セントホルネ
彼らは、喜びよりも驚きよりも先に、まずその光景の気味悪さに絶句してしまった。
ここまで人間味のない空間も稀であるだろう。
木製と金属製の両方が入り混じった歯車たちが擦れてキィキィと音を立てている。
広いと言うより深い部屋だ。
下までずっと、こんな感じの景色が続いているようだった。
トリクシーの部屋にあった扉は、その空間の一番高いところの、少し床がある場所にあった。
機械慣れしているユージンでも、これだけ大きな仕掛けを見たのは初めてである。
この部屋全てが何かのシステムのようであった。
「な、なにこれ・・・。」
トリクシーは、まだ一歩も出ていないのに怯えてしまい、すぐ扉の奥に隠れてしまった。
ユージンは、どこからか降りられないか辺りを見回した。
部屋には、沢山の梯子が張り巡らされているようだった。
トリクシーのような子供には少し危険そうだが、行けないことはない。
「トリクシー、すぐ下に梯子がある。なんとか降りられそうだ。出てきてごらん。ちゃんと俺が見てるから安心していい。」
「う、うん・・・。」
返事をしつつも、トリクシーは足を出すことを躊躇している。
「・・・トリクシー、彼を信じて。」
胸で抱えたセルマが小さく言った。
「分かってるよ。」
そして、踏み出した。
彼女の裸足が、扉の外へ着いた時だった。
セルマが、がくんと下を向いた。
ふと、腕にかかる重さが増えたので、トリクシーはセルマを見た。
「・・・セルマ?どうしたの?」
持ち上げて、揺すった。
セルマの返事はない。
「ねぇ、どうしたの?ねぇってば!」
いくらトリクシーが揺らしても、振っても、セルマは返事をしなかった。
まるで、普通の人形に戻ってしまったようだった。
「ねぇユージン、セルマが動かなくなっちゃった!」
「一体どうしたんだ、何か変なところでも押したか?」
「私何もしてないよ。でも・・・どうしよう。」
力を失い停止したセルマを抱えて、トリクシーは不安そうにしている。
ユージンは、少し考えてから鞄のふたを開け、セルマを回収して中に入れた。
少しはみ出してはいるが、何とか収納できた。
「とりあえず、今は俺があずかっておくよ。これなら俺もあんたも両手が空くし、一緒に行ける。」
「・・・うん、お願い。」
初めての場所で、いつもの友達を失ってしまい、トリクシーはとても心細くなってしまった。
それを宥めるように、ユージンは優しく彼女の手をひいた。
支えを失った扉が勝手に閉まる。
トリクシーに気を取られていたユージンがふと顔をあげると、そこにもう扉はなかった。
トリクシーは、今まで梯子を上り下りした経験がなかった。
いきなりでは危険なので、最初はまず梯子を伝う練習からであった。
少し慣れてきてから、ユージンが先を行くようにして、ゆっくりと降りていく。
時々梯子が切れると、木の板同士を飛び移ったりもした。
大きな歯車になると、比較的背が高い方であるユージンの身長さえも優に越え、それだけで子供を怖がらせるには充分だった。
泣いて動けなくなるということは無かったが、それでもトリクシーは何度か足を止めてしまった。
ユージンもまだ、怪我が全快していない。
片手が思うように使えない以上、子供を連れて先へ進むのはとても骨が折れた。
三十分か、一時間か、一体どれくらいの時間降りて来たか分からなかったが、ひたすら黙々と下へ降りるトリクシーに、ユージンは声をかけた。
「ねぇ、ユージン。体大丈夫?」
「え?」
「遅くなってるし、疲れてる?ちょっと辛そう。」
トリクシーはユージンをよく見ていた。
言われて初めて気づいたユージンは、何だか申し訳なくなってトリクシーから目を逸らした。
「ごめんな。さすがに一日ちょっとじゃ休むのが足りなかったかな。でも、俺は平気だよ。ありがとう。」
「無理しないでね。」
今まで一人で過ごしてきたとは思えない純真な性格だ、とつくづく思う。
よほどセルマの教育が良かったのだろうか。
「もう少しだから、俺も頑張らないとな。トリクシーこそ、平気なのか?」
「うん!ユージンがちゃんと引っ張ってくれるから。」
段々、がやがやと人の声が聞こえるようになってきていた。
外が近いのが分かる。もうすぐ、出られるのだ。
「外の世界には何があるんだろう。」
不安と期待の入り混じった不思議な感覚で、トリクシーの胸は高鳴った。
彼が連れだしてくれた広い世界で、セルマと暮らすんだ・・・。
「出口だ。」
ユージンが言う。
頭上を見上げると、遠くに小さく天井が見える。
一番下までたどり着いたのだ。よくここまで降りれたと思う。
重い体を引き摺りながらも、彼は笑った。
今日二枚目の扉が、目の前にある。
上に小さな曇りガラスがついていて、柔らかな光が漏れていた。
彼は、扉を開けた。
扉は外に出る直前に、もう一つある小部屋に繋がっていた。
壁についた窓から日差しが差し込み、賑やかな街並みが広がっているのが見える。
小部屋には、ユージンより少しだけ年下くらいの少女がいた。
「きゃあぁーッ!?」
突然現れたユージン達を見て、少女はまず悲鳴を上げた。
「うわっ!」
「きゃー!」
ユージンもトリクシーも、少女の悲鳴にびっくりして更に悲鳴をあげ、部屋中が大騒ぎになった。
少女は、赤みがかった茶色の髪に、緑色の目をしていた。
動く度に両肩に下げた三つ編みが跳ねるように揺れて踊る。
少女は、大慌てで座っていた椅子から立ち上がると、立てかけてあった箒を掴んでユージンの方へ向けた。
部屋は木で出来ていたが、トリクシーのいた部屋とは違い、綺麗に薄黄色の塗装がされていた。
少女が座っていた椅子の前には、壁を向く大きな事務机があり、それが彼女の作業場のようだった。
紙は机にも散らばっており、加えてサイドには本がバラバラに積み上げられている。
彼女が先ほどまで使っていたと思われるインクとペンも乗っていた。
何らかの施設の、管理室を思わせるような空間である。
「やだ!泥棒なんて!いつ入ったの!?」
「違う!俺たちは!」
「来ないで!!おまけにそんな小さな子なんか連れて!誘拐までしたの!?」
混乱して誤解をしている少女を何とか説得しようと思い、ユージンは一歩踏み出した。
しかし、話を聞いてもらえない。
「あ、あっ、ユージン・・・。」
少女が凄い勢いで喋るため、トリクシーは会話についていけないでいた。
混乱するトリクシーに、ユージンは「大丈夫だ。」と目くばせを送った。
「ちゃんと聞いてくれ!俺は犯罪者じゃない、それに彼女もだ。俺たちは、この上、で・・・。」
そこまで言いかけたところで、ユージンの足元がふらついた。
咄嗟に近くの壁片手をついたが、彼はそのままずるずるとへたり込んでしまった。
「え、ちょっと!」
ユージンが急に体勢を崩したので、少女は箒を放り投げると、慌てて彼の元へ近づいた。
勿論トリクシーもすぐにユージンのところへ駆け寄っていった。
彼は、下を向いて少し苦しそうに息をしていた。
「何・・・あなた怪我してるの?」
少女は、警戒しながらも、辛そうに縮こまっている彼を見て少しだけ心配そうにした。
「いじめちゃだめ!」
初対面にも関わらず、トリクシーは必死に少女へ訴えかけた。
泥棒にしては明らかに様子がおかしい、と少女は思った。
「何があったって言うのよ・・・。」
「それを説明したいのに、あんたが話させてくれないんだよ。」
少し苦笑しながら、ユージンは顔をあげた。
少女は、ひとまず押し黙った。そして、控えめにユージンに手を差しのべる。
彼は素直に少女の手を掴み、立ち上がった。
「・・・悪いね、あんまり調子が良くないんだ。」
ユージンは、改めて少女に向き直った。
「まず、ここがどこか教えてほしい。」
「どこって・・・ジークガットのセントホルネだけど・・・。」
「良かった・・・近いな。」
ユージンは安堵したようにため息をついた。
セントホルネの街と言えば、ユージンの故郷からほど近い、ジークガット国内の街だ。
やはりそう遠くにはとばされなかったようだった。
「何も良くなんかないわよ。突然中から出て来たからどうしたのかと思ったわ。この先は関係者以外立ち入り禁止よ。どうやって入ったか知らないけど、普通なら叩き出してるところなんだからね。」
「先日、この建物の上部に飛行機で突っ込んだんだ。おかげでこのザマだけど、あんたは、上に何かがぶつかったってことに気がつかなかったのか?」
少女は驚いて、自分の耳を疑った。
「初耳よ。事故なんて分からなかった。今朝も、ちゃんと中を見たはずだけど・・・何も異常はなかったわ。」
「・・・信じてもらえないかもしれないが・・・。」
ユージンは、小さい声で続けた。
「ここから二つ離れた町・・・カラクリ街って言えば分かるだろう。俺はエリベに住んでるんだ。飛行機に乗ってたら、うっかり乱気流に吞まれてしまって・・・。それで、風に流されて、突っ込んだのが、この時計台上層の・・・よく分からない部屋だったんだ。」
彼女は何か考え込むようにして黙ってしまった。
そして、ユージンとトリクシーを交互に見た。
「・・・まさか。嘘でしょう、この子、時計台に住んでたって言うの?」
*
トリクシーが幽閉され、そしてユージンの激突した、その建物の名は、セントホルネ大時計台と言った。
ジークガットでも有数の商業の街、セントホルネは、各町から出稼ぎにくる人間の集まった活気溢れる街であった。
一方、ユージンの故郷であるカラクリ街、エリベは、そのセントホルネの北東側、二つ隣に位置する小さな工業の街であった。
歩いて行くには少々大変だが、然程セントホルネから離れてはいない。
今までの出来事を大方話し終える頃には、彼女の興奮もすっかり落ち着いていた。
「信じられないわ。ここで修業をしてもう二年になるけど、そんな部屋知らないし・・・でも、もしあなたたちの言う事が本当だったら、これは大ニュースよ。」
ユージンはともかく、トリクシーに至っては“何年も行方不明だった子供が見つかった”のだ。
きっと、町中が騒ぎになるだろう。少女の言うとおりだった。
「さっきは疑ってごめんなさい。やっぱり、あなたたちが嘘をついてるようには見えないわ。本当に大変だったみたいね。色々と調べることは沢山ありそうだけど、ひとまず、あなたたちを信じることにするわ。」
そう言って、少女は、にっと笑った。
真似をするようにしてトリクシーも少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ありがとう、本当に助かるよ。紹介が遅れたが、俺はユージンだ。こっちがトリクシー。」
ユージンの後ろに隠れるようにしてトリクシーも、「よろしくね。」と言った。
「よろしく。ユージン、トリクシー。私はペネロペよ。」
ペネロペは、左右の三つ編みを揺らして微笑んだ。
「ペネロペ?あまりこの辺じゃ聞かない名前だな。外国から来たのか?」
ユージンが言うと、ペネロペは「違うわ。」と笑った。
「ちゃんと国内よ。でも、ここから大分遠い海辺の街よ。」
そこまで言って、ペネロペはトリクシーの顔を見た。
さっきから遠慮がちであまり喋らないトリクシーを少し気にかけていたのだ。
「ねぇトリクシー。外に出たい?」
ペネロペは、出かける準備を始めるように、腰につけていた白いエプロンを外した。
トリクシーの顔が、これ以上ないくらいに明るくなった。
「出たい!行きたい!」
「ずっと部屋に籠りきりだったんだもの。これ以上我慢させるのも可哀想よ。難しい話は一旦おしまい。まずは思いっきり、街を楽しみなさい。」
ペネロペは、ワインレッドの編み上げブーツの踵を鳴らして、外への扉へ駆け寄った。
「ユージン、あなたはどうする?あんまり具合が良くないんでしょ?休んでいても構わないわ。」
ユージンは少し考えて、それから首を横に振った。
「いや、俺も行くよ。別に暴れるわけじゃないし、俺もこの街を見ておきたいから。」
ペネロペは外へと続く扉のノブに手をかけた。
「分かったわ。二人とも、私が案内しましょう。」
そして、開いた。
今度こそ、本当の外。
太陽の光の溢れる、賑わいの商業の街。
「わぁ・・・!」
トリクシーは、高い高い空を見上げて、思わず感嘆の声をあげた。
今まで聞いたことのないような人々のざわめきや、嗅いだことのない匂い、
見たことのない景色、感じたことのない空気。
全てが新鮮であった。
道行く人々全員に声をかけたいくらいであったが、外に出られて嬉しいと同時に、少し不安もあったので、ぐっと押し留まった。
セントホルネ時計台の前は少し開けた広場のようになっていた。
石畳の地面に、高い街頭、都会という程ではないが、そこそこ近代的な風景であった。
「やっぱり、隠し部屋なんてないわ。あの天辺で時計台は終わりよ。トリクシーは一体どこにいたのかしら・・・。」
嬉しそうにはしゃぐトリクシーを横目に、ペネロペは時計台の上部を見て呟いた。
時計台は、しっかり一枚の屋根で終わっている。
ペネロペは、時計台内部の一番上まで、何度も上がったことがあった。
トリクシーのいた部屋など、一度も見た覚えはなかった。
さすがに屋根に乗ったことはないが、下から見上げる限り、屋根の上には何もないようだ。
「ユージン、ペネロペ!ねぇ、早く行こうよ!もっともっといろんなものを見せて!」
トリクシーは、不思議そうに時計台を見上げるペネロペを捕まえると、スカートを引っ張るようにして走り出した。
「あ、ちょっと!トリクシー!」
ペネロペは、トリクシーに引かれるようにして、早歩きで彼女の後を追った。
「あんまり走ると転ぶぞー。」
ユージンは、周りを見回しながら、後から歩いて彼女らを追った。
ユージンにとっても、この街の景色は珍しいものであった。
彼自身、あまりエリベの街から出たことがないので、セントホルネというのも名前程度しか知らず、きちんと訪れたことはなかった。
商業の街と呼ばれるだけあり、軽食屋から、洋服屋、はては旅人向けの土産屋まで、沢山の店が並んでいる。
工業の街であるエリベとはかなりの違いであった。
エリベはもっとこじんまりとしていて、人々の賑やかな声より、機械の動く音ばかりだった。
「・・・凄いな、この街は。」
ユージンがそう独り言を言う頃には、トリクシーとペネロペは既に近場の店を回っていた。
トリクシーの目に最初に飛び込んできたのは、小さなパン屋であった。
「いらっしゃいお嬢ちゃん。ここらじゃ見かけない顔だねぇ。」
パン屋の少し太った婦人は、優しい声でトリクシーに声をかけた。
焼きたてのスコッチの乗ったトレイを運んでいるところだった。
「こんにちは、おばさん。」
ペネロペがそう言うと、婦人は眼鏡を少しあげて笑った
「あら、ペネロペちゃんじゃないの。ということは、何?この子、あなたの親戚の子か何か?」
「あ、いえ・・・。その、親戚ではないんだけど、友達というか知り合いと言うか・・・。」
まさかここでトリクシーのことを言うわけにもいかないので、適当にごまかした。
「どうした、トリクシー。パンが食べたいのか?」
少し遅れてユージンがパン屋の前へ行くと、婦人は、先ほどよりもっと大きな声をあげた。
「あら!なぁに、ペネロペちゃん。あなたボーイフレンドなんていたの?」
「何のことです?」
ユージンが首を傾げた。
「違うわよ。ただの知り合い。」
ピシャリとペネロペが言い放つと、婦人は少し残念そうに肩をすぼめた。
持っていたトレイを棚に並べると、婦人はエプロンを結び直した。
「そう、それは残念。でもペネロペちゃんのお友達には変わりないわね。サービスしてあげる。」
婦人はそう言うと、ユージンたち三人の方を向いた。
さすが商売人というか、婦人は宣伝上手だった。
片手にトングを持ち、空いたもう片手でパンを次々と指さして説明し始めた。
「今日のおすすめはこれとこれ。さっき焼いたばかりだから、これも美味しいよ。まぁ、うちの商品はみんな美味しいけどね。ほら、安くしておくよ。どうだい?」
「そうねぇ。・・・どうする?トリクシー、何か食べたい?」
ペネロペが聞くと、トリクシーはユージンの方を向いた。
「・・・ユージン、いい?」
「別に、良いんじゃないのか?」
「やった!」
トリクシーは喜んでペネロペの元に駆け寄って飛びついた。
「食べる!ペネロペが選んで!」
「分かったわ。ユージンはどれにする?」
「えー、そうだなぁ・・・。」
ペネロペが聞くと、ユージンは近づいて棚を眺めた。
「俺もお任せでいいかな。おすすめでいいよ。・・・で、これ誰が払うんだ。」
「全額ユージン負担で。おばさん!ベーグルとバタースコッチ、あと、フルーツタルトよろしく!」
「毎度あり!」
「おい。」
ぽんぽんと話が進んでいくが、いつの間にか金は全てユージンが持つことになっていた。
微妙な顔をしながら鞄から財布を出した。
「あれ、本当に払ってくれるの?冗談だったのに。」
「別に良いよ。でも、今回だけだからな。あんまり使うと帰れなくなる。」
ユージンが肩掛け鞄を開けた時、トリクシーはその中のセルマを見逃さなかった。
やはりまだ動きはないようで、黙ってされるがままに鞄に収まっていた。
――もう、セルマは戻らないのかな・・・。
「はいお待ちどうさま。マドレーヌおまけしとくよ。」
「ありがとう、おばさん。・・・トリクシー?」
少し寂しそうな顔をするトリクシーの視線には、金を払おうと財布をいじっているユージンの姿があった。
「トリクシー、何見てるの?」
ペネロペがパンの入った紙袋を抱えて声をかけた。
「え?あ・・・その・・・、なんでもないよ。」
トリクシーは笑って見せた。
セルマは、これから二度と動かないのだろうか。
少し不安になったが、折角色々してくれているペネロペに心配をかけるのもどうかと思った。
「そう。ならいいけど・・・。あ、はい。これ買ったパン。あなたには、このスコッチをあげるわ。」
「ありがとう!」
トリクシーは笑顔でパンを受け取った。
ユージンは、婦人にチャリンとパン代の小銭を渡すと、すぐに二人の元へと戻ってきた。
ペネロペが婦人と知り合いだったからなのかは分からないが、思ったより安く済んで、少しだけ安堵した。
「あんた、あそこの店員と仲がいいのか?」
「仲が良いというか、一時期だけど、私もここで働いてたことがあって、その時の知り合いよ。出稼ぎに来てる身だし、こう見えて生活苦しいのよ。ここに来たばかりの頃は、本当になんだってしたわ。」
遠い町からわざわざ働きに来てるくらいなので、色々大変なのだろう。
ペネロペはユージンの質問に答えると、何事も無かったように笑って、フルーツタルトを取り出した。
そして太陽にかざすようにして、ジャムが光るのを見て微笑んだ。
「ここのタルト美味しくて好きよ。働いてるときも、よくつまみ食いしてた。」
「それは駄目だろう。」
「いいじゃない。ただの味見よ、味見。それに、今はちゃんとお客さんとしてなんだから。」
ペネロペがタルトを頬張った。
サク、と音がして、辺りいっぱいにベリーの香りが広がった。
「うん、やっぱり美味しい!」
ユージンとペネロペがそんな会話をしている中、トリクシーはじっと、自分の手の中にあるバタースコッチと睨めっこしていた。
今まで食べたことのないものだったし、作ったこともないものだった。
どう食べるのが正解なんだろうと思い悩みながら、ユージンとペネロペを見ていた。
が、ペネロペが、自分の思っていた以上に豪快にタルトに噛り付いていたので、特に食べ方にマナー的なものはないのかなと何となく察する。
好きなように食べればいいのだろう。
「・・・いただきます。」
小さい声でそう言って、トリクシーはスコッチを齧った。
手の中で層になっていたパンがほろりと崩れた。
「わ!凄く美味しい!」
「でしょう?」
トリクシーが歓喜に震える中、ペネロペが少し冗談っぽく彼女の肩を小突いた。
「ここ、きっとセントホルネで一番安くて美味しいわよ。」
「うわ、わ!こんなの食べたことない!美味しい!」
パン屑をまき散らしながらトリクシーがパンを食べると、そのおこぼれを狙って、鳥が集まってきた。
「ほーら、早く食べないとこいつらに取られちゃうわよ!」
ペネロペが手足をばたつかせて鳥を追い払う。
「町のハトほど怖いものはないからな。」
ユージンが真面目にそう言うと、トリクシーは一瞬表情を硬くした。
「私のパン取られちゃうの?やだー。」
ペネロペは笑って「馬鹿ねぇ。」と言った。
「さすがにそこまで意地汚くないわよ。まぁ、気を付けるにこしたことはないけどね!」
ペネロペがブーツの踵でカッと石の地面を蹴る度、ハトは空へと舞いあがるように逃げて行った。
灰色の羽が、何枚も宙に浮いていた。
*
初老の男が、大きな薄茶色の封筒を持って、時計屋から出てきた。
カラン、と店先のベルを鳴らし、店を後にする。
ふと振り返って、ショーウィンドウの時計を見ると、二つの針は丁度十二時を指していた。
男は、少し疲れた顔で「もう昼か。」と呟いた。
適当なところで飯でも買っていくか・・・。
そう思った男は、封筒を抱え直すと、辺りの店を散策し始めた。
すると、すぐ先に見慣れた三つ編みのお下げが見えた。
ふんわりとした膝下までのスカートに、赤いブーツ・・・。
「あいつ・・・。」
男は眉間にしわを寄せて、少女に近づいて行った。
「この辺りは、軽食屋さんが多いから、今みたいなお昼時には特に活気があるのよ。」
ペネロペは、セントホルネ時計台周辺を一通り案内すると、そう言ってガイドを締めくくった。
「時計台の周りはそんな感じ。もう少し向こうに行けば、もっと面白いものも沢山あるわ。お洋服や靴だってね。」
ユージンは感心するようにして「さすが商業の街だな。」と言った。
「でしょう?」
ペネロペがそう言って、笑った。
すると、彼女の背後に誰かが忍び寄り――
「ペネロペ!こんなとこで何やっとるんだ!」
声を荒げた。
「えっ!?ワ、ワルターさん!?あ、いや、その、これは・・・。」
ペネロペに声をかけたのは、五十代後半くらいの、少々小柄な男だった。
前髪を横に流した、白髪交じりの黒髪。
右手に封筒を抱えている。
突然の乱入者に、ユージンとトリクシーは、お互いの顔を見合わせた。
「時計台を開けるなとあれほど言ったろうが。お前さん、今は仕事中だろう!」
「すいません!鍵は掛けたんですけど、ごめんなさい!」
ペネロペは、ひたすら謝ってぺこぺことお辞儀をしていた。
「それで、一体何の用があってこんなとこにいるんだ?」
男は、不機嫌そうにそう言った。
「それはその・・・この人たちの案内をしていて・・・。」
ペネロペは、下を向きながら、ユージンとトリクシーの方に手をやった。
「ユージン、トリクシー。この人が、私のお師匠様。セントホルネ時計台現管理人のワルターさんよ。」
「師匠?」
ユージンがそう言うと、その男、ワルターは、彼を睨んだ。
「・・・お前さんたちは一体何者だ。」
そのあまりの威圧っぷりに押されて、トリクシーは、さっとユージンの後ろに隠れてしまった。
ユージン自身も、思わず目を逸らして、固まってしまった。
そんな二人に、ペネロペが急いで助け船を入れる。
「ワルターさん、聞いて。この人たち、悪い人じゃないんです。信じてもらえないかもしれないけど、色々あって・・・。」
「ペネロペの友達か何かか。」
「いや、そうじゃなくて・・・。」
時計台を空けてきてしまった罪悪感に苛まれながら、ペネロペは何とか事情を説明しようとワルターに食い下がった。
「俺が事故を起こしたんです。」
何と言っていいかどもるペネロペを見て、ユージンが申し訳なさそうに口を開いた。
「事故だって?」
「・・・はい。そのはずなのですが、実は―――。」
元々は自分が起こした騒ぎだ。
善意で自分たちに色々してくれたペネロペが(買い物代を払ったのはユージンであったが)これ以上追い詰められるのを見ていられなかった。
ユージンは、出来る限り分かりやすく事を説明した。
自分が時計台に突っ込んでしまったこと、そこでトリクシーに会ったこと、外に出たらそんな部屋なんてなかったこと・・・。
「・・・怪しい話だな。いかにも、泥棒が使いそうな良い訳じゃないか。それにしては話の規模が大きすぎる気がするがな。嘘にしては下手な話だ。」
ワルターは、ユージンの説明を聞くと、疑わしい様子でそう言った。
「本当だよ!」
トリクシーがユージンに隠れながら必死に言った。
「嘘なんかついてないもん!本当なんだから!」
「嘘ついてる奴は皆そう言うよ。」
ワルターは乾いた笑いをしてそう言った。
「しかし、あのペネロペを説き伏せたんなら、まぁある程度は本当なんだろう。一度バルと話をするべきだな。」
「バル?」
「その人って、一体誰なんですか?」
トリクシーとユージンが言うと、ワルターはやる気のなさそうな表情を変えずに続けた。
「ここの町長をしてる奴だ。私の馴染みでね、名をバルタザール・ハートと言う。お前さんらの言う事が本当なら一刻も早く行った方が良いし、嘘ならそこでバレる。今、刃物類なんかは持ってないだろうな。」
「町長さん・・・ですか・・・。」
ワルターは、ユージンの肩掛けの鞄に手をかけた。
出されてまずいものがあったら大変だと、武器を持っていないか確認するためだった。
トリクシーは、一瞬ワルターがセルマを取り上げるのではないかと思いひやひやしたが、ワルターは一通り鞄を漁るとすぐにユージンから離れた。
「ナイフや銃は持ってなさそうだな。銀髪のドールが気になったが、ありゃ嬢ちゃんのか。」
「う、うん・・・。」
トリクシーが頷くのを確認すると、ワルターは自分のズボンのポケットに手を突っ込んで、そこから硬貨を数枚取り出した。
「バルには私から話を付けておこう。とりあえず、これで嬢ちゃんに靴を買ってやんな。町中で裸足じゃ、いつか足を切る。」
そう言うと、ワルターはペネロペに金を渡すと、目を伏せがちに踵を翻した。
「金は給料から差し引きだ。今日はもう上がりでいいが、夕方頃に一度時計台に来い。バルと面会できる日取りを説明せにゃならんからな。」
ワルターは、そう言って少し手を振ると、すぐにその場から離れて時計台の方へ向かっていった。
完全に信用したわけではないが、手配をしてくれる辺り、一応信じてはくれたのだろう。
ワルターの後ろ姿が遠くなると、ペネロペは、深いため息をついた。
「・・・びっくりした。帰るのはお昼過ぎだって言ったのに。」
「分かっていて仕事場を離れたのか。」
ユージンが若干呆れ気味でそう言った。
「言われてた作業は終わってたのよ!ワルターさんが帰ってくる前に戻ればいいって考えたんだけど、思ったより早くて。こんなはずじゃなかったんだけど・・・。」
ユージンの背後にくっついていたトリクシーが、彼の影から出てきた。
「私、何か悪いことしたかな・・・。」
今までの元気がどこへ行ったのやら、トリクシーはぼそりとそう言って下を向いてしまった。
「怖かったな、トリクシー。」
トリクシーは何も言わずにただ、こくんと頷いた。
「あんなでも、ワルターさんは、トリクシーのことを心配してたのよ。本当は優しい人だから、分かってあげてね。」
ユージンと同じように、優しい声音でペネロペが言う。
「・・・そうなの?」
「そうよ。だから、ほら。」
ペネロペは、ワルターから貰った硬貨をトリクシーに見せた。
トリクシーはお金と言う概念をよく分かっていなかった。
だが、先刻、ユージンがパン屋の婦人に金を渡しているのを見ていたので、物を手に入れるときには何かと交換しなければならないというシステムは、なんとなくではあるが、理解していた。
トリクシーは銀色に光る硬貨を見つめた。
「これで、あなたの靴を買いましょ。ほら、みんな足に何かくっ付いてるでしょう?石や木の欠片が刺さると危ないの。この街は、結構そう言うの多いから。」
ペネロペは硬貨をスカートについたポケットに入れると、顔をあげて少し遠くを見た。
煉瓦の積み上げられた道の先、ずっと商店街が続いている。
ユージンも、ペネロペと同じ方向に目をやった。
「向こうに、衣類店があるのか?」
「えぇ。でも、この時間は人混みが多いから・・・。もう少ししてからの方がいいかもしれないわ。」
世の中は丁度昼休みの時間だ。
仕事を中断して、食べ物屋に入る人間が街を行きかっている。
トリクシーのような子供とそこに入ろうなら、すぐにはぐれて迷子になってしまいそうだった。
「もう少し、落ち着いてからいくべきか。」
「多分、そうした方が良いわ。時間ならまだまだあるし・・・トリクシー、待てるわよね?」
「・・・よく分からないけど、多分。」
ペネロペは、トリクシーの手をとった。
何だか元気をなくしてしまったトリクシーを楽しませようと、近場で子供が喜びそうなところはどこかと考えた。
「あっちで少し休んでいきましょう。・・・確か、そう、噴水があったはず。暑いし、丁度いいわ。」
「噴水って?」
「綺麗な形をした像があって、周りからお水が出るの。行ってみれば分かるわ。」
ペネロペが、微笑むと、トリクシーの顔に少し明るさが戻ってきた。
また新しい面白いものが見れるんだろうなと思うと、嬉しくなってきたのだ。
「ユージン、あなたの住むエリベってとこも、きっと噴水なんてないでしょう?驚くはずよ。」
「そうだな、小さい頃他の街で見たっきりだ。」
「行きましょ。人気の場所だから、早くしないとそこも人でいっぱいになっちゃうわ。」
ペネロペを先頭にして、ユージンとトリクシーは彼女の後を付いて行った。
トリクシーの右足についた鉛色のバンクルに、いつの間にか大きなヒビが入っていた。
*
ワルターが町役場へ入ると、そこでは、色々な届出を持った住人や、
町議員があくせくと歩き回っていた。
窓は開いているが、何分夏なので、部屋は蒸し暑かった。
「町長に用がある。」
ワルターは、案内のところで書類を見ていた町長助役の女性に声をかけた。
女性は、ワルターの顔を一瞬見ると、すぐに「こちらです。」と言って、彼を町長の元へと連れて行った。
役場内のワルターは有名人である。
町長から直接推薦で、大時計台の管理を引き受けている他、役場で使っている器具などが壊れた際は、大抵彼が修理を請け負っているからだ。
女性は、町長のいる部屋の手前で足を止めると、ワルターに一礼してから、仕事へと戻って行った。
軽くノックをして、部屋に入る。
町長は、大きな棚の前で、一冊のファイルを眺めていた。
一瞬、誰が入って来たのかと顔をしかめたが、相手が分かると、少しだけ口角をあげた。
「おや、ワルターじゃありませんか。」
「バル、仕事中に悪いな。」
セントホルネ町長、バルタザールは、一度作業を止めると、ファイルを棚に戻した。
「連絡なしで来て、よく中に入れましたね。」
年齢の割に体付きはすっきりとしていて、背が高い。
焦げ茶色の緩やかな髪を後ろで一つに括り、いかにも上品そうな立ち振る舞いである。
「助役に案内してもらったよ。その辺の奴より、よっぽど話が通って良い。」
「シャーロットですか。・・・それで、一体何の用ですか?」
「この間頼まれていた橋の設計図だが、一度書き直させた方が良い。こんなちゃちな作りじゃ大雨に耐えられんよ。もう少し強度が上げられるはずだ。」
ワルターは傍らに抱えていた封筒をバルタザールに渡した。
バルタザールは、封筒を丁寧に両手で受け取ると、少し中を覗いた。
封をしていなかったので、少しめくれば、中の設計図は容易に確認できた。
「おや、修正までしてくれたのですね。ありがとうございます。技師に伝えておきます。」
「あぁ。・・・それと、こちらからも少しだけいいか。」
ワルターは少し声のトーンを落として、そう言った。
「ワルターの方から提案があるなんて珍しいですね。」
冗談っぽくバルタザールは笑った。
だが、ワルターは、全く笑えないと言った顔でやや不機嫌そうに彼へ向かいなおった。
「時計台で事故が起きた。詳細は分からん。」
「・・・はい?」
「だが、問題はそこじゃない。」
状況が呑み込めない様子のバルタザールを無視し、ワルターは話を続けた。
「時計台に若い男の飛行機乗りが突っ込んだんだが、彼がぶつかったという場所が、時計台上層の謎の部屋らしい。そこにはまだ十つ程度の娘が住んでいて長らく出られなかったそうだが、飛行機乗りの男が扉をこじ開けて一緒に出てきたらしい。」
「えっと・・・?」
「娘が時計台に監禁されていた。それを若い男が助けて出てきた。そう言う事だ。だが、時計台には外傷一つない。ぶつかった飛行機はおろか、娘がいた部屋などあった形跡はない。」
「その娘さんと言うのは、どうやって今まで生活していたんですか?」
「さぁな。だが、まぁ誰かが食いもんを与えたり、ごみの処理をしたりしていたのなら、そいつを罪人としてしょっ引くべきだろうな。そして、その前に・・・この話が事実かもよく分からないんだ。だから、一度、その男と娘に会ってほしい。」
突然の滅茶苦茶な説明に、バルタザールは混乱していた。
大真面目な顔をしてワルターのような男が言う話ではないような気がする。
「・・・その方たちについて分かっていることは?出身だとか、名前だとか・・・。」
「男の方はよく分かるんだが、娘の情報は少ない。男は、ユージンという名で出身はエリベだ。二十歳かそこらだろう。娘の方はトリクシーと言う。こっちは十歳くらいか。まだ小さい。」
「不思議なこともあるのですね。なんと・・・。」
バルタザールはそう言って、彼から目を逸らした。
目線の先には机に置かれた懐中時計があった。
「あぁ・・・もう。」
バルタザールはそう言うと、ふらふらと椅子まで行くと、疲れた顔で腰を下ろした。
そしてもう一度時計を見るが、その針は五時十五分くらいを指したまま止まっていた。
「・・・分かりました、とりあえず、その彼と彼女とは面会しましょう。今、何時か分かりますか?」
言われて、ワルターは自分の懐中時計を出した。
バルタザールが上蓋付きのハンターケース型のものであるのに対し、ワルターは上蓋なしの標準的な時計を持っていた。
「バル・・・新しいのに買い換えろと言ってるだろ。」
「早いところ君が直してくれればその必要はないんですよ。僕は、あれが気に入ってるんです。」
「お前の私物までやってられんよ。・・・午後二時。」
「二時!?」
バルタザールは、椅子に寄りかかるようにして仰け反ると、両手で顔を覆った。
「その面会と言うのは、明日でも良いですか?ちょっと、今日のうちは・・・。」
「元からそのつもりだったよ。無理は承知だ。」
ワルターが時計をしまった。
「町議員たちの書類の提出が一部遅れていまして・・・最後に目を通さなければいけないのですが、いつ出来るのやらという感じなのです。・・・明日の午前十一時頃なら良いでしょう。一時間半もあれば十分ですか?」
「頼む。」
「分かりました。では、その時間に時計台にいてください。建物の様子も見たいですから。」
「ありがとうよ、忙しい中すまんね。」
そう一言言うと、ワルターはすぐにバルタザールの元を去ろうと彼に背を向けた。
仕事に追われる彼を長く引き止めるのもいけないと思ったからだった。
「明日の午前十一時だな。じゃあ、また―――。」
ワルターがノブに手をかけようとした時、その扉は、勝手に勢いよく開いた。
「バルタザール!!」
扉を開けてそう言ったのは、町議員の一人であった。
少々小太りで肉付きの良い、頑固そうな男。
ノックもない突然の来訪に、ワルターもバルタザールも驚き、その場で一瞬動きを止めてしまった。
「ダ・・・ダンカン・・・どうしたのですか。」
バルタザールが、ゆっくりと椅子にきちんと座り直しながら問いかけた。
ダンカンと呼ばれた男は、怒り気味に右手で拳を作った。
「どうもこうも!町議員の書類提出が遅れているのはお前も知ってるだろう!町長が直々に一括してやるべきだ!この体たらく、全く情けないとは思わないのか!」
「落ち着いてください。お客様がいる前ですよ。礼儀も心得なさい。」
バルタザールが声音を強めてそう言うと、ダンカンは少しだけ声の大きさを下げて、だが変わらない調子で続けた。
「・・・昔のお前は良かった。もっと周りを厳しく取り仕切っていただろうに、町長の座についてからは、そこで大人しくなっちまいやがって。」
「ダンカン。」
バルタザールとダンカンが揉め始めたので、ワルターは、黙ってそっと部屋を出た。
バルタザールも、つくづく大変な仕事をしているなと思う。
部下にあのような態度を取られ、平常でいられる自信がない。自分には到底無理なことだ・・・。
扉の向こうからは、まだ声が聞こえる。
「魔人弾圧の話が出た時からそうだ!俺があれだけ言っても、お前は聞かなかった!その結果がこれだろう!セントホルネ町議員は貴様の甘さのせいで堕落している!」
「何度も言うようですが、僕は権力でしばりつけるようなやり方は嫌いです。あなたの仕事ぶりには感服しますが、人には人のやり方があります。どうかご理解ください。」
「そうやってまたお前は・・・!」
ワルターが足を進めると、言い合う声は徐々に遠のいていった。
廊下を歩いて行くと、途中で見慣れない男が立っているのに気付いた。
明るい色をした短い赤髪に、若干褐色肌の、いかにも若者という風な格好。
まだ若いが、その表情は何だか沈んでいる。
身長は少し低めで、それを気にしてるのか、ヒールの入ったブーツを履いている。
役場に出入りしているにしては見慣れない人物だったので、誰だろうと不思議に思っていると、ワルターは彼と目が合った。
彼は、首を少し曲げるくらいの軽い礼をして、それからまた下を向いてしまった。
「バルタザールに用があるのか?」
ワルターが聞くと、彼は間を空けてから首を横に振った。
「・・・付き添い。」
ようやく聞き取れるか聞き取れないかくらいの声だった。
軽いが、低い声音である。
「一体誰の。」
「・・・今、町長と話をしている男だ。」
決して目を合わせずに、そこまで言うと、彼はそれきり黙ってしまった。
無口な男なようだ。これ以上話しても、答えてくれなさそうだった。
「そうかい。」
ワルターは、そのまま会話を追えてその場を後にした。
あのダンカンに、こんな若いツレがいるとは思わなかった。
若いと言っても、もう二十代も後半のあたりだろう。
それでも、五十歳程度のダンカンには不釣り合いなほどに若くほっそりした男だった。
すれ違いざまに、彼の顔に傷があるのが見える。
もう治っているようだが、右目の下に真横に走る細い傷跡。
それを見て、何となくだが、彼が喧嘩慣れしていそうだと感じた。
廊下には、バルタザールとダンカンの言い合う声が微かに響いていた。
*
すっかり元の明るさを取り戻したトリクシーが、小さな革靴を履いて、揚々と街を歩く。
「あはは!凄い、なにこれ!」
ユージンが選んだもので、足首程までの明るい色をした靴。
柔らかい素材で出来ていて、動きやすい子供向けのものだった。
「最初は、女の子の身に着けるものを男に任せなんてしたらどうなるかって思ったけど、なかなかいい趣味してるじゃない。あなた彼女でもいるの?」
ペネロペが少しユージンの肩を小突くようすると、彼は少し迷惑そうに、彼女を自分から離した。
「いないよ。信用ないな。」
「別にあなたの感性を疑ってるわけじゃないのよ。ただ何となくね。」
ペネロペがわざと三つ編みを揺らすようにして歩いていく。
そして、その前で、跳ね回るトリクシー。
結局、ワルターと別れてから、かなり長い間、ユージンたち三人は噴水前で時間を過ごした。
「きっと、もうワルターさんは帰って来ているわ――。」
陽が傾き、セントホルネの街に夕暮れが訪れようとしていた。
空が茜色に染まり始めている。