とっとと自分のやるべきことでもしてな。」

「それがないから、あなたと話したいの。」

「何も話すことなんてない。」

「何でもいいから・・・そうだ、おおかみさん、あなたのことについて聞かせてよ。」

「そんなもん聞いて何になる。」

「いいじゃん。興味ある。話してよ。」

「おれは狼だ。話すのは苦手なんだよ。」

「いいから・・・」

「そこまで言うなら・・・。

・・・たしか、おれは人間だったような気がする。もともとは。」

「うん。子供のころなんかあったの?」

「勉強はいつも学年で十番以内だった。

大学も東大の文科一類というところに現役で合格し・・・」

「ふうん、エリート中のエリートなんだ・・・。っていうか、おあああああああああーーーーーー!

すげーーーーーーー!!日本一じゃあないかあ。」

「そんなもん、今では何の意味もない。

周りも家系始まって以来の大出世、将来安泰とほめたたえた。そして私も鼻高々であった。

法学を学び始めるうちに、私の人生はこの先このままでいいのだろうかという恐ろしい懸念が繰り返し発作のように襲ってきた。

周りの期待に応えようとして自分を殺し続けていたが限界を感じたからかもしれぬ。自分の能力が勉強以外に全く何もなく、その勉強すらも全く手につかなくなったからかもしれぬ。当時周りにいた人間の死を見たということもあるかもしれぬ。詳しくはもはやよくわからぬ。ただ、生自体すべてが空しく自分を押しつぶすおそろしい重圧でしかなくなっていたのだ。

このまま、あと何十年間もこの重圧が続いた挙句、最後には死しか待っていないとなると、人間が生きていることにはいったい何の意味があるだろう。」

「何言ってるかあんまわかんない。へえ、頭のいい人にもそんな悩みってあるんだ。ぜいたくな悩みだね。

おおかみだから何にも考えていないと思っていた。」

「能力さえ高ければ、キャリアさえあれば、私の苦悩やコンプレックスは満たされるだろう・・・そう思っていたが、それは解消されないどころかますます私を苦しめたのだ。

私は次第に授業に出なくなり、他人との関わりも経ち、ひたすら自宅に引きこもるようになった。

両親や親戚は狂ったように泣き叫び、お前に投資したすべて何千万円がドブに落ちた、何のためにお前を産んだのと嘆くたび私は死にたくなった。つまり、私の存在は金でしかなかった。学歴でしかなかった。そのためだけに生きてきた。そして、それ以外には何もなかった。

私は物心づいたころから遊びたいものも遊ばず、友人も作らず、時には棒でたたかれながら朝から晩まで勉強三昧でやってきたはずだった。視力はほとんどなくなり、十代にして老人にも似た白髪だらけの頭になった。しかし・・・何だったのだ!あの苦労は!

周りの人間は東大まで入れた両親の財力に感謝せよとのたまう。

ひきこもりの状態になってもなお、私ははにかむことしかできなかった。

それを否定すると、私は人でなしになってしまうからだ。

・・・そして、人でなしであることしか私が命を保つすべはなかったといってもよい。」

「・・・なんか、少しわかるような気もする。」

「周りが、次々と就職し、彼女を作り、官僚になり、結婚して、周りから祝福されていく中・・・

私だけがただ一人孤独で、無能であったのだ。

いや、人間であれば多かれ少なかれ同じような悩みを抱えておりどんなに幸福に見える人でもそれなりに苦悩や不安の中にいるのであって、「自分だけが」と思っているだろうが、その文言は私だけには当てはまらないほどどうしようもないほど自分自身を締め付けるような不幸に思われた。

私は、誰からも必要とされていない!

そう気が付いたのだ。

官吏の仕事もできぬ。かといって、二流の会社に甘んじるくらいなら死んだほうがましだ。」

「うちなんて、はなっから人生あきらめてるからぜいたくすぎるよそれは。」

「恥に恥を忍んで、二流の会社で甘んじようかと思った。なぜかことごとく就職すらできぬ。

この世の中に私という人間の存在する余地はなくなっていた。

勇気を出して対人関係の中に飛び込もうとし、笑顔を作りしっかりとあいさつを心掛けるものの、やはりなじられ叱責される。

どん底まで落ちぶれた。

学歴を隠して、アルバイトくらいならできるだろうと高をくくっていたものの、それは勉学以上に過酷な環境であった。

仕事という仕事が全くできずよく叱られ続けた。このとき分かった。人間の苦労や努力と得られる報酬などは何の関係もないことを。

それまで習得した膨大な学問や知識が目の前の単純作業の前では何の役にも立たぬばかりかむしろ邪魔なものでしかないことを身をもって悟った。

生計を立てていくも、あまりにも仕事ができぬ上、学歴も知性もないような上司や同僚に無能無能となじられ、長くは続かない。

ついに日雇いとなるが、私はもはや名前も人格も持たない、機械の一部であり、社会の取り換え可能な部品としての扱いしか受けなかった。

前半生あれだけ血のにじむような努力をしてきて地位を獲得してきたのに、それは一瞬にして崩れ去り、転落してから這い上がることはもはや絶望的な代物となった。

未来・・・?希望・・・?ちらりちらりと見えるそれらしき道も、目の前にそれがつかめそうと思った矢先に次々と奪い去られた。運命はなんという残酷なことをするのだろうか。

そんな日々が続いた矢先、なにかのたがが外れたように私は突如として発狂した。

周りの反応はどうだったか覚えておらぬ。よくあることだよくあることだ、病院か警察に行くほどでもないという程度の認識しかなかったに違いない。

私は、あちこちを走りまわった挙句、山に駆け込み、大声を発した。完全にくるっていた。

何度も何度も発しているうちに、夜になった。満月であった。

それを見た瞬間、私の全身から獣の毛が草のように生えているのを見た。

次の瞬間、目の前をウサギが飛び跳ねて出てきたかと思うと、私はそれに飛びつき食いちぎっていた。

池の湖面は満月の光を反射して湛えていた。私はその美しさに惹かれ、這うようにして覗き込んだのである。

そこに映っていたのは・・・もはや人間ではなく、狼となった自分自身の姿であった。

口の周りには、さっき食いちぎったばかりのウサギの血がこびりついていた。

ああ、私はついに人間を棄てて狼のごときものになってしまったのだ。

人間社会にはもはや戻れぬことを覚悟した。そして、それも運命かもしれぬ、それでよかったのだと、ひとつの人間社会に対する執着、いや生そのものに対する執着すらもがポロリと抜け落ちていくのすら感じた。

私は哭いた。しかし、哭くことができぬのだ。今はもはや人間らしい、悲しいとかつらいとか嬉しいといった人間らしい感情の一切が消失して、この何とも言えぬ感情をこの山奥でおたけびとして発するしかなかった。私は月に向かって吠えていた。」

「ふうん、それで、おおかみさんはおおかみになって今ここに住んでいるのね。」

「もはや、私は誰とかかわりたいとも思わない。

ただ、完全な狼になるのは満月の晩のみで、それ以外の時は半分人間であったり、半分狼であったりする。そういうバイオリズムのようなものがあるかもしらん。」



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