殺人猫と白い猫
真っ赤な真っ赤な月が笑う、紫色の夜のことです。
ころころ光るお星様を映した川の上の、お墓が見える橋の欄干に、ひとりの小さな少年が腰掛けていました。
欄干のガス灯はぼんやりとした明かりをゆらゆらさせて、暗い川の上ではコウモリ達がふわふわと飛んでいます。
少年はぶらぶらさせた足をぴたりと止めて、欄干の上に立ち上がりました。
ズボンのポケットから白い布袋を取り出すと、すっぽりと頭に被ります。顔までしっかりと隠した布袋は、可愛らしい猫の顔が描かれています。布の角が、ちょうど耳の形になって、少年は白い猫へと変身したのです。
猫になった少年は、両手を広げて欄干の上を歩きながら、陽気に歌い出しました。
“ぼくは白ねこ 白こねこ みんなの愉快な友だちさ♪ まっかな月も コウモリも ぼくが来るのを待ってるよ♪ なんて呼んでもいいけれど 殺人猫はばかげてる♪ ぼくを怖がるマヌケさん 出て来てみなよ 隠れずに♪ 君らのなかまはこの町の まっかな模様に早変わり♪”
少年の歌声が響き渡る中、町の明かりが次々灯り、家々から大人達が顔を出しました。ちょうど白猫の少年が欄干から降り立った先で、酒屋の女将さんが扉を開けました。
「殺人猫だ!ここにいるよ!早く捕まえとくれ!」
女将さんの叫び声に、周りの大人は騒ぎだしました。
白猫の少年は素早く影に入り込み、建物の間を駆け抜けます。
「どこだ殺人猫!逃げられねえぞ!」
野太い声が聞こえても、少年はへっちゃらです。どんなに声が低くて大きくても、少年を捕まえることが出来ないことはずっと前から分かっているのです。
少年は人のいない建物の後ろへ隠れると、布を脱いで猫から人間に変わり、上着と一緒に近くの木箱に隠しました。
隠しおわると、建物の後ろから飛び出し、追っ手の大人達のところへ駆け出します。
「おじさんたち!殺人猫、出たの?どこ!?」
大人達は少年に驚いて足を止めます。逃げられたのだと分かり、がっくりと肩を落としました。
「いま坊主が来た方向に逃げたんだがなぁ。見なかったんなら、屋根の上にでも登っていったんだろう」
少年も肩をがっくりと落として見せ、悲しい目をして大人達を見上げました。
「それで、今日も誰か…やられちゃったの?」
「おっと、猫を追ってたから俺達もまだ確認してねえんだ。坊主はここで待ってろよ」
大人達はぞろぞろと、橋の方へ引き返して行きます。
少年はその後ろを追って歩き出し、前を進む大きな背中の群れに向けて舌を出してやりました。
橋の上には、白猫を追わないでいた大人達が集まっていました。大きな輪をつくり、何かをのぞきこんでいます。
その中に、猫の少年を追っていた大人達と、猫だった少年とが加わっていきます。
「また、やられちまったか」
大きな男が声を掛けると、輪になった人がばらばらと避け、道を作ります。輪の中心で、誰かが寝転んでいました。
「…エラ先生だよ。厳しい人ではあったが、まさか殺人猫にやられてしまうなんて」
仕立屋のおばさんが悲しそうに言いました。寝転んでいるのは、学校の先生をやっていた女の人のようです。
彼女のまわりは真っ赤に染まり、その中で金の髪がゆらゆらと揺れていました。
「何度も刺されているね。この人はそんなに殺人猫から恨みを買ったのかな」
少年がエラ先生をのぞきこむと、大人達は慌てて隠そうと暴れ出しました。大きな男が少年を抱えあげます。
「待ってろと言ったろうが。子供が見ていいもんじゃねえ」
落ち込んだようにうつむいて見せ、それから少年は遠慮がちに口を開きます。声を小さくすることも忘れません。
「…パパとママの時にくらべたら、平気だよ」
思った通り、大人達はハッとした表情を浮かべ、ぎゅっと口を結びました。少年は心の中で、なんて簡単な生き物なんだろうと呟きました。
大きな男は少年を、悲しい目で見つめます。
「あの白猫はな、楽しくて殺してんだ。恨みとか理屈じゃねえ。坊主の親は、恨みを買う人間だったか?違うだろ。猫の考えてることなんて、俺達人間には分からねえのさ」
少年は吹き出しそうになるのを抑え、必死に悲しい顔を作ります。おかげで、複雑そうな、苦しい笑顔ができました。
「…そうだね、猫は何も考えてない。だから僕がつかまえるんだ」
男に降ろしてもらうと、少年はもう一度エラ先生を振り返りました。こちらを心配そうに見守る大人達に吐きそうなほどの嫌悪感を抱きながら、殺人猫は今夜も捕まることなく逃げ出していったのでした。
町から外れた闇の中に、小さな古い教会がありました。石で建てられていて、たくさんの彫刻が施されていますが、もはやそれが天使なのか悪魔なのかさえ、よくわからなくなっています。
濃い紫色の夜の中で、少年は教会の前に、更に暗い影が佇んでいるのに気付きました。
「神父さま」
少年が駆け寄ると、手にしたランタンのオレンジ色の光が、若い神父様の悲しい顔を照らします。
「君が出掛けたということは、また…彼が現れたのですね」
「はい、今夜はエラ先生っていう女の人が殺されちゃった」
神父様は更に悲しい表情を浮かべ、首に掛けた十字架にキスをして祈ります。少年も手を組んで形だけのお祈りでエラ先生の魂の平穏を願うふりをしました。
「…罪の無い人々が殺められるのは悲しいことです。けれど、君が先走らずとも良いのですよ。祈り、清く生きれば、神はそれを見ていてくださいます」
少年は神父様を見つめます。人間はみんな簡単な生き物で、操ることはパペットのように容易いことだと思うのですが、神父様は違いました。神様などという、本当に居るのかもわからない人を信じ、祈り、みんなを赦し、愛そうとしています。
「けれど神父さま、みんなは全然ねこをつかまえられないんだ。祈るだけじゃ、ぼくもつかまえることなんてできないよ」
否定されると思っていた少年でしたが、神父様は暗い顔を崩し、今にも泣きそうな表情になりました。
「そう。祈っても、捕まらない。となれば、神は猫を赦しているのかもしれない。この町は、裁かれる運命にあるのかもしれません」
これまでに見たことのない神父様の儚い姿に、少年は言葉を失いました。ハッと我に返った神父様はいつも通りの寂しい笑顔を浮かべ、教会の入口を示します。
「私が弱気になっては駄目ですね。皆で祈ればきっと、きっと神は聞き入れてくださるはずです。さあ、もう遅いですから、部屋へ行きましょう」
少年はうなずいて、教会の扉をくぐります。自分の部屋の前で神父様に眠る前のあいさつをすると、神父様が遠ざかるのを待ってから、こっそりと庭の方へ抜け出しました。
教会の庭はとても小さく、花壇と水場、聖母の石像だけでいっぱいです。それでも冷たい壁や床に囲まれて、ごわごわとしたベッドに丸まっているより、ずっと良いと少年は思うのでした。
いつも通り聖母の足元へよじ登って座りこみ、ころころ光る星達をにらみ付けるようにながめます。どんなに辛い時も苦しい時も、まるで関係ないというように、こちらを見下すように輝く星を、少年は忌々しく感じていました。ただ、人間よりは少しだけ好きなので、悪口は言ったりしません。
「こんばんは、殺人猫」
空を見上げる少年の右側から、親しげな声がしました。そちらを見ると、蜂蜜色の瞳をした真っ白な猫が一匹、塀の上を優雅に歩いて来ています。
「やあ、こんばんは。今夜もお散歩かい?」
少年がたずねると、白猫は聖母の前で足を止め、少年を見下ろすように塀に座りこみました。
「いいや、君に会いに来たんだよ。今日も嫌な人間をひとり、減らしてくれたからね」
白猫はこれまでエラ先生から受けた酷い仕打ちを少年に話して聞かせます。少年は話を聞いて息を飲み、目を見開き、怒りに震え、涙を浮かべました。
話し終わった白猫は、記憶に浸りながら、全身の毛を思いきり逆立てて大きく息をつきました。
「─今でも、思い出すだけで怒りが湧くよ。けれど君が彼女に何をしたのか見たからね。少しはすっきりしたんだ。ありがとう」
「いいんだ。ぼくもあの人に言われたんだ、汚い子供が安い芝居をするなって。悲劇を演じれば誰でも憐れむと思うなって。あなたが両親を殺したんだって。……だから、よくわかったねって、なにも知らないくせにって、笑って消してやったんだ」
時に優しく時に厳しい、真面目で教え上手と噂の女性教師は、教え子ではない少年を見下し、罵り、嘲笑ったのでした。
少年も学校へ行きたいと強く思っていましたが、両親は少年に自由というものを与えなかったのです。それを知らず、すべてを少年の愚かさと決め付けた彼女が許せなかったのでした。
「…本当に、人間って愚かで醜いね。ねこになって、よくわかったよ。今の姿がとても恥ずかしくなってくるんだ」
横たわるエラ先生をのぞきこみながら、よほど恨みを買ったのだと言った少年の言葉を、大人達はまともに聞きませんでした。猫は何も考えない、楽しむために殺している…そんな風に考えている内は、絶対に捕まる気がしません。
そんな大人達と同じ人間であるということが、今の少年にはとても堪えられないほどに恥ずかしいのでした。
「君の心は立派なねこだよ。君はただ、人間に化けて町を見回っているのに過ぎないのさ」
白猫は優しく少年に言いました。その言葉で、少年の心の中は晴れ渡っていくように感じられました。うつむいていた少年は、猫を見上げてにっこりと笑います。
「うん。殺人猫だなんてセンスのない名前だけれど、人間だと思われるよりずっと良いや」
「ぼくは好きだよ。殺人猫、ぼくの英雄だもの」
にこにこと笑う猫を見て、少年は照れくさくなってうつむきました。辛さに抗おうと一人で闘ってきたことが、とても誇らしく思えました。
「ありがとう。ぼくはまだまだがんばれそうだよ。きっと、人間がいない素敵な町を作るから」
少年は聖母の足元から飛び降りると、白猫に別れのあいさつをして教会へ戻りました。未来が少しだけ明るくなった気がして、いつもより早く眠りに落ちていきます。夢の中では、白猫とふたりで人間がいない町の中を、元気に歌って歩いていきました。
翌朝、少年は橋の欄干に腰掛けて、足をぶらぶらさせながらお墓の方を眺めていました。
黒い服の人達が、まるで蟻が食糧を運ぶように、棺を担いで列をつくっています。先頭には神父様の姿がありました。
棺は地面に掘られた穴の前に下ろされ、神父様がお祈りをはじめます。これまでのどの葬儀より人が少なく、少年は虚しい気持ちと馬鹿馬鹿しい気持ちとで、ひとつ大きなため息をつきました。
すると、町の方からがらがらと、馬が車を引く音が響いてきました。少年が振り返ると、町外れで畑をやっているマシューおじさんが大きな荷物を積んだ馬車で橋を渡りはじめたところでした。
「こんにちはマシューさん。すごい荷物だね」
「やあ、教会の坊ちゃん。実は町を出ることにしたんだよ」
視線を荷台へ移すと、確かにテーブルやチェストや燭台といった家財道具が積まれています。
「どこへ行くの?」
「山を越えて少し行ったところの、小さな田舎町だよ。そこに親戚が住んでいてね、一緒に畑をやろうって話になったのさ」
マシューおじさんは白いひげをなでながら、少年に心配そうな表情を向けました。
「町を出ていく家は他にもあってね、今日だけで五軒と引っ越しが重なっているんだ。それだけ町は、殺人猫を恐れている。わしも、いつ家族やわし自身が狙われるかと気が気じゃないんだ。坊ちゃんも早く、大きな修道院に移してもらうか、別の街へ働きに出るか、とにかくここから離れた方がいい」
少年は震える体を必死に押さえつけ、手頃なものを探そうとする目をなんとかマシューおじさんに向け、笑うことはできなくても、うなずいて見せました。
「うん。マシューさんが心配してくれるのは嬉しいし、みんなが出ていってしまうのも仕方がないと思うよ。でもぼくは、ここに残るんだ。ひとりぼっちになってもね」
更に口を開こうとするマシューおじさんの言葉を、少年は首を振って遮ります。これ以上はもう、自分を抑えられる自信がありません。
どこか影を潜めながらも手を振る少年に、マシューおじさんはしばし言葉を探しますが、帽子を取ってお祈りの言葉を少年に贈ると、馬車を進めて行きました。
荷台の後ろに乗った孫娘のハンナとデイラおばさんにも手を振って、やがて馬車が見えなくなると、少年は思いきり顔をしかめて大きく息をつきました。
「ばかみたいだ」
お墓を見ると、棺を置いた地面の穴を、土をかぶせて埋めているところでした。少年は欄干からおりると、行くあてもなく歩きはじめます。
「大きな修道院?働きに出る?学校にも通わせてもらえない、親の死んだ子供はそうやって追い出しているんだ!ぼくの親戚の居場所も探してくれないで、ぼくが好きで教会にいると思ってる!親切なふりなんかしないで、自分の身だけ大事に守っていればいいんだ!」
人のいない路地でひとり、呟きながら歩いていると、突然、足元を何かが横切っていきました。驚いて振り返ると、白猫が何かから逃げるように走り去っていくところでした。
急いで追いかけようとしましたが、すぐに白猫の来た方向から、足音が駆けてきました。
「カーリー、どうしたの?そんなもの持って」
駆けてきたのは、少年よりひとつ年下の少女カーリーでした。カーリーは少年に驚いたように足を止めると、両手でぎゅっとピッチフォークを握りしめて、少年の背後、白猫の走り去った方向をにらみつけました。
「しろねこを殺すのよ」
「どうして?何かされたのかい?」
少年がたずねると、カーリーは目にたくさんの涙を溜めて、肩を震わせながら鼻をすすりました。
「きっと殺人猫のなかまだからよ!殺人猫は、わたしのママを殺したの!それに、夜の間にエラ先生だって殺してしまったのよ!わたしの知らない間に!だからなかまのしろねこを殺して、殺人猫に思い知らせてやるの!」
涙を拭うカーリーを見て、少年は心がすうっと、まるで氷のように冷えていくのを感じました。
少年は、知っています。どんなに怒りでお腹の中が熱くなっても我慢はできるのですが、心が冷えて、辺りがやけにはっきり見えた時、その時はもう、体が動くのを止められないということを。
「カーリー、前にぼくに言ったね。ママも先生も大嫌いだって。大人なんてみんな死んじゃえばいいって」
カーリーは大粒の涙をぽろぽろ落としながら、少年をぎっとにらみつけました。
「言ったら死んじゃうなんて思わないじゃない!わかっていたら言わないわ!だって、大嫌いな分、とっても…とっても大好きだったのよ!」
悲痛な叫び声をあげる少女に、少年は微笑みました。きっと、先ほどの怒りに震えた少年の姿を見ていた者がいたなら、異様に感じて身震いしそうなほど、恐ろしく優しい、天使のような笑みでした。
「それは悲しいね。思ってもいないことを言ったら、本当になってしまったんだもの。殺したねこは憎いよね」
優しく微笑んだまま、少年はカーリーにゆっくりゆっくりと歩み寄ります。ピッチフォークを握りしめて固まる少女の背後に立つと、少年は少女の耳元に口を寄せ、悪魔のようににやりと笑いました。
「でもねカーリー…ぼくは、うそつきが大嫌いなんだ」
少女が振り返るより早く、少年は落ちていたロープを手に取り、首に巻き付けました。カーリーは突然のことに声も出せず、ロープを解こうともがきます。
「君はなかまだと思っていたんだ。別に、君のために殺したわけじゃないんだけれど。でも、殺したら君のためにもなるって思いはしたんだよ」
これまで何度も一緒に遊んでいた友人が、両親を殺された憐れな子供が、頼れる兄のような存在が、少女の中では疑う余地もなく潔白であった少年が猫だったという衝撃。目の前へ迫った死への恐怖。少女の心の中は大洪水のようでしたが、言葉はおろか、息すらつくことができません。その小さな瞳で、ただ一言、訴えるしかないのです。どうして、と。
少年はそれに答えず、またも異様なまでに優しい天使の笑みを浮かべ、ロープに力を込めました。
少女のもがく力は次第に弱まり、とうとうがっくりとうなだれたまま、ぴくりとも動かなくなりました。
ぐったりとした少女の体を地面に横たえると、ピッチフォークを少女の頭の上の地面へ突き刺し、そこでやっと、少年の世界はいつも通りに見えはじめたのでした。
「死ねばいいなんて、相手がほんとうに死ぬんだって覚悟がなければ、言っちゃいけないんだよ」
返事をしないカーリーの横を過ぎ、路地から通りを見てみましたが、人の気配はありません。少年は大きく息を吸い込むと、明るく歌いだしました。
“ぼくは白ねこ 白こねこ みんなの愉快な友だちさ♪ 青いお空も太陽も 遊ぼうよって誘ってる─♪”
歌い終わって耳をすませると、町の人々が不安そうに近づいている気配がありました。これまでに殺人猫が現れていたのは夜のことだったので、何かの冗談だと疑っているのかもしれません。
少年は反対側の通りへ向かおうとしましたが、ふと立ち止まり、カーリーを振り返りました。
「ねえカーリー。うそつきは大嫌いだって言ったけど、ぼくが一番のうそつきだね。人間のふり、上手だったでしょ?」
いたずらっぽく肩をすくめて笑うと、少年は遊び終えて家に帰るように、まるで普通に路地を出て、誰にも気づかれないまま教会へと戻っていきました。
教会へ戻った少年は、本を手に庭へ向かいました。小さな兄弟が愛する家族を救うために旅に出るという、大嫌いな物語の本です。
庭ではあたたかい陽射しが降り注ぐ中で、小鳥たちが楽しそうに飛び回っていました。
少年は聖母の像に寄りかかって地面に座りこむと、本を真ん中のあたりで開いてお腹の上にのせ、目を閉じました。陽のあたたかさと小鳥の歌声が心地よく、すぐにうとうとと微睡みます。
意識を手離しかけた時、教会を駆ける足音が聞こえてきました。
「ああ、ここに居たのですね…!」
目をこすりながら視線を向けると、青ざめた神父様が立ち尽くしていました。
「神父さま、お葬式…おわったの?」
神父様は少年の横でひざをつくと、小さな手を取り、深く沈んだ表情でうつむきました。
「彼が…殺人猫が、現れました」
目を見開いて、ぽかんと神父様を見つめてから、少年は声を絞りだしました。その仕草はとても自然で、本当に状況が飲み込めていないかのようです。
「え…だって、まだ、とっても明るいのに…?それなのに、ねこがきたの?また…だれか、やられて…?」
下唇を噛んで苦しそうに顔を歪めた神父様は、今にも泣きそうに少年の手を握ります。
「君の、お友達の…カーリーが…」
弾かれたように立ち上がり、少年はすぐさま駆け出しました。聖堂にはエラ先生の葬儀に来ていた人達が居ましたが、誰も声をあげず、ただ少年の駆ける姿をやるせない表情で見送りました。
町の人達はみんな暗い顔をしていて、少年に気付くと気の毒そうに顔を伏せたり、涙ぐんで道をあけてくれました。
カーリーの家の前では、近所のジョアンが母親に付き添われながら、うずくまって泣いていました。
「ジョアン…」
「ジョアンのやつ、正気じゃないんだ。さっきから変なことばっかり言ってる。ハンナがいなくなって大泣きしてた時にこれだもんな」
振り返ると、パン屋の息子のコーディが暗い顔で立っていました。少年の隣へ歩み寄ると、濁った瞳でジョアンを見つめます。
「お前、すごいな。一番はじめに両親を殺されて、殺人猫の姿まで見てるのに、よくこの町にいられるよ。おれもさ、怖いんだ。カーリーがやられるまで、子供はきっと、大丈夫なんだと思ってたから」
コーディは町の子供の中心的な存在で、いつもたくさんの友達と駆け回っていました。学校へ行けない少年は、よく他の子供達にからかわれていて、コーディはそれを止めはしても、遊びに誘ったり、自分から話しかけてくることはこれまでありませんでした。
少しだけ冷えた心で、少年は泣きわめくジョアンを眺めます。
「ぼくには何も残っていないから。帰りたい家も、会いたい家族も。ただ、お腹が燃えてるみたいにあついんだよ。死んでもいい、死んででも、つかまえてやるって」
冷えた少年の目を見たコーディは、怯えたように身を引きました。ハッと我に返った少年は子供らしくはにかみます。猫だとばれてしまうかと身構えましたが、コーディは先ほどとは違う、羨望を含んだ眼差しを向けていました。
「かっこいいな、お前」
「ぜんぜん。醜いだけさ、ねこと一緒だよ」
肩をすくめて自嘲を浮かべると、少年はカーリーの家へと向かいます。これまで大きく見えていたコーディが、自分と同じ子供だとわかり、やはり人間は、臆病で小さな生き物なのだと思いました。
「…なあ」
少年の背に、コーディが呼びかけました。今になって彼と二人で話していることがとても可笑しく思えましたが、少年はちゃんと人間のふりをして、振り向くと首をかしげて見せました。
「カーリーがさ、言ってたんだ。お前のこと、本当は頭が良いんだって。からかっても仕返しをしないのは、弱いからじゃなくて、強いからなんだって。おれ、うそだと思ってた。今わかったよ…本当だったんだって」
「…早く町を出た方がいいよ。ぼくのお腹の熱が、君たちに向かなかったことを喜びたいならね」
優しい天使の笑顔で、氷柱のような鋭く冷たい言葉を突き立てられたコーディは、じわじわと這い上がる影の気配に、何も返すことができませんでした。
少年の中にある、冷たく、深い深い闇の淵に立たされたようで、その底にいる少年の本当の顔などわからないまま、小さな震えを抑えられずに、ただこの町を出たいと願ったのでした。
子供が殺された事実は町に大きな衝撃を与え、出ていく家は途端に増えました。コーディの家のパン屋をはじめ、子供のいる家庭はほぼ、三日と経たない間に引っ越していきました。
昼間から見回りをする大人が増え、偉い人達は早く殺人猫を捕まえて、町を出る人を減らしたいようでしたが、普段はちゃんと人間のふりをしている少年を捕まえることなど、何日経っても出来はしません。
一人を減らせば多くの家が引っ越していくので、少年は殺人猫を罵りながら見回る大人を、人気のない場所や夜の闇の中で少しずつ減らすだけで良くなりました。はじめは町の人間をみんな自分の手で消さなければならないかと思っていたので、心の中が軽くなったように感じました。
ある日、夕焼けの教会の庭で聖書を読んでいる少年の元へ、白猫がたずねてきました。
「おもしろいかい?そんなもの」
「ぜんぜんだよ。何を言いたいのか、さっぱりだもの」
少年が聖書を置くと、白猫が隣に座りました。
人の減った町は静かで暗く、夕方だというのに煙突から煙も上がらなくなりました。そんな町の方を見つめながら、猫は嬉しそうに、ふふんと鼻を鳴らします。
「とっても素敵な町になったね。人間に追われることも、馬車にはねられそうになることも無くなったよ」
「残った家は十軒もない。みんないなくなるまで、あと少しだ」
ふたりが顔を見合わせてにっこり笑うと、神父様の、夕食を知らせる声が聞こえてきました。
別れのあいさつをして、少年は機嫌よく食堂へ向かいます。
元から小さな食堂は、小さなテーブルと二人分の椅子、ぼんやりと辺りを照らす燭台があるだけで、とても寂しい部屋でした。
パンとポテトと野菜のスープを並べながら、神父様が微笑みました。
「おや、良いことがありましたか?」
「夕焼けがきれいだったんだ。それだけだよ」
素っ気なく食卓についた少年でしたが、神父様は手を組んで、優しい表情を浮かべます。
「今のこの町で、少しでも心が安らぐのは素敵なことです。悲しみや恐怖に負けてはいけません。神に感謝しなければ」
納得がいかず、いつもなら手を組んでお祈りのふりが出来るはずの少年は、お腹の中が熱くなっていくのを感じました。
「でも、殺人猫をつくったのだって神さまなんでしょ?それなのに、感謝するの?そんなのおかしいよ」
神父様は少年の言葉に驚いたようでしたが、怒ることなく悲しい笑顔を向けました。
「亡くなった方々の魂は、神の許で穏やかに過ごしているでしょう。きっと最後には、この町も、殺人猫のことも、救ってくださいますよ」
強く自分に言い聞かせているような、今にも崩れそうな神父様の姿に言葉を失い、少年のお腹の熱は霧となって広がると、風に流されていきました。
お祈りを済ませて食事をはじめると、少年はふと気になって、ポテトを転がしながら神父様にたずねました。
「神父さまは、この町を出ようと思わないの?」
「思いません。君が残りたいのでしょうから」
目を丸くした少年は、ポテトを転がすのも忘れて口をぱくぱくさせました。
「え、まさか、ぼくがいるから残るって言うの?いいよ、ぼくはひとりで生きられる。神父さまはもっと大きな教会へ行きなよ。ぼくひとりなんかじゃなくて、もっと多くの人を救えるんだよ」
少年はなぜこんなことを言っているのか、自分でも不思議に思いました。町の人間を追い出そうと思いはじめたのは最近のことで、それまでは殺してしまうはずでした。もちろんその中には、神父様も入っています。
今さら神父様が残ると言ったところで、邪魔に思った時、これまで通り殺してしまえば済むのです。
神父様に生きてほしいと言っているような自分の言葉に混乱し、少年はこれまで殺してきた人達と、神父様との違いを考えてみました。
「私は、君を置いて行ったりしませんよ」
顔を上げると、神父様が心配そうに少年を見つめていました。
なぜだかお腹がかっと熱くなり、少年はフォークをテーブルに叩きつけます。
「ぼくはそんなの望んでない!こんなところに残って、殺人猫に殺されたって知らないから!」
大声で叫ぶと、少年は食堂から駆け出しました。聖堂を抜けて大きな扉を開くと、そのまま教会を飛び出して行きます。
お腹の熱が冷めるまで走り続けた少年は、気付くとお墓の中を歩いていました。辺りは暗くなりはじめ、空がオレンジ色から明るい紫色に変わっています。
少年が足を止めた先には、両親のお墓がありました。二人が並んで眠っているであろう地面の上に立ち、鋭い瞳で、刻まれている両親の名前をにらみつけました。
「ぼくはまだ、あなたたちのことが大嫌いだよ。からだの傷を見るとね、掘りおこして、もう一度殺してやりたいって思うんだ」
そう言うと、少年は自分のお腹を撫でました。そこには、はじめて殺人猫が現れた日から、未だ消えない大きな痣があるのです。他にも、背中や胸、周りの人から見てもわからない場所は、治りかけた傷でいっぱいなのでした。
「だけどね、ひとつだけ良いこともあったんだ。あなたたちのおかげで、人間はとてもばかで愚かで、醜い生き物だってわかった。だから、ねこになれた。ばかな人間のまま大人にならずに済んだんだよ」
ポケットから白い布を取り出して、手元で広げて眺めます。少年のもうひとつの顔、可愛らしい笑顔を浮かべた、白猫の仮面です。
はじめて殺人猫になってからしばらくの月日が過ぎましたが、少年の中ではまだ、昨日のことのようでした。
いつものように、母親に叩かれながら家事の手伝いをしていた時、誤ってお皿を割ってしまった少年に激怒した酔った父親は、いきなりお腹を殴ったかと思うと、力加減もできないまま、少年の首を両手で締め付けたのです。
苦しさや恐怖より、少年が感じたのは、心がすっと冷えていくのと同時に、世界がいつもより、はっきりと見えることでした。
背後にあったナイフを手に取った少年は、ためらいなく、思い切り父親に向けて突き立てました。うずくまり、うめきながら喘いだ父親は、小さく痙攣して、すぐに動かなくなりました。
突然のことに声も出せずに立ち尽くす母親を、自分でも驚く素早さで、続けて刺してやりました。喉に穴の空いた母親は、びょうびょうと空気の漏れる音をさせ、真っ赤に染まって倒れます。
少年は何の感情も持たずナイフを床に捨てると、すぐに隣の家に駆け込んで行きました。隣人は真っ赤になった少年に驚き、近所の人々に助けを求め、家には大勢の大人が集まりました。
大人達から犯人の姿をきかれた少年は、人間のふりをして上手に恐怖で震えながら、迷わず答えたのです。白猫のような子供だったと。
「ぼく、殺すよ。神父さまを」
誰にともなく静かに呟いて、少年は白い布を握りしめました。
神父様は毎朝、町の広場にある神像にお祈りをしています。それから帰るのを待ち伏せて、殺してしまうことに決めました。
空を見上げると既に真っ暗でしたが、少年は帰る気になれず、いつもと同じように橋まで戻ると、欄干に腰掛けて星空を眺めました。
小さな星がひとつ流れて、少年にはそれが、誰かに蹴落とされて死んでいったように見えました。
翌朝、よく晴れた爽やかな青空の下、教会の小さな庭で、少年はいつもと同じように洗濯物を干していました。服やシーツを掛けた紐を引っ張ると、旗のようにひらひらと風になびいて、とても気持ちがいいのです。
洗濯物を干し終わると、次は庭の手入れをしようと、園芸用のはさみや如雨露、バケツなどを用意しました。教会は好きではありませんが、庭は嫌いではないので、手入は少年の数少ない趣味なのでした。
まずは枯れたバラを切り落とそうとはさみを手に取った時、聖堂の方から荒々しい足音が聞こえてきました。
「お前達だったんだな!俺の町をこんなことにしやがったのは!」
大きな怒鳴り声は町長のもので、扉という扉を乱暴に開けて、教会の中を探し回っているようでした。
少年がのぞいてみると、町長は大きな音をたてて食堂の扉を開けたところでした。
「おはよう町長さん。神父さまなら留守だよ」
振り返ったと思うと、町長はあいさつも返さず、少年をすごい形相でにらみつけました。
「お前だガキ!お前がこの町を呪いやがったんだ!誰も居なくなった!お前達二人以外、もう誰も居ねえんだ!他に誰を疑えばいい!?ああ!?」
怒鳴られることに慣れている少年は、怯む様子も怖がる気配もなく、ただ町長を見つめました。どこか異様な空気を感じましたが、町長は怒りでそれどころではありません。
「どうしてもっと早く気付かなかった!憐れなガキ?神父?そんなものは居ねえ!邪悪な悪魔だったんだ!」
乱暴に少年の胸倉を掴み、町長は青ざめた顔で叫びます。
「どこだ悪魔のガキ!悪魔の親玉はどこにいる!」
少年は表情なく町長を見つめていましたが、ふっと息をつくと目を細めて、その冷たさを露わにしました。
「うるさいなあ。大人なんだから、もっと落ち着いてしゃべれないの?」
突然の変わりように驚く町長の手を振り払うと、少年はとんとんと距離を取り、にっこりと天使のような優しく愛らしい笑みを浮かべて、くるくると回りました。
「でも、嬉しいな。ぼくたち以外、みんないなくなったんだね」
愛らしい少年を見ながら、町長は気付いてしまいました。ここへ来るべきではなかったこと。そして、逃げるには既に手遅れだということに。
嬉しそうに回っていた少年はぴたりと動きを止めると、天使の笑顔のまま、一歩町長に近寄りました。
「怒る気持ちはわかるけど、町長さん、あなたは間違いばっかりだよ」
一瞬のことでした。
天使だった笑顔が悪魔のように歪んだかと思うと、次の刹那には、町長の見る世界は赤一色に変わっていたのです。何が起こったのか理解すると同時に、町長は力なく床に崩れ落ちました。
「ひとつ、“お前達”じゃない。神父さまは、関係ないんだ。それに、もうひとつ。ぼくは呪ってなんかない。呪うくらいなら、自分で殺しちゃった方が早いでしょ?」
天使の笑顔に戻った少年は、しゃがんで町長に視線を合わせ、首をかしげます。
真っ赤な世界で呆然としている町長に笑いかけると、立ち上がった少年はポケットから布を取り出して頭に被りました。町長は目を見開き、自分の間違いを知りました。
「最後にひとつ。ぼくは悪魔じゃないよ。人間のふりをしたねこなんだ」
殺人猫は可愛らしい笑顔で、町長の喉からはさみを引き抜きました。すべての間違いを知った町長は何もできず、吹き出す赤色の中に倒れこみます。
動かなくなっていく町長を見ていた殺人猫は、扉の影に人の気配を感じて駆け出しました。これまで人に見られたことはありませんでしたが、見た者は殺さなければならないことはわかっていました。
潜んだ影に赤く染まったはさみを突き立てた殺人猫は、驚いて動きを止めます。
「神父さま…」
固まる殺人猫に、神父様はいつもと変わらない悲しい笑顔を向けました。
「とうとう、最後まで、私は君を…止められませんでした」
神父様はそっと手を伸ばすと、殺人猫の仮面を取って、少年を人間に戻しました。少年はふらふらと後ずさり、神父様を見つめます。
「…知ってたの?ぼくがねこだって」
「知っていました。君がここに来た時から。…それでも私は、君を止めてあげられなかった。方法はたくさんあったのでしょう…けれど、どうしたら君を救えるか、わからなかった。祈ることしか出来なかったんです」
苦しそうに崩れる神父様を、少年は見つめることしかできませんでした。
そんな少年に、神父様は優しく笑います。
「大丈夫、です。神は君を、きっと赦してくださいますよ…。大人が、人間が…愚かでごめんなさい」
「…なんで?なんで、そんなに優しくするの?ぼくは神さまなんて信じてないのに。みんな…殺したのに、あなたを刺したのに」
上手く呼吸をすることもできずに震える少年は、神父様にすがり付きました。神父様は力を振り絞り、少年を抱きしめます。
「ずっと…一人だったんですね。一人の寂しさは、私も知っていますから…。君を置いて行かないと…決めたのに…。本当に、ごめん、なさい…。愛、して…」
抱きしめていた腕が落ち、少年にもたれたまま、神父様は動かなくなりました。震える手で、そっと揺り動かしてみますが、反応はありません。はさみの刺さった胸からは、たくさんの赤色が流れていました。
呆然としている少年の視界の隅に、嬉しそうにやってくる白猫の姿が映りました。
「やあ殺人猫、聞いておくれよ。町から人間が消えたんだ。本当に、誰もいないんだよ。君はやったんだ、人間はいなくなったんだ!」
振り返った少年は、冷たくなっていく神父様の体を優しく横たえて、にっこりと笑いました。
「…まだ、残ってるよ。全部が憎くて、殺して、殺し尽くして。今さら悲しくなって、怖くて…。この人がもう一度、目を開けたらいいのにって、謝らせてくれたらいいのにって、そんな都合のいい、愚かな人間がひとり」
笑顔のまま大粒の涙を溢した少年は、横たわる神父様の胸からはさみを引き抜きます。
苦しそうに、しかし笑顔を浮かべたまま、少年は自分の首筋にはさみを向けました。
「これで、おわりだから。この町から人間が、本当にいなくなるんだ」
白猫が止める間もなく、少年の首から赤色が吹き出します。仰向けに倒れた少年は、やがて目を閉じ、動かなくなりました。
少年の最期を見届けた白猫は、力を振り絞り、少年の体を神父様の隣へ運びました。近くには、白い布袋が落ちていました。広げると、可愛らしい猫が微笑んでいます。
「君の中の人間が許せなかったんだね。…でも、人間だとしても、ぼくは君にいてほしかったな。君がいなければ、この町はぼくには広すぎる」
白い布を拾い上げ、白猫は聖堂へ向かいました。聖堂は陽の光を受けたステンドガラスが輝き、きらきらと鮮やかに光っていました。
祭壇の十字架に布袋を掛けると、白猫は歌いだしました。
“ぼくは白ねこ 白いねこ 殺人猫の友だちさ─♪”
涙を流す白猫の歌声は、誰もいない町の中に、寂しく響き渡っていきました。
(終)