故郷のこと
図書館内には、既に数人の研究者たちがいて、皆が皆黙々と文献を読み漁っていた。
エリオットは「あまり騒いだら駄目だからね。」と言って、人差し指を口に当てた。
出会った時は、ユージンもエリオットも少し緊張した様子だったが、歳が近かったこともあり、彼らはすぐに打ち解けた。
聞いたところ、彼は十九歳で、今はまだ研修の段階らしい。
「静かに利用、出したら戻す、これだけ守ってくれれば、好きなだけ見て構わないよ。静かにって言っても話しちゃいけないわけじゃないから、分からないことがあったら何でも聞いてね。物にもよるけど、借りたいのがあれば室長に言ってあげるよ。」
「・・・凄いな。」
ユージンは資料室を一通り見回して、思わず感嘆を吐いた。
彼はこんなにも沢山の資料が並べられているのを見るのは初めてだった。
エリベにも公立図書館はあるが、何と言うか小規模で、資料と呼べるようなものは少なかったのだ。
「やっぱり、ユージンさんは、エリベの出身なの?」
エリオットは適当な椅子に手をかけながら、そう聞いた。
「あぁ。実家が工房で、機械工の修業をしてるよ。モータが専門のとこだ。」
「へぇ、モータか。最近随分進化したよね。永久磁石を使わなくなってきたから回転も速くなってきたし、何より安価だ。高温でも使えるし。リラクタンスモータだっけ?」
「原理にはあまり詳しくないが、そういうのもあるな。」
「・・・呪文にしか聞こえないわ。」
近くに会った本棚に手を伸ばしながら、ペネロペが言った。
「ユージンもエリオットも凄いわね。私にはさっぱりよ。」
ユージンとエリオットは何となく馬が合ったようで、色々と話し始めてしまった。
正直、ペネロペやトリクシーは全くついていけない。
ペネロペは取った本をパラパラとめくり、すぐに閉じた。
「頭痛くなりそう。思ってたより難しいのばっかり。」
「私も全然分かんない。」
人懐こく明るいトリクシーにしては珍しく嫌そうな顔をしている。
だが当然だ。子供にとって、こんなところはつまらない場所以外の何物でもないだろう。
文字が読めない様子のトリクシーには尚更。
「仕組みとか技術とかの情報が欲しいな。物理系の文献は?」
「工学でいいかい?向こうから探すといいよ。」
おまけにユージンとエリオットはあんな様子である。
しばらくは図書館にいることになりそうだ。
これからどうしようかと、ペネロペとトリクシーが途方にくれていると、
背後から一人の若い女性研究員が話しかけてきた。
「エリオット君、ああなったら止まらないんですよ。」
エリオットとは顔見知りのようだ。
恐らく少し上の先輩だろう。すらりとしていて、綺麗な人だった。
彼女は、トリクシーのことを一瞬見てから、少し苦笑してペネロペに視線を合わせた。
「お連れさんも話し込んじゃってるみたいだし、小さい子をこんなところに入れておくのは少し可哀想じゃないかしら。良ければ、ここを出てすぐ左に曲がったところに休憩室がありますから、使ってくださいな。そこでなら多少大きな声で話したって怒られませんから。」
丁度いい、とペネロペは思った。
「ありがとうございます。トリクシー、行くわよ。」
ペネロペはトリクシーの手を取り、女性研究員に軽く頭を下げると、すぐに部屋を飛び出した。
「あー、無理よ無理!」
悲鳴のようになりながらペネロペが言った。
「聞いてないわよ、図書館って言うからもっと色々あると思ったのに、完全に学者の資料室じゃない。一般に開放してないのも納得よ。一から始める人向けじゃないわ。」
休憩室といって紹介された部屋に着くと、ペネロペは疲れた顔をして近くのソファーに座った。
先ほどの図書室と然程変わらないつくりの部屋だが、本棚がないだけ解放感がある。
あちらは折りたためるタイプのパイプ椅子であったが、こちらはソファーだ。
堅苦しい空間から出られて、随分気が楽になった。
「ねぇペネロペ、ユージン置いてきちゃって良かったの?」
トリクシーはペネロペとは少し離れた窓辺近くのソファーに腰掛けた。
休憩室というくらいなのであまり広くない場所ではあるが、ここには二人しかいない。
好きに座っても誰にも迷惑はかからなかった。
「良いのよ。ユージンったら意外にもあの空気になじめてるんだから驚きだわ。彼があんなに勉強熱心だとは思わなかった。バルタザールさんの考えは正解よ。私は失敗したけど。」
「失敗なの?」
「つまらないもの。私、勉強ってもともとそんなに好きじゃないのよ。家だって、科学とかカラクリとかとは無縁の酪農家だったし。ここよりずーっと田舎で、いい学校なんてのも無かったわ。」
「えっと・・・。」
トリクシーにとって、ペネロペの言葉は初めて聞く単語ばかりだった。
「ごめんね、ペネロペ。よく分かんないよ。」
「ちょっと難しかった?」
「うん。」
「・・・そっか。」
ペネロペは、そう言うと、ソファーに思いっきりふんぞり返って座った。
言い方は悪いが、年頃の少女がとるようなポーズではない。
「この街は楽しいけど窮屈よ。私、もっとこの場所に期待してた!」
ペネロペは低い天井を見上げて笑った。
だが、すぐに彼女の笑顔は消えた。
「ねぇ、トリクシー。どうせすることもないし、私の話を聞いてくれる?あんまりおもしろくないかもしれないけど。」
「いいよ、聞いてあげる。」
トリクシーが答えると、ペネロペは体を起こしてきちんとその場に座り直した。
「ペネロペのお話、あんまり聞いてなかったから。もっと知りたいもん。」
「・・・ありがとう。」
窓から差し込む光が、トリクシーに当たる。
彼女の髪と目が、明るい金色に輝いていた。
「私の名前、ペネロペ・キアッピーニって言うの。トリクシーは分からないかもしれないけど、これはユージンとかワルターさんとは違う名前だわ。隣の国の名前なの。」
「ペネロペ、お隣で生まれたの?」
「いいえ、私は正真正銘ジークガット国の生まれ。でもね、私が住んでるところって、国境沿いなの。簡単に言うなら、隣の国に近い場所。だから向こうの風習・・・文化が混ざってるわ。」
ペネロペは左側の三つ編みを軽く弄りながら言った。
「見た目だってそう。嫌なわけじゃないのよ、赤毛も結構気に入ってる。周りには色々言われるけどね。普通、ジークガットって黒か濃い茶色なのよ、髪も眼も。青い眼の人も昔は沢山いたらしいけど、今じゃほとんど見ないわ。ユージンが住んでるエリベのあたりにしか残ってないんじゃないかしら。まぁそのエリベでも徐々に数は減っていってるらしいけど。」
「・・・私、ペネロペと一緒かも。皆と見た目が違う。バルタザールさんもそんなこと言ってたし。」
「気にすることないわよ。」
ペネロペは何となく、故郷の風景を思い出して、少し笑った。
「そうね・・・トリクシーは、海って分かる?」
「海?」
「そこからか・・・。」
言葉選びが大変そうだ。
「ちょっとだけ、長い話になりそうね。」
ペネロペは、ジークガット国南西の港町、テレシカで生まれた。
国境沿いの静かなところで、その文化は、彼女も言った通り隣国の影響を強く受けている。
産業化が進むセントホルネ周辺の東地域と違い、自然に溢れた町だった。
漁業や酪農の他に、果実酒なども盛んで、テレシカのワインは国外でも高く取引されている。
穏やかな時間の流れる、静かな場所だった。
「お父さんのお兄さん・・・私のおじさんってね、テレシカの街でガラス職人をしているのよ。ほら、ああいうもので色々な形や模様を作ったりするのよ。」
ペネロペは、トリクシーのすぐそばにあった窓を指さした。
「透明で、赤とか青とか、本当に綺麗な色で、凄くキラキラしてる。とってもきれいだから、いつかあなたにも見せてあげるわ。」
トリクシーは、立ち上げると透明に透けている窓に手を当てた。
これが、カラフルになったりするのだろうか、と不思議に思った。
「その人、シストさんって言うの。自分の家で仕事をしていて、毎日色んなお客さんを相手にしていたわ。・・・昔ね、そこに偶然、遠い町から旅の人がやって来ってきたことがあったんですって。とっても器用な人で、シストさんのお家のいろんな壊れてたものを直しれくれたらしいわ。・・・・・・その旅の人が、ワルターさんよ。」
トリクシーは窓から手を離すと、少し驚いた顔でペネロペの顔を見た。
「なんで、ワルターは、そんなところに?テレシカって遠いんでしょ?」
「ちょっと想像できないけど、あの人、放浪癖があるのよ。」
「放浪癖?」
「同じ場所にいられないって言うか、色んなところに行きたくなっちゃうの。でも、さすがに奥さんを見つけてから止めたんだって。だから今セントホルネにいるのよ。」
これは、ペネロペがバルタザールに聞いた話だ。
バルタザールとワルターは、少々歳の差はあるがセントホルネで生まれ育った幼馴染だった。
ワルターが街を出る前までのことは、バルタザールに聞けば大体分かる。
「私、自分の小さな街から出て、都会に行ってみたかったの。そこで初めて、シストさんがワルターさんのことを教えてくれたわ。その時にはもう、ワルターさんは結婚していて、時計台管理をしていたのよ。だから、色々教えてもらいなさいって。」
ペネロペは、家の跡継ぎを兄に任せ、産業化に則って技術職に就くことを選んだ。
その勉強をするために、セントホルネへと移住してきたのだった。
ワルターの元で時計台管理人助手として資金を稼ぎながら、技術を得るための修業や勉強を重ねているのだ
「テレシカの皆には、ちゃんと勉強して技術を持って帰ると誓ったわ。でも、そう上手くはいかないものね。ちょっとは進歩したと思ったんだけど、やっぱりこういうところに来ちゃうと歯が立たないわ。」
ペネロペは苦笑して言いながら、少しだけ俯いた。
泣き出しそう、という程ではないが、かなり表情が曇っていた。
その様子を見ていたトリクシーは、心配そうにペネロペに歩み寄った。
「大丈夫?」
「平気。ごめんなさい、あの二人見てたら悔しくなっちゃった。」
トリクシーの頭にふと、ある言葉がよぎった。
“好きな話をしてるときは楽しいもんなんだよ。俺はカラクリが好きだ―――・・・。”
「ペネロペ、ユージンのこと好き?」
「えっ!?」
唐突すぎる質問に驚き、ペネロペが顔をあげた。
先ほどまで悶々としていた気持ちが全部吹き飛んでしまった。
「い、いきなり何よ。」
「ユージン、いつも色んな事を頑張ってるよ。あんまり沢山は喋らないけど、私の話をちゃんと聞いてくれる。分からないことがあれば、教えてくれる。」
ペネロペは、トリクシーが突然何を言い出すのかと混乱しているだけだ。
トリクシーは更に続けた。
「ユージンは・・・自分の街が嫌われてるって言ってた。それを話してるとき、すごく悲しそうにしてた。でも、すぐに笑ったの。飛行機の話をしたら、それは楽しいことだって。好きな事を話してる時は楽しいからって。私、ペネロペに話してあげられること、ユージンのことくらいしかないかも。」
「・・・そう。」
短く返事をして、ペネロペが少しだけ笑った。
「ユージンは、私よりずっと強いのね。」
「どういうこと?」
彼女は、遠くから来たとはいえ、セントホルネ周辺の事情をよく知っていた。
勿論、エリベのこともだった。
「分からないよ。」
トリクシーの問いに、ペネロペは答えなかった。
*
「どうしても、分からないことがあるんだ。」
エリオットがそう言ったので、ユージンは本をめくる手を止めた。
ユージンと向かい合って椅子に座ったエリオットは、何だか思いつめた様子だった。
「何かあったのか?」
「父さんが家で言っていて思ったんだ。旧アディニーナの魔人の術は、どうやっても科学で証明することが出来ない。」
その瞬間、ユージンの表情が固まった。
昨日の事をバルタザールが話したのかと思ったのだ。
「ユージンさんは知らないかもしれないけど、セントホルネ町議員に少し面倒なのがいるんだよ。ダンカン・パッテンと言って、強い魔人弾圧派の男なんだ。」
幸い、トリクシーの話とは違うようだった。
「父さんは魔人弾圧の反対派、そしてダンカンは賛成派。・・・何が起きるかくらいわかるだろう?弾圧の話が出た時から既に仲が悪かったみたいなんだけど、久々に一昨日揉めたらしいんだ。」
一昨日と言うと、ユージンとトリクシーが時計台から降りてきたあの日だ。
色々なことがあって、もっと遠い昔のように感じる。
「多分報告書か何かなのかな。セントホルネ町議員たちの書類提出が遅れていたらしいんだ。父さんは町議員たちを軽く注意して、気を付けるようにって言ったみたいなんだけど、それを見ていたダンカンがお前のやり方は甘いって怒っちゃって。」
「大変だな、人を纏めるって言うのは。」
「本当だよね。」
エリオットが困ったように笑った。
「父さんもさすがに参っちゃったみたいで、珍しく文句を言いながらお酒を飲んでたよ。大した量じゃなかったけどね。・・・父さん、もう旧アディニーナの話は、したくないって。過ぎてしまったことは仕方がない。弾圧は七年前に終わったんだって。」
エリオットは、自分の前に積んであった数冊の本の中から、くすんだ赤い色の表紙の本をとった。
ユージンが覗くと、それは自然科学についての本のようだった。
「父さんは、ダンカンのことで愚痴をこぼしてたけど、僕はそれより魔人の話についてが気になった。僕が思うに、魔人弾圧問題はまだ終わっていない。君は、最後の処刑で魔人が遺した、時間崩壊の予言を知ってるかい?」
ユージンは首を横に振った。
聞いたことがない話だった。
「関係者じゃないと知らないか。・・・弾圧部隊が、一人の魔人の生け捕りに成功したんだ。それをアルティリークの街で処刑した。そこまでは知ってるよね。でも、ここから先の話は、一部しか知らない。暗黙の了解で、何となく話しちゃいけないみたいな雰囲気になってるけど。」
エリオットは、本へと視線を落とした。
「処刑された魔人は、最後に弾圧派に対して時間の崩壊を予言した。いつか、お前たちは報いを受けるだろう。時の流れが崩壊すれば、人間は生きながらえることは出来ない。魔人はそう言った後、気でも狂ったみたいに笑い出して、そこで首を落とされた。ただの戯言だって皆言うけど、相手は魔人だ。」
彼らは、不可能を可能にする。
その原理は全く分からないし、解明できないことだ。
「魔人は、その術により、火を生み、そして水を生む。結界を張り、傷を癒す。・・・彼らなら、時空を捻じ曲げることさえ、可能なのかもしれない。父さんには悪いけど、僕も弾圧派寄りの考えを持ってるかな。魔人は、怖い生き物だよ。」
彼らには、本で説明された言葉など無意味だと思う。
エリオットは本を閉じた。
「ただダンカンはやりすぎ。自分の考えを持つことはいいことだけど、それを強要しちゃいけないと思うんだ。父さんが町長をしている以上、この街の決定権は父さんにある。」
*
日も暮れてきたので、ユージンたちはエリオットと別れを告げ、研究所を出た。
ペネロペの案内はここまでだったので、ユージンとトリクシーを宿舎の前まで送ると、彼女も自宅に帰っていった。
宿は、良くも悪くも普通といった見た目で、経営しているのはバルタザールの知り合いらしかった。
歳も、バルタザールに近い感じである。
用意されていた部屋は、随分質素な木の部屋で、床にはサーモンピンクのカーペットが敷いてあった。
壁に三枚ほど飾られた花の絵が温かい雰囲気を出している。
部屋に入ってすぐ、花の絵に引き寄せられたトリクシーを見て、オーナーが笑った。
「お兄さんたち、ワルターと面識があるんだってね?その絵、二年くらい前にステラさんが描いてくれたやつだよ。」
「ステラって?」
トリクシーが絵を見ながら言った。
ワルターの妻であるナタリアの話を覚えてないようだった。
「ほら、絵描きの娘さんだよ。」
「あ、昨日の部屋の人?」
「そう。」
二人が話しているのを横目に、オーナーが腰巻のエプロンから鍵を取り出した。
「ハイ、これが鍵ね。ご飯出来たら呼ぶから、それまでゆっくりしててねぇ。バスルームはそこにあるよ~。」
ユージンが彼から鍵を受け取る。
オーナーは慣れた手つきで軽くお辞儀すると、丁寧に扉を閉めていった。
夜が更けると、トリクシーはあっという間に寝てしまった。
さすがに二日も歩けば疲れたようだった。
静かな寝息を立てる彼女の腕には、動かないセルマがあった。
生活の感じが中と外では大分違うようで、宿に着いた辺りからなんとなく不安そうな顔になってきたため、
ユージンが彼女に渡したのだった。
セルマが喋っていた頃は、何だか怪しい人形だと思ったが、今はもう動かない。
トリクシーには少々可哀想だが、変なことをされなくて安心だった。
トリクシーがすぐに就寝してしまったのに対し、ユージンは机に向かって、バルタザールの時計と格闘中であった。
オーナーに相談してみたところ、道具を貸してくれたので、急げばエリベに帰る前に渡せるかと思ったのだった。
だが、バルタザールの時計は、海外の若干特殊タイプなので、あまり見たことがない仕組みである。
おまけに、手首も治りかけだったので、作業はなかなか進まなかった。
見たところ、ストッパーとギアがかみ合っていない。中央の歯車は無事だ。
落としたか何かして、パーツがずれ、ぜんまいが正常に回転していないのだ。
パーツがすり減っていたりすれば、専用の部品が必要になってくるが、そう言うわけではなかった。
思えば、実家でも何度か時計を直したことがあった。
彼は、昔から手先が器用な方だった。
物覚えも良く、ある程度勉強だって得意だった。
やれと言われればやり、止めろと言われれば止めた。
そうすれば、苦しくなることはなかったからだ。
ユージンは、時計を弄るのを止めると、自分の手を見つめ、そして握った。
「・・・トリクシーを、エリベには連れていけない。」
テーブルランプの明かりがそっと揺れた。
カランと何かが落ちる音がして、トリクシーが目を覚ました。
まだ、机の方の明かりがついている。
「・・・ユージン・・・まだ起きてるの?」
体を起こして、目を凝らすと、机の上で突っ伏すようにしてユージンが眠っていた。
先ほどの音は、机の上からルーペが落ちた時のもののようだ。
しばらく寝ぼけてぼんやりしていたトリクシーだが、状況が分かってくると、セルマを抱えたまま自分のベッドから降りた。
そして、徐にユージンが使うはずだったベッドの方から掛け物を引っ張ってきて、ユージンに被せた。
「おやすみ。」
そう言って、もう一度自分のベッドに戻ろうとしたところで、ふと窓が目に入った。
トリクシーは窓の傍によって、上を見上げた。
空に、綺麗な月と星が輝いている。
ひんやりとしたガラス窓に触れると、ペネロペが昼間に言っていたカラフルなガラス細工のことを思い出した。
一体、どんなものなのだろう。
この夜空をそのまま閉じ込めたような、そんな色なのだろうか。
あるいは、壁に飾られた赤い花のように、緑の葉のように、黄色い花瓶のように。
「綺麗・・・。」
何にせよ、晴れた夜の景色は美しかった。
星空もそうだが、家々に灯る明かりや、それによって出来た影もまた、幻想的だった。
その時である
「・・・あれ、なんだろう。」
空に、何かが飛んでいる。
暗いのでよく分からないが、鳥や虫ではなかった。
「飛行機・・・?」
知っているものの中では、それしか思いつかなかった。
「こんなに暗いのに、それに・・・。」
ユージンが言うには、この辺りは風のせいで、少し飛びにくいのだそうだ。
もし、あれが飛行機だとしたのなら、何故わざわざこんな真夜中に飛ぶのだろうか。
あまり難しいことは分からなかったが、トリクシーはただ茫然と不思議に思った。
「セルマ、あなたは空を飛びたいと思う?」
当然、セルマは答えない。
「私は、ユージンとなら、良いかなって思うの。・・・こんなの、わがままかな。」
空高く青い景色は、一体どんなのものなのだろう。
この広い世界はどこまで続いていて、そして、どこまで行けるのだろう。
その先には、何があるのだろう。
「空からなら、お父さんとお母さんも見つけられたりしてね。」
名前も顔も、声も年齢も分からない両親。
それでも会いたいと思うのは、心の奥底で何かを覚えてるからに違いなかった。
だが、自分の力だけで思い出すことは叶わない。
記憶喪失だとかそういうものではなく、単に記憶が古すぎて分からないのだ。
確かに、父と母は存在していた、それだけしか、今となっては思い出せなかった。
外の世界に出て、思い出したことがないわけではない。
自分の住んでいた場所がセントホルネでないことはわかった。
もっと静かで、人がいないところである。
それから、時計台の管理室で見た、ペネロペの書類にも何か見覚えがある気がした。
書かれた内容ではなく、書類の束に懐かしさを感じたのだ。
「夜のセントホルネは静かだね、セルマ。皆、寝ちゃうから。」
ユージンの方を見ると、彼はぐっすりと眠っている。
「ねぇ。私、良い子にしてたよね?ユージンの言う事も、ペネロペの言う事も聞いたよ。だから、ちょっとくらい、悪いことをしても平気かな。」
トリクシーはセルマを抱きしめた。
そして、ユージンを起こさないようそっと彼に近づくと、机に置かれた鍵を手に取る。
トリクシーは一度ぎゅっと目を瞑ると、扉へと歩み寄り、鍵穴にそれを挿しこんだ。
ユージンの見よう見まねで持った鍵を回すと、扉はいとも簡単に開いた。
「ごめんなさい。」
絞り出すようにそう言い、トリクシーは部屋を出た。
部屋の扉を閉じることもせず、彼女は廊下を走り出した。
転寝するオーナーの横を抜け、裸足のまま、夜の街へと飛び込んでいく。
時刻は、午前四時。
ほんの少し、東の空が光っていた。
「覚えてる、この空のこと。」
静かな故郷。
ゆっくりと顔を出す太陽。
何かが分かりそうな気がして、部屋を出ずにはいられなかった。
「セルマ、私―――・・・。」
走っているうちにだんだん息が切れてきて、足を止めた。
そっと吹いた風が彼女の髪を揺らす。
空を見上げると、もうあの飛行機のようなものは見えなかった。
「覚えてるのに・・・・・・この空、見たことがある・・・。」
雲は赤紫色に染まり始め、街の夜明けが近い事を知らせている。
光に目がかすみ、トリクシーは思わず目を細めた。
「なんでわかんないの!?どうして、思い出せないの!?」
何故か、涙が目に浮かんだ。
悔しかったのだ。
今まで、ずっと、セルマと二人で過ごしてきた。
自分でなんだって出来ると思っていた。
それが、いざ外に出てみれば、自分は何もできないただの子供で、広い世界の何のことも分からなかった。
それなのに、一人は寂しいということには気づいてしまった。
セルマはもういないのだ。
「・・・私って、一体なんなの・・・!」
問いかけても、誰も答えてくれる人はいなかった。
分からないのは嫌なことだった。
何も語れないし、何も理解できない。
「トリクシー・・・トレイラー。」
そう言って、彼女は自分の口を押えた。
もう少しで、断片的な記憶が思い出せそうと思ったところで、
ぱっと出てきた言葉だった。
「・・・・・・何、トレイラーって・・・。」
知らない言葉だが、ふと頭に浮かんだのだ。
彼女は、混乱を落ち着かせるため辺りを見回した。
夜が明けはじめ、少しずつ、周囲から音がするようになってきていた。
「か、帰らなきゃ・・・。」
あまり長い時間外にいてはいけないと思った。
ただでさえ、バルタザールと交わした約束を破ってしまったのだ。
決して一人で行動しないこと。
だが、
「・・・ここ、どこ?」
来た道を振り返っても、どうやって来たか覚えていない。
場所が分からなくなってしまった。
急いで、帰り道を探さなくてはいけない。
彼女は、不安に満ちた顔で、再び走り出した。
そんな道に迷ったトリクシーを遠くから見ていた男がいた。
「こんな朝っぱらからあのガキは何をやってるんだ・・・?」
彼は、ダンカンだった。
あまりに朝日が綺麗だったため、朝の散歩でもしようかと思い、偶然人通りの少ない裏道を歩いていたところだった。
若者が無意味に深夜徘徊をしているようなら思いきり怒鳴りつけてやるところだが、彼女は様子が違うように見える。
外国の娘のようであったし、恐らく迷子になった旅行者か何かだろうと思った。
声をかけようと近づいたが、途端彼女はまた走り去ってしまった。
無暗に動き回っては、余計に迷ってしまうだろうに。
「・・・仕方がないな。」
ダンカンは軽く小走りになりながら、彼女の後を追っていった。
トリクシーが一歩一歩走る度に、長いブロンドの髪が揺れて、太陽に反射する。
彼女を追って角を一回曲がったところで、ダンカンは足を止めた。
そして、静かに舌打ちをした。
「バルタザールのとこの通りか・・・。」
トリクシーが迷い込んだのは、バルタザールが住む自宅前の道であった。
ユージンとトリクシーの利用した宿からは、
距離にして一キロメートルあるかないかといったくらいの場所である。
ダンカンは、これ以上彼女を追うことを止めた。
バルタザールの家の前を通るなんて真っ平御免である。
今、自宅前に彼はいないが、代わりに彼の妻であるヴァイオレットが庭の掃除をしていた。
一応顔見知りなため、話しかけられると面倒だ。
だが、やはり少女が心配で、少しの間だけ彼女を見ていることにした。
トリクシーは、走ることを止め、とぼとぼと元気なく道を歩いている。
「どうしよう・・・全然違う道に出ちゃった・・・。」
絶対に怒られる、と落胆した。
トリクシーが顔をあげると、彼女の目に、ヴァイオレットの姿が映った。
知らない人に話しかけるのはあまり良くないとは思ったが、止む負えない。
「あの。」
「あら・・・こんな朝早くにどうしたの?」
ヴァイオレットはトリクシーの姿に一瞬驚いたようだったが、すぐ優しく話しかけてくれた。
花柄のエプロン姿をした、小柄な女性である。
長い黒髪を揺らし、トリクシーの方に近づいてきた。
「えっと・・・。」
話しかけたまでは良いが、宿の名前も、オーナーの名前も分からなかった。
説明が出来ない。
言葉を選ぶのに必死で黙ってしまっていると、家の窓が空き、まだ寝起きらしいバルタザールが目をこすりながら顔を出した。
「道に誰かいるのか、ヴァイオレット・・・。」
「小さい子供が・・・。」
ヴァイオレットが言うと、バルタザールは彼女の方を見た。
「子供って・・・は!?トリクシーさん!?」
バルタザールはこれ以上ないくらいに驚いて、トリクシーを二度見した。
「バル!?」
驚いたのはトリクシーも同じである。
「な、何やってるんですか!こんなとこで!?」
「あなた、この子と知り合いなの?」
ヴァイオレットは一度地面にじょうろをおくと、バルタザールの方へと駆け寄った。
バルタザールは眉間にしわを寄せて片手を額にあてた。
何か考えているようだった。
バルタザールは、顔をあげて一度ため息をついた
「・・・彼女を中に入れて。」
ダンカンは、トリクシーがバルタザールの自宅へと入っていくのをしっかりと見てしまった。
そして、思い出した。
昨日時計台にいた子供が、彼女であったことを。
「エイベルには役に立ってもらわなければならないな。」
この機会を逃すわけにはいかないと思った。
「お嬢さん、中に入って。」
ヴァイオレットがトリクシーの手をひいた。
セントホルネの街に、朝がやって来た。
*
朝、七時十分頃。
ドンドンドン!と、突然ペネロペの家の扉が忙しなく叩かれた。
「うるさいわねぇ!」
ペネロペは髪を降ろしたまま不機嫌そうに階段を下りた。
「全く何時だと思ってるのよ、まだ七時なんだか―――。」
言いながら扉を開けた。
「ペネロペ!!」
「ユージン・・・!?」
そこには、苦しそうに息を乱したユージンが立っていた。
相当に慌てているようだった。サスペンダーベルトが片方下がっている。
「一体どうしたのよ・・・。」
昨日のうちに自宅の位置は教えていたが、よく来れたと思った。
「というか、あなた・・・。」
ここまで走ってきたようなのだが、ユージンの呼吸がおかしい。
ペネロペは、ふらつくユージンの肩を支えた。
「やっぱり、そうだったのね・・・。」
ユージンは、さっきから何か言いたそうなのだが、息が切れていて上手く言葉が紡げずにいた。
「大丈夫よ、ゆっくりでいいわ。」
ペネロペがそう言うと、彼はペネロペに体重を預けて、何回か咳き込んだ。
そして言った。
「トリクシーがいないんだ・・・!」
ユージンが落ち着くのを待ってから、ペネロペはワルターの家へと向かった。
朝早い時間帯だったのもあり、彼はまだ家にいた。
混乱するユージンとは違い、ワルターはひどく冷静に状況を対処してくれた。
「ひとまずバルに連絡をつけよう。待っとれ。」
「お願いします。」
ペネロペが深く頭を下げた。
ユージンは罪悪感と焦燥感でいっぱいなようで、その表情は青ざめたまま動かない。
「俺が悪いんだ。」
その声は小さく、震えていた。
「あなたのせいじゃないわ。」
ユージンが目を覚ました時、既に部屋にトリクシーはいなかった。
代わりに、扉が開いたまま、ノブ下には鍵が刺さっていた。
ワルターが、バルタザールに電話をかけている間、ユージンとペネロペは玄関で立ったまま、ただ返事を待つことしか出来ないでいた。
「・・・ユージン。今日みたいな無茶は、お願いだからもうしないで。」
ユージンは黙ったままだ。
ペネロペは、トリクシーと同じくらい彼のことも心配だった。
「昨日トリクシーから聞いて、何となくそんな予感はしたわ。・・・あなた、喘息を持ってるのね。」
ユージンは俯きながら、右手で自分の首元に触れた。
「トリクシーには何も言ってない。」
「エリベが少し嫌われてるって。」
彼は顔をあげた。
「公害のことね。」
ペネロペが静かに言った。悲しそうに、でも仕方がないと言う風に。
「私、あなたがいつか倒れそうで怖いわ。それこそ、トリクシーが見つかる前に。」
ペネロペには、彼が何だか無理しているように見えて仕方がなかった。
時計台での一件が本当だとするなら、彼はまだ事故を起こしてから一週間も経っていない身なのだ。
その上、ここは彼にとって慣れない土地である。
安らぎの瞬間が一体どれほどあるか分からない。
「ほとんど治ったと思ったんだけどな。」
ユージンが力なく笑う。
「心配させてすまない。気を付けるよ。」
「・・・絶対よ。」
その時、ワルターが戻ってきた。
「トリクシーはバルが保護してるそうだ。」
彼の言葉を聞き、ユージンとペネロペの顔が明るくなった。
「本当ですか!?」
慌ててユージンが聞く。
「あぁ。今、バルとトリクシーは町役場にいる。迎えに行ってやれ。」
ワルターは、そう言うと軽く右手で拳を作った。
「心配させおって、この馬鹿男が。」
ワルターがユージンの肩を強く叩いた。その衝撃で彼は二、三歩後ろに下がる。
「トリクシーをあまり叱るなよ。」
言い捨てると、ワルターは部屋に戻って行った。
ユージンが、ワルターに殴られたところを軽くさする。
「・・・良かった・・・。」
ようやく安堵の表情を見せて肩を落とした。
そして、ペネロペの方を見て、彼女の手を取った。
「えっ?」
突然彼に触れられて、ペネロペは一瞬体が強張った。
「迷惑かけたな、ありがとう。」
だが、男にしては弱々しい彼の手の力にすぐ拍子抜けする。
「ほ・・・本当よ。こんな朝からバタバタさせて、馬鹿男。」
「あんたまで言うのかよ。」
ユージンが苦笑する。
「それに、お礼を言う相手は私じゃなくてワルターさんやバルタザールさんよ。」
彼の手が、なんだかくすぐったく、少し恥ずかしかった。
「・・・ちょっと、いつまで掴んでるの。」
「え、あぁ・・・悪い。」
彼が、申し訳なさそうに手を離した。
「早く、トリクシーを迎えに行きなさい。待ってるわ。」
やや不機嫌そうに俯いて、彼女は言った。




