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恋の錯誤

作者: 月岡 昶

 銀座のはずれの古いビルだった。エレベーターはまるで鉄の檻のようだった。美大の私の教室の助手であり、愛人でもある奈緒美がそのビルを見つけ、入ってみようと言いだしたのだ。黒いノースリーブの服を着た奈緒美は美しい腕を伸ばし、適当にボタンを押した。

 エレベーターが止まり、廊下に出ると、人の声が響いていた。声のほうに歩いていくと、開け放たれたドアから光と声が漏れている。

 中に入ってみると、小さな事務所ほどのスペースに、陳列棚が置かれ、所狭しと眼鏡が並べられていた。店主らしい男に聞くと、元はオフィスビルだったこのビルは、今では、アンティークの店や画廊などが入るビルになっているらしかった。時期を限定して、店やアーティストに貸し出す部屋もあるらしい。

 今は、眼鏡フレームで圧倒的なシェアを誇るS市の眼鏡の工房が特別に店を出しているのだそうだった。部屋の隅には、ガラスのケースが置かれ、その中で、眼鏡のフレームが、機械によって信じられない角度でよじられ続けている。フレームの柔軟性と堅牢性とをアピールしているらしい。

 奈緒美はさっそく目についた眼鏡を試着している。三、四人いる店員は熱心で親切だった。が、一人、雰囲気の違う男がいた。白衣を着ていて、手持無沙汰に見える。同じように手持無沙汰な私は、その男に声をかけることにした。四十歳くらいだろうか、中肉中背の見栄えのしない男だった。黒ぶちの眼鏡は、職人風でもあり、また研究者のようでもあった。

「S市の眼鏡っていうのは、結局フレームの技術が素晴らしいんですね? 見え方が良いというのではなく……」

 男の顔が曇った。気分を害した、というわけでもなさそうだった。あえていえば、当惑に近いような表情だった。

 男は手招きをして、奥の部屋へと私を誘った。殺風景な部屋だった。六畳ほどの部屋で、大きなパイン材の机と二つの椅子があり、椅子の片方の下には、大きな黒の鞄が置いてある。男は鞄の置いてあるほうの椅子に座った。

「おっしゃる通り、フレーム造りではおそらく世界一の技術を持っています」

 男は、私にも椅子を勧め、屈むと、黒いカバンから、眼鏡を取り出し始めた。パイン材の机に並べられた三つの眼鏡は、よく似たデザインだった。ごく細いチタン製のフレーム。色だけが違っていていた。一つは黒、もう一つはシルバー、そして、最後の一つが茶だった。

「ご質問は、フレームが良いのか、ということと、見え方が違うということはないのか、ということでしたね? 実はその二つは密接な関係を持っています……」

 男は、机の上の、黒いフレームの眼鏡を私に指し示した。私は自分の眼鏡をはずした。男は、机の向こう側から身を乗り出してきた。

「私達の眼鏡のフレームは、耳にひっかけないのをご存じですか? チタンの柔軟かつ強靭な性質を利用して、側頭部に沿わせるわけです」

 男は、眼鏡を私の顔に押し当てた。見事なフィット感だった。側頭部にピッタリとツルが押し当てられる。そして、耳の後ろまで周りこむ部分は意外に長く、後頭部の骨が窪むまさにその部位に、まるで吸盤でもついているかのように貼りついた。

 その瞬間、私の知覚の何かが変わった。目の前の白い壁を見ているのだが、その壁が、なぜか温かみを帯びて見え、どこか馴染みのある感じもし、さらには、ありありと実在感を帯びて、目の前に迫ってきたのだ。当然、眼鏡の度数は合っていないので、壁がはっきりと見えているわけではない。ぼんやりと見えているのが、返って、私の感覚に何か不思議な作用を及ぼしているのだろうか?

 ピントのあっていない視野の中で、男が初めて顔に笑みを浮かべたのが見えた。

「見え方が変わりませんか? いや、正確に言うと、見える物は同じなのに、感じ方が変わりませんか?」

 男は、説明を続けたが、私には説明などどうでも良かった。目の前に広げられている、このえも言われぬ美しい壁、そして、自分の心の中に広がる、深い充足感と幸福感に浸っているだけで良かったからだ。

「デジャブという言葉はご存じですよね……、その反対のジャメブという現象は? ジャメブは、慣れ親しんだ事物を見ているはずなのに、それを見る時に当然伴われるべき慣れ親しんだ雰囲気を感じられない、という現象です。実はこれらの眼鏡は、それら、『親近感の変容』を人体に及ぼしてしまうのです……」

 聞き慣れない言葉が、少しだけ気になった。

「親近感の変容って?」

 ピントのぼけた視界の中で、男の顔が明るくなったのが分かった。

「まさに、あなたが今浸っているものですよ」即座に男が答えた。男は、自分の得意分野を説明する学生のような口調で説明した。

「あなたは、今、何の変哲もない壁に、言いようもない親密感を感じている、親近感と呼んでもいい……、とにかく懐かしさがこみあげてきている。違いますか、そうでしょう?」

 私は頷かざるを得なかった。

「あなたが体験している不思議な感情は、いわば強力なデジャブ体験なのです。さて……、デジャブやジャメブのような現象は、いろいろな研究者が、さまざまな切り口で研究を行っています。そもそも、この現象は多くの精神疾患で出現するのです。例えば、兼本という研究者は一九八九年の論文の中で、てんかんに見られる、この状についてまとめ、『Illusion of familiarity』、つまり親近感の錯覚という言葉を使っています。また、中安という精神科医は『離人症』という病気についての論文で、この現象について述べています」

 男は、机の向こうで胸を張り両手を振りまわしながら雄弁に語り続ける。私は、男の話に興味を覚え始めていたので、圧倒的な力で私を魅了し続ける眼鏡を外した。

「離人症という病気はご存じでしょうか。いわばジャメブの拡大版ですね。身の周りのありとあらゆるものに対して、慣れ親しんでいるという感覚や、現実にそれが確かに存在しているという感覚が失われてしまう病気です。この離人症の発症のメカニズムについて中安は卓越した理論を展開しています」

 男は、また屈みこむと鞄の中からノートを取り出して、机の上に広げた。白い紙の上に三色ボールペンで、男は図を描き始めた。簡単な図だったので、自分の眼鏡を掛けなくても隅々まで読むことができた。左のほうの円の中に「視覚情報」と書かれており、そこから青い矢印が右に伸びて、中に「意識」と書かれた円に至る。それで終わりかと思うと、今度は、男は、矢印の下にまた円を描き、その中に、「親近感を付与する回路」と書きこんだ。そして、下の円から、上部の矢印の腹に付き当たるような赤い矢印を書き込んだ。

「よくこの図をご覧ください。中安は、人が視覚情報を処理する場合、二つの回路が関係しているというのです。この図の青い回路を通じて、人は、その物の形を分析し、過去の記憶と照らし合わせ、確かに、かくかくしかじかの物体だと認識する。しかし、同時に赤い回路が、意識下に働いていて、『ニュアンス』つまり、恐れ、好悪、そして親近感などの感情を、青い回路の情報に付与して、意識に上らせる。だから、通常、人は、物を見た時に、物が何だという認識と同時に、その物のニュアンスも同時に認知するわけです。しかし、それも、二つの回路が正常に機能していれば、の話です。時として、どちらかの回路が失調を起こすことがあるのです……。その失調から種々の症状を引き起こします。

 例えば、人の顔貌の認知に特化したジャメブ、と言うことができる『フレゴリの錯覚』という現象が、兼本や中安よりはるか以前に報告されています。フランスのクルボンが一九二七年に報告しました。彼の観察した患者は、町じゅうの、全く似ていない多くの男が、変装している自分の彼だと言い張ったのです。この患者を例に、考えてみましょう。この患者の脳内では、通常なら連動して動くべき、青の回路と赤の回路との協調性が壊れてしまったわけです。つまり、青い回路が働く時に、勝手に赤い回路が誤作動を起こして、ほとんど全ての顔に対して、親近感を与えてしまったわけです。強烈な親近感を伴って、意識に、人の顔の視覚情報がもたらされたら、この患者のように、『ほとんど全ての男が、彼なのだ』と結論付けてしまうのも、不思議なことではないでしょう。ちなみに、あなたの掛けた黒いフレームの眼鏡は、この圧倒的な親近感を、いつでも認知に付与してしまう、という性能を持ってしまったために、『フレゴリの眼鏡』と呼ばれているものです」

 私は、人の顔の認知に関して、そんなな現象が起きる、ということに関しては、まだ半信半疑だった。男が急に、私の背後を見て呟いた。

「あ、ありがとう……」

 良い香りが私の鼻をくすぐった。他の店員がコーヒーを持ってきてくれたらしかった。私は、咄嗟に眼鏡をかけた。

 振り向いた途端、私は圧倒的な感覚を胸に覚えた。ありていに言えば、それは恋愛感情だ。慣れ親しんでいる、愛し合っている女性にのみ感じる、胸が高まるのと同時に、リラックスもできている不思議な感覚。

「奈緒美?」

 私は、コーヒーを持って来てくれた女性に、咄嗟にそう問いかけてしまった。なぜなら、私の心に、そんな感覚を呼び起こす女性は、今現在では奈緒美しかいないからだ。ぼやけた視界の中で、しだいに、女性の姿が明らかになってきた。地味なグレーのスーツ、奈緒美とは似ても似つかない顔。そして、体型も違って、ほっそりしすぎている。しかし、それでも、目の前にいる女性が、たまらなく愛おしく思えた。このまま立ちあがって抱きしめたいほどだった。

 女性は訝しげな表情で、コーヒーを私の前に置くと、そそくさと立ち去った。湯気を立てているコーヒーカップの横に、べっ甲柄の私の眼鏡が置いてある。私は、間違えて自分のではない眼鏡を掛けてしまったらしかった。

 バツの悪い思いをしながら、私はフレゴリの眼鏡を外した。

「今、何かが、お客さんの心の中で起こりませんでしたか?」

「いや……」

 私は曖昧に答えたが、全てはお見通しのようだった。

「まさに、今起きた現象が、フレゴリの錯覚という現象なわけです。あなたは、咄嗟に、フレゴリの眼鏡をかけてしまった。そして、初めてみる女性に、例え様のない親近感を覚え、恋愛感情と勘違いした。あるいは、その女性を、恋愛の対象と同一人物でないかとさえ感じた……」

「いや……、ところで……」

 私は、心底動転していたし、またバツも悪かったので、何か話題を転じようしてあがいた。

「確かに分かりました。こんな現象があるということも、中安の仮説も。しかし、魅力的な理論だが、仮説は仮説だ。何か科学的な裏付けというのはないんだろうか?」

 男は、さらに気を良くしたようで、雄弁に語りだした。

「あります。実はカプグラ症状という現象があるのです……」

「今度はカプグラか……またフランス人?」

 私は、聞き慣れない響きの言葉ばかり続くので当惑を覚えてきていた。

「そうです。フランスには、神経科学の輝かしい伝統があるのです。この現象もフランス人であるカプグラが発見しました。一九二三年のことでした。彼の患者は、『今自分の隣にいる、この自分の恋人だと言い張る女は、恋人に瓜二つだけれども恋人ではない。なぜなら、恋人に対していつも感じていたあのニュアンスが欠落しているからだ』と訴えました。どうです、この現象はさきほどの『フレゴリの錯覚』に似ていませんか?」

「うーん、似ていると言うよりも、むしろ真逆な現象に思えるが?」

「ご名答!」

 男は両手を打って喜んでくれた。男はまた、先ほどノートに書いた図を指し示した。

「『フレゴリの錯覚』では、青い回路で情報を処理している間に、誤って赤い回路が過剰に誤作動して、本来は親近感を与えるべき情報でないのに、与えてしまったわけです」

 男は、説明に合わせて、赤い矢印を、さらにボールペンで塗り太い矢印にしていった。

「一方、カプグラ現象においては、失調の具合が違うのです」

 男は、今までの図の下に、そっくり同じ図を書いた。二つの円と、二本の矢印。しかし今度は、赤い矢印の上に、大きく黒でバツ印を描きこんだ。

「つまりですね、青い回路で情報が処理されている際に、本来ならば、その情報には親近感が付与されるべきはずなのに、赤い回路が故障していて動かないとしますね。そうすると何が起きると思いますか?」

「……ジャメブ? あるいは、それが長期間続けば、離人症という病気……」

「その通りです。そして、顔貌の認知に限って、その現象が起きた場合、カプグラ症状と言うことが慣例となっています」

 私には少々疑問が感じられた。

「ほう…。しかし、あえて、カプグラ症状として分類する必要は? すべてジャメブで良いのでは?」

 男は、いかにも想定された質問、というふうに、軽く頷いて見せた。

「私も、そう思います。ただ、科学においては、対象を限局した方が、研究がしやすいのです。実験のデザインが組みやすいのです。そのため、カプグラ症状に対しては、近年、研究が大幅に進みました」

 男は、今度はノートの、後から書いたほうの図に、言葉を書き加えた。青い矢印の上には「腹側経路」と文字が記され、赤い矢印の横には「背側経路」と記された。男は深く息を吸ってから話し始めた。

「一九九〇年に、エリスとヤングは画期的な論文を発表しました。それが、この『腹側経路』と『背側経路』の理論です。彼らは、ほぼ中安と同じような結論に達しました。『腹側経路』は青い回路、『背側経路』は赤い回路とほとんど同一です。ただ、エリスとヤングの功績は、その経路を、実際の解剖学的位置とを結びつけたことにあります。様々な実験や臨床例から、彼らは『腹側経路』は、視覚皮質から下縦束を通り、側頭葉に至る経路であり、『背側経路』は、視覚皮質から下頭頂小葉を経由して大脳辺縁系に至る経路、と結論付けました……。このようにカプグラ症状は、その責任部位までも明らかにされようとしています。もっとも私は、彼らのいう二つの経路は、カプグラ症状のみでなく、親近感の変容という名で一括りにされる全ての症状に関連すると考えています……」

 男が言葉を切った。足音が聞こえたのだ。足音だけで分かった。奈緒美だった。次に、いつもの香水の香りが私の鼻に届いてきた。私は振り返り、何か言いたげな奈緒美に、手をあげて少し待ってくれるように合図した。奈緒美は、大人しく窓側に行き、窓枠に寄り掛かった。

 男が、机の上の、銀色のフレームの眼鏡を私に指し示した。

「ちなみにこちらが、『カプグラの眼鏡』と呼ばれている眼鏡です。掛けるとカプグラ症状を味わうことができます……」

 私は、一瞬、その眼鏡に手を伸ばしかけたが、すぐにその手を引っこめた。見る全ての物から、その親近感を奪う眼鏡など、何が面白いのだろう? 私はむしろ、また圧倒的な親近感や親密感、実在感といったものを味わいたくて、フレゴリの眼鏡を手に取った。

 フレゴリの眼鏡を掛けていても、奈緒美はいつもと同じ奈緒美だった。いつものように本当に愛しい。ただ、その愛おしさが、背景の白い壁と奈緒美との間に差がない、というところが奇妙だった。

 その愛おしい奈緒美が、私のほうへと近づいてくる。口を尖らせているが、これも愛情表現に違いない……。奈緒美はいきなり大声を出した。

「ねえ先生、いい加減にして! もう飽きちゃったわ。何よこの店、あんまり可愛いデザインの眼鏡はないしさ……」

 奈緒美が私の肩を揺さぶる。

「何よ、この地味な眼鏡。そんなに良いもんなの?」

 奈緒美は、痺れを切らしたらしく、テーブルの上にあった、カプグラの眼鏡をぞんざいに取り、顔に当てた。奈緒美は、私をじっと見つめている。私は奈緒美の腰に手を回そうとした。その時、奈緒美は、動物が反射的によけるように、私の手から逃れた。

「あの……、あたし、やめるわ」奈緒美が後ずさりながら呟いた。

「やめるって、ここで眼鏡を買うのをかい?」

「違うわよ」奈緒美は、憐れむような目で私を見た。

「今、なんだか見えちゃったのよ……、いえ、むしろ、先生のことが見えなくなったっていうか……」

 奈緒美が汚い物でも見るように私を見ている。

「顔は、いつもと同じよ。でも、なんだか皺は目立つし、シミもあるし、どうみても普通のおっさんさんじゃない? さっきまでの私が大好きだった先生はどこに行っちゃったんだろう?」

 私は事態に気がついて、奈緒美の顔に手を伸ばした。眼鏡のせいなのだ。カプグラの眼鏡をかけたせいで、親密感を失ったのだ。恋愛感情というのは、おそらく究極の親密感なのだろう。ジャメブが、初めて来た筈の場所に強烈な親近感を感じるのと同じように、恋愛でも、初めて会ったはずの相手なのに、以前から見知っていたような不思議な感覚を覚える。

 眼鏡を取ろうとするが、奈緒美は、さらに身を引き、今まで見せたことのない不機嫌そうな顔をしながら、眼鏡をはずした。

「今まで何してたんだろう……、なんだか夢でも見てたみたい……。夢から覚めたって感じ。なんで先生みたいなおじさんのこと、好きだなんて思っていたのかしら……」

 奈緒美は、フラフラとした足取りで、テーブルまで来ると、カプグラの眼鏡を置いた。今起きている現象について私は理解したので、もう慌てなかった。

「ねえ、奈緒美、もう一回、僕を見て。どうだい? いつもの僕だろう? 変な眼鏡のせいで、僕がいつもと違って見えてしまっただけなんだよ」

 奈緒美は、その場に立ちすくみ、私のことを見つめた。その姿は、どこか悲しげだった。奈緒美は両手で顔を覆うと、ゆっくりと頭を横に振った。

「うん、さっきの眼鏡掛けてた時とは違う……、確かにいつもの先生……。でもなんだか何にも感じないわ。ただの先生。初めて、教室の助教として、教授の先生と会ったときと同じ。なんで最近、先生のことを男として見てこれたんだろう……?」

 私は、眼鏡を取っても事態が好転しないことに驚き、助けを求めて男を見た。 

 しかし、男は、ただ首を横に振るばかりだった。突然私の頭に一つのアィディアが浮かんだ。私は、今自分が掛けているフレゴリの眼鏡を取り、奈緒美に差し出した。

 奈緒美は、眼鏡を受け取ると、まるで汚い物ででもあるように、ハンカチを取り出すと、入念に眼鏡を拭き始めた。

 その姿を見つめる私の視線に気がついたのか、奈緒美は、部屋の入り口でクルリと向こうを見て、陳列棚が置かれている部屋に行ってしまった。私のことをちらりとも見ずに。

 私は、途方に暮れて、男に説明を求めた。

「どうなっているんだろう? なぜカプグラの眼鏡を取っても、事態は変わらなかったのだろう?」

 男は、深くため息をついてから答えた。    

「なかなか難しい問題をはらんでいますね。認知の問題と恋愛の問題とは、微妙な関係があります……。女性における恋愛状態というのも認知の変容を伴う不思議な状態ですからね。相手に関する全ての否定的な認知を否認し、相手の全ての要因を過大に長所として認知する。さらに厄介なことには、どうしたらその状態になるか、本人も含め誰も分からないし、いったん、その状態が終焉すると、もう誰がどうしたって、その状態には戻らないってことですね……。今起きているのは、カプグラ症状を契機に、恋愛状態のスイッチが断ち切られてしまったという状況ではないでしょうか?」

 私には、分かったような分からないような説明だった。でも多分、もう終わってしまって、どうにもならない問題なのだろう。

「では、私は、どうしたら良いのだろう……。例えば、あのフレゴリの眼鏡を買うことができるだろうか。あれがあれば、物を眺めるだけで幸福に浸れる気がする。それで余生を送るのも良いかもしれない」

「もっと良い物があります」

 男は、机の上の、これも地味な茶色のフレームの眼鏡を指し示した。私は早速それを手に取ってみたが、掛けるのには少し勇気が必要だった。

「これはどういう眼鏡? 掛けるとまた認知が変わるんだろう?」

 男は、深く頷いた。

「私は、これを中安の眼鏡と呼んでいます。実は彼の理論の本当に独創的な点は、『対象性格の幻性態』という考えを打ち出したところです。まあ詳しい説明は省きましょう。簡単に言えば、青い回路が全く動いていない時に、赤い回路が勝手に作動してしまうことがあるのではないかという仮説なんです。従来の理論では全て、『青い回路で事物を認知した時に、同時に作動するべき、赤い回路で何らかの障害が起きる』という事態を想定していた訳です。中安は、今述べた『勝手に赤い回路が作動してしまう』、というアイディアによって、それまでメカニズムの解明が困難だった不思議な精神症状、例えば二重身、異常体感、実態的意識性といった症状のメカニズムを見事に解明し、それら各々の関連性まで解明したのです……」

 男は、なおも語りたがっていたようだが、私にとっては、もう理論はどうでも良かった。

「それで? それで、結局、この眼鏡を掛けると何が起こるのだろう?」

 男は、同情を含んだ目で私を見た。

「この眼鏡をかけると、『実態的意識性』が、現出するようになります。簡単に言うと、何も見てはいないはずなのに、たまらなく親近感を覚える感情が湧きあがってきて、あたかも、眼前に何かその感情を賦活させる何者かがあるはずだ、とすら思ってしまう現象が起きます」

「よく分からないが、それは、もしかしたら、宗教的な体験に近いのではないだろうか? あたかもそばにマリア様の存在を感じる……とか?」

 私は、半分冗談で、そう言ってみた。しかし、男の真顔は変わらなかった。

「私の考えでは、おっしゃる通りのことだと思います。これまでの、マリア様を見たという事例のいくらかは、この現象が絡んでいるのだと考えています。神の声を聞いたと言われるジャンヌダルクが、てんかんだったことは有名です。てんかんには、この回路の障害から来る症状の出現率が高い……」

 私は、満足し、眼鏡を折りたたむと、胸ポケットに入れようとした。

「いくらでしょう?」

「差し上げることはできないのです。いくつもある眼鏡ではないのでしてね。実は、これらの眼鏡は、例のフレームに負荷を与える機械で、たまたま出来てしまった眼鏡なのです。これはもちろん企業秘密でしてね。何千回捻じっても、元の形状が保たれるというのが、当社のフレームの売りですから。それなのに、捻じってみた展示品のいくつかだけが、こんな不思議な機能を持ってしまった。おそらく、どこかフレームの形状が変わってしまったからに違いありません……。形状が変わってしまったおかげで、これらのフレームは、人の側頭部を刺激して、親近感の変容を起こしていると思われるのです」

 男は深いため息をついた。

「私は、これらの眼鏡の秘密を解き明かすために呼ばれているのです。田舎の医大で基礎の研究をしていても食っていけないものでしてね」

 男は肩を竦めた。

「今のところは、いわゆる『経絡』の理論でいくしかないと思っています。なぜなら通常の医学的常識から言って、解剖学的に、頭皮上の刺激が脳にダイレクトに伝わる経路があるはずないからです。しかし、経絡では違う…」

 男は自分の眼鏡を取った。男は窓のほうを見て、わざと自分の横顔を私に見せた。そして、男は、自分の左横顔の、耳と頭頂部とを結ぶライン上に、自分の左手の人差し指を重ねた。

「このライン上には、いくつかの重要なツボが並んでいます。全て覚醒に関連したり、また一説ではノイローゼに関するツボだと言われたりしているツボです。さらに……」

 男は、右手を首の後ろから回し、右手の中指で、耳の後ろの下部のある一点を指し示した。

「これが完骨。このツボは、うつ病の治療に使われています。ある鍼灸師は、うつ病の主原因であるセロトニンの減少を改善させるとまで言い切っています。つまり、頭皮上に、無数の、精神に影響を与えるツボがあるわけです……。それもちょうど眼鏡のツルが当たるあたりに」

 男は、親しげに私の肩を叩いた。

「今から申し上げる場所に来てほしいのです。そこに、この中安の眼鏡は置いておきます。いつでもお貸ししましょう。その代わり……」

 男が、私の肩を抱いて、陳列棚のほうを向かせ、私の耳元で呟いた。

「いくつかの実験が必要なのです。実験のためには被験者が必要でして……。被験者になっていただけますね?」

 男の視線を追うと、奈緒美の姿が見えた。奈緒美は、さっそく彼女に年相応の男性を見つけたらしかった。フレゴリの眼鏡の奥から、うっとりとした目で男を見つめながら、親しげに話しこんでいる。

 男の魂胆が初めて分かったが、どうでも良かった。奈緒美を失ったあと、何もなしに人生を送ることなど考えられなかったからだ。私に選択の余地はなかった。

                                             完


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