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内の世界

「大変だ!セルマ!セルマはいないの?」

 少女が、木で出来た広い部屋を縦横無尽に駆け回る。

転びそうになりながら、彼女は部屋でセルマと言う誰かを探していた。

 彼女は、少し汚れた白いワンピース姿で、腰下まで伸びた無造作なブロンド髪を揺らしている。

時折、右足首につけた重そうな鉛色のバンクルが陽の光を反射させ光っていた。

「どうしたの、トリクシー。」

 ベッドの下から、銀色の髪をした人形が顔を出した。

少女――トリクシーは、人形に駆け寄ると、それをそっと抱きかかえた。

 セルマとは人形の名前だった。

「ねぇ、セルマ。さっきした凄い音、聞いてた?」

「うん。」

 セルマは人形でありながら言葉を発することが出来た。

表情は描かれたもののまま変わらず、声音も単調ではあったが、それで十分だった。

 彼女が普通の人形でないことはトリクシーもなんとなく分かっていた。

だが、外の世界を知らない彼女にとっては唯一の話し相手だ。

 トリクシーはセルマをとても大切にしていた。

「眠くてうとうとしてたらね、突然床が揺れたの。そうしたら・・・・・・。」

 トリクシーは、期待と不安の混じった顔で、部屋の隅を指さした。

 鉄の塊のようなものが若干の煙をあげて佇んでいる。

壁に突っ込んできたらしく、そこだけ木の壁が崩れ、隙間から少しだけ夕陽が差し込んでいる。

 突如トリクシーの家に激突してきたこの鉄の塊は、壊れた飛行機だった。

 だが、飛行機そのものを知らなかったトリクシーとセルマには、その鉄の塊は単なるガラクタにしか見えていなかった。

「どうしよう、お家壊れちゃったなぁ。」

 トリクシーの危機感にかけた声に、セルマは落胆した。

もぞもぞと動いてトリクシーの腕から抜け出すと、自分の足で部屋を歩き始めた。

「トリクシー、笑ってる場合じゃないよ。これはとてもまずいと思う、相当に。」

「でも初めてのお客さんだよ。」

 トリクシーは、のろのろと歩くセルマを軽々追い抜くと、鉄の塊に歩み寄った。

一度も見たことのない本当に不思議な形だと思った。

「こんな、めちゃくちゃのものがお客さん?」

 セルマがトリクシーの背後から声をかける。

「お客さんっていうのはもっと喜ばしくて幸せなものじゃない?」

「セルマは黙ってて。」

 呆れるセルマの言葉を遮りながら、トリクシーは鉄の山に登った。

まだ十歳ほどの小さな彼女の体がどんどん高みに向かって行く。

「危ないよトリクシー。」

「平気。ちょっと滑るけど。」

 ガラクタの一番天辺まで上がった彼女は、振り返ってそこから自分の部屋を見た。

必要最低限の家具のみがおかれた質素な空間が広がる。

「トリクシーってば。」

 自分の人形に心配されるのもよそに、トリクシーは楽しそうに辺りを見渡していた。

ずっと何も無かった毎日に訪れた非凡が面白くて仕方ないのだ。

 だが、一通り高嶺からの風景を見終わると、彼女は突然真面目な顔をして自分の足元に目をやった。

「どうしたの?」

ようやくガラクタの麓に辿り着いたセルマがトリクシーを見上げる。

トリクシーは何かを探しているようだった。

「ねぇ、今何か聞こえなかった?」

 トリクシーはその場から立ち上がると、黙って崩れた木の壁をどけ始めた。

「・・・別に、何も聞こえないけど・・・って、ちょっと!」

 トリクシーが周りを気にしないでぽんぽんと鉄片や木辺をそこら中に投げるので、下にいるセルマは自分に当たるんじゃないかと大騒ぎだった。

「危ないでしょ!あんまり足元を崩すと落ちちゃうよ!」

トリクシーは何かを疑るような目で黙々と瓦礫を避けていく。

 そして、見つけた。瓦礫の下にある人間の手。

「やっぱりそう!誰かいる!」

トリクシーの悲鳴に近いその叫びを聞いて、セルマは飛び上がった。

「人間がいるの!?」

 夢中で瓦礫を掻き分けるトリクシー。

彼女の金色の瞳が不安と期待で揺れていた。

 重い鉄の板を力いっぱい掴んでよけると、いよいよその人間の顔が見えた。

下を向きぐったりとしているが、確かに息のある青年。

意識がないのか眼は閉じられていて、口が少しだけ開いている。

「怪我をしてる。」

 青年を見た彼女は独り言のようにそう言った。

ずっと、セルマと二人きりだった生活に、新しい誰かが来たのに、このままでは死んでしまうかもしれない。

そんな不安が頭をよぎった。

トリクシーは、ぎゅっと口を結んでから彼に向かって大声で言った。

「頑張って!絶対助けてあげるから!」

下でセルマがばたばたと手足を動かしている。

「本気なの!?トリクシー!」

 トリクシーは、必死になって彼の周りの鉄板をひっくり返しはじめた。

小さなトリクシーにとって、大の大人を瓦礫から引っ張り出すのは至難の業だった。

 それなのに、更にそこから平らな場所まで移動させなければならない。

苦戦するトリクシーを見かねて途中からセルマも加戦したのだが、彼女以上に非力な人形では大して役に立たなかった。

 一時間近くかかって青年を床へ引っ張り出すと、トリクシーは慣れない手つきで彼の手当を始めた。

幸いにも、見たところ青年は命にかかわるような怪我はしていない。

ただ、色々なところが腫れていて体のあちこちを強く打ったらしかった。


 鈍痛で、目を覚ました。

確か、自分は墜落したはずでは・・・。

 何故自分は室内らしいところにいるのだろう、と青年は疑問に思った。

 彼は、体を起こさないまま、そっと目を開く。

体の至る所が痛んでいたが、その一つ一つはあまり重いものではない。

幸い、軽い怪我をあちこちにしたくらいで済んだようだった。

 部屋にいるようなのだが、目覚めたばかりで視界が悪く、しかも真っ暗で何も見えなかった。

どうやら今、世の中は夜になっているらしい。

 ようやく夜目がきくようになると、上から月の光が差し込んでいるのが分かった。

この部屋は屋根裏部屋か何かのようだ。

それにしては随分広いような気もするが・・・。

 壁に窓はなく、代わりに天窓がついている。

 首を動かして横を見ると、スースーと寝息を立てて誰かが隣で寝ているようだった。

もし自分を助けてくれた人物がいるのだとしたら、お礼を言いたいと思った。

だが、同時に折角寝ているところを起こしてしまっていいのかも迷う。

今はとりあえずそのままで、また明日の朝に話しかけよう・・・。

 彼は、再び目を閉じようとした。

ぼんやりと高い天窓から月を見ていると、そこに小さな真っ白の天使が見えた気がした。



「もう、その辺で寝たらいけないってずっと言ってるのに。起きてトリクシー。」

 翌日の朝。

セルマに言われ、トリクシーは目を閉じたまましぶしぶと体を起こした。

 彼女は、昨日青年を助けた後、彼が目を覚ますまでずっと傍にいようと思っていたのだ。

しかし、いつの間にか寝てしまったらしい。

「・・・私まだ眠い。」

 駄々をこねるようにその場で蹲るトリクシーに、セルマが朗報を与える。

「昨日の人、もう起きてるよ。」

 その一言でトリクシーは一気に目を覚ました。

 急に起き上がろうとして勢い余って前に倒れる。

「そんなにあわてなくてもいいよ。」

セルマが静かにそう言った。

「今どこにいるの!?」

「そこだよ。」

 セルマが言い終わるより先にトリクシーは走りだしていた。

セルマがかけてくれた毛布をこれでもかとはねのけていく。

 彼女の頭の中は、初めてのお客さんのことでいっぱいになっていた。

何から話そうか、挨拶はした方がいいのか、色々なことを考えていた。

 彼は、ぼんやりと立って壊れた飛行機を眺めていた。

トリクシーが一生懸命巻いた包帯が、ワイシャツの袖から見え隠れしている。

強く擦ったのか、左頬が少し赤くなっていた。

 トリクシーは、とりあえず「あの!」と言って青年に近づいた。

彼の事をどう呼んでいいか分からず、そういうしかなかった。

緊張するトリクシーを見て青年は少しだけ笑った。

「おはよう。あんたが助けてくれたんだってな。ありがとう。」

 特に変わった声音ではなかったのだが、ずっとセルマしか話し相手がいなかったトリクシーにとっては、彼が声を発するだけでも新鮮で珍しくてしょうがなかった。

少し低くて優しそうな声。彼の青い瞳がこちらを覗いている。

「け、怪我・・・大丈夫?」

 目を逸らして、ぎこちなく返答する。

「あぁ、平気だよ。こうやって歩けるくらいにはね。ただ、こっちの手首は少し捻っていたみたいで・・・まだ痛いかな・・・はは。」

 彼は苦笑しながら、だらりと降ろしたままの左手を指さした。

「動かないの?」

「動くよ。でも、動かしちゃだめだろう。今日くらい大人しくしておくよ。それより・・・。」

 彼は、自分の突っ込んだ飛行機を見た。

「自分で言うのもなんだが本当に酷いな。あんたの家、今すぐは無理だけど、近いうちにちゃんと直すよ。悪かったな。」

 青年は申し訳なさそうにして俯いた。

トリクシーは彼を落ち込ませてしまったと思い慌てた。

「そ、そんな・・・!私もセルマも怒ってないし、心配しないでいいから!ね!」

「・・・なんてお礼を言ったらいいか分からない。本当に感謝してる。」

「いいの!私、あなたとあえてとっても嬉しかったから、それでおあいこでいいよ!」

 トリクシーの精一杯のフォローだった。

彼は、自分の背の高さに合わせようと背伸びして必死に喋るトリクシーを見て、何だか微笑ましいようなくすぐったいような気持ちになっていた。

「名前をまだ聞いてなかったね。何て言うんだ?」

 彼は、改めて彼女の方を見て言った。

彼女は、待ってましたとばかりに元気に飛び跳ねた。

「わ、私トリクシー!あなたは?私、あなたの名前をずっと聞きたかったの!ううん、名前だけじゃなくて他のいろんなことも!あの、私、あなたみたいなお客さんと話したこと全然なくって・・・。」

 言いたいことが沢山あって、トリクシーは自分が何を言ってるのかよく分からなくなっていた。

それでも彼は、嫌がるようなそぶりも見せずにきちんと聞いてくれた。

「俺はユージンだ。」

 ユージンはそう言って、トリクシーの頭を撫でた。

右手は上げられないので、左手をそっと彼女の頭に乗せた。

「この歳になって、こんな小さな女の子に助けられるなんて思わなかったよ。おかげで命拾いだ。聞きたいことがあるのならいくらでも話そう。」

 トリクシーは、何だか恥ずかしくなって大人しく彼に撫でられ続けている。

ユージンは、トリクシーを撫でながら、少し部屋を見回した。

「・・・ところでトリクシー。あんたのお父さんやお母さんは?」

 トリクシーはポカンとして彼の方を見上げた。

そんなトリクシーを見て、ユージンもよく分からない顔をした。

不思議そうに「どうしたんだ?」と彼が言うと、トリクシーは笑った。

「ユージン、ここには、お父さんもお母さんもいないよ。この部屋に住んでるのは私と、セルマだけだから。」

 その無邪気な笑顔にユージンは一瞬たじろいでしまった。

妙な悪寒のようなものを覚え、彼女から手を離してしまった。

何だか聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がしたのと、彼女のいうセルマとは、恐らく家族じゃない誰かだろうと思ったからだ。

 どうしようか少し悩んで、彼は言った。

「セルマって?」

「向こうの、あの子。」

 トリクシーは何でもないような顔で、セルマを指さした。

セルマは、小さな体で一生懸命にトリクシーの毛布を畳んでいた。

「人形じゃないか。」

「そうだよ。普通、お人形って動かないみたいなんだけど、セルマは違うよ。喋れるし、動くし。」

「会話できるのは知ってる。起きた時、俺を助けたのがトリクシーだと教えてくれたのは、あの人形だった。でもどうして・・・。」

「知らない。セルマは気づいたらもういたの。出会いはよく覚えてないなぁ。」

 疑問で頭がこんがらがっているユージンなど露知らず、トリクシーはにこにこと笑っている。

その時、例のセルマが声をあげた。

「トリクシー!早く朝ご飯を作ろうよ!今日は二人分なんだから、早くしないと大変だ!」

その場で小さく飛び跳ねるセルマを見て、ユージンは何かを思い出しそうになった。

このセルマという人形、何だかどこかで見たような。

「分かってるよセルマ。今行くから!」

トリクシーは元気に返事をすると、セルマの方へ走って行った。

 そこでようやく思い出した。

セルマは、昨日夢で見た天使に似ているのだ。

 ユージンはトリクシーたちの方へ歩み寄った。

「トリクシー、そのセルマって奴、空中を飛べるのか?」

「えぇ?」

トリクシーはまるで冗談でも言われたように笑った。

「そんなわけないよ。羽だってないし。」

 確かにそうだ。天使の象徴である白い翼がない。

 だが、それ以外の全てが、昨日の夜見たものに酷似していた。

作りものだからこそ輝く銀色の髪に、白とグレーのドレス服。

控えめについたフリルが上品な、まさに人形。

 セルマは、ユージンの質問には何も言わずに黙っている。

表情の変化のない動く人形は、見る人によっては、少しだけ不気味に感じるだろう。

トリクシーは愛着をもって接しているようであったが・・・。

「ユージンは、ここで待ってて。怪我してるんだし、多分大人しくしてた方がいいと思うから。」



 ユージンが、いくら分かりやすく説明しても、彼女が返す言葉は「知らない」と「分からない」の連続だった。

「ねぇ、飛行機って何?」

「空飛ぶ乗り物。でも、作るのにも乗るのにも技術がいるんだ。」

「技術?」

「あーえっと・・・。」

 セルマは普通の人形のように黙ってトリクシーに抱かれていた。

話を聞いているのか聞いていないのか分からないが、とりあえず反応は無かった。

「要するに色々難しいんだよ、飛行機って。でも、とっても楽しいんだ。」

「へぇ。お料理みたい。」

 何か違うような・・・。

比較的子供の相手は得意なはずなのだが、彼は頭を抱えてしまっていた。

なるべく簡単な言葉を選んでも、トリクシーが知っている単語は少ないのだ。

「ねぇ、ユージンは、いつも何をしている人なの?」

 構わず、トリクシーはどんどん先へ進もうとする。

「えっと・・・機械工・・・。」

 言っても分からないと思ったが、一応答えた。

案の定、トリクシーが首を傾げたので、付け足して言う。

「色んなカラクリを作ったり直してるんだ。」

「カラクリ?」

「人間にはできないようなことをしてくれたりとか、人間の代わりに時間を知らせたりする・・・その・・・便利なもの・・・?」

 トリクシーは目を輝かせて色々質問してくるのだが、知っている単語が少ないので会話してる途中から大抵わけが分からないことになっていた。

話がそれたり戻ったりしながら、滅茶苦茶に進行していく。

「よく分かんないけど、でもなんかすごいね!」

 トリクシーは、話の内容なんて理解出来なくても、ただ話してるだけで楽しそうだった。

最初は緊張して少しどもっていたものの、もうすっかり普通に話せるようになっていた。

「ユージンはいろんなことを知ってるんだね!」

「あんたが世の中を知らなさすぎなんだ。」

 ユージンは少し困ったような顔でトリクシーを見上げた。

「トリクシー。・・・あんた、まさか外に出たことがないのか?」

 何か深い事情があるのかもしれないが、聞かなければいけないと思った。

ユージンとしては重い話として切り出したつもりだったのだが、トリクシーは別段気にするような素振りもなく、普通に笑った。

「うん。でも、生まれた時からここにいたわけじゃなかったよ。違う場所にいた思い出もあるんだ。思い出って言っても、ここじゃなかったってことくらいしか覚えてないの。」

トリクシーはセルマをぎゅっと掴んでそう言った。

 人形は何の反応もせずにそのままだった。

「誰かに閉じ込められたのか?」

「分かんない。・・・そうなのかな。」

 トリクシーが少しだけ元気をなくしたような声になった。

「私・・・何年もこの部屋の中だけで過ごしてたの。でも、誰かが、いつか迎えに来てくれるんじゃないかなってずっと待ってたんだよ。」

 トリクシーは、そこまで言うと一度下を向いて、それから大きく息をすった。

「私、外に出たい!」

 縋るように大きく身を乗り出した。

「私、やっぱりここから出たいよ!あなたが教えてくれた、空を、カラクリを、世界を見てみたいよ!」

彼女は本気だった。

 必死に訴えかけるトリクシーを見て、ユージンは素直に彼女を外に出してあげたいと思った。

だが、外の世界を忘れるほど長い間ここを出られなかった彼女に、してやれることなどあるのだろうか。

 彼が悶々とそんなことを考えていると、セルマが突然口を挟んだ。

「駄目だよトリクシー・・・。」

感情のこもっていない小さな声だった。

トリクシーは少し悲しそうにセルマを持ち上げて自分の顔の前にやった。

「何で?セルマは外に出たくないの?」

 彼女の問いにセルマは答えなかった。

代わりに、少し考えるような動作をして、人形はこう続けた。

「あなたはここを出てはいけないって・・・昔、誰かに言われたような気がするから。」

「誰かって?」

 ユージンが言った。

「・・・誰だったかなぁ。」

 セルマは俯き気味で、自信がないようにそう言った。

はぐらかしているようには見えなかった。

 しかし、誰かに言われたと言っても、それが分からなければ意味がなかった。

「トリクシー、俺とここを出よう。」

 決意したようにユージンがそう言うと、トリクシーは、顔をぱっと明るくして立ち上がった。

「本当!?ユージン!」

 その反動でセルマがベッドにこてんと落ちた。

ずっと憧れていた外の世界に出られるのだ。

これ以上嬉しいことはなかった。

「トリクシーは、今までよく耐えたよ。もうここにいる必要はないんだ。」

「嬉しい!大好き!」

 トリクシーが飛び込んできたので、その場に座っていたユージンは思わず後ろに倒れた。

トリクシーが笑ってユージンを抱きしめる。

「ありがとう、ユージン!」

「痛いよ。」

 咄嗟に腕はひっこめたのだが、痣だらけの体に飛びつかれるのは少々苦しかった。

だが、あまりに嬉しそうなトリクシーを見て、ユージンもこれ以上は何も言えなかった。

 ベッドの上で、人形がゆっくり起き上がった。

「もう。トリクシー、急に離さないでよ。」

 喜びで満ち溢れた今のトリクシーに、その言葉は聞こえていないようだった。

「本当に大丈夫なのかな・・・。」

 はしゃぐ少女とは反対に、セルマは不安そうにしていた。

静かに、ベッドの隅からぶら下がるようにして下に降りる。

「ほら、トリクシー。分かったから、ちょっと降りてくれ。」

ユージンがそう言ってトリクシーを引きはがした時には、セルマはもう彼らの近くにいた。

ユージンから降ろされたトリクシーは、にこにことしながらセルマを抱き上げる。

「大丈夫だよ。出ちゃダメだなんて、きっとあなたの気のせいだよ。」

「そうかなぁ。それなら良いんだけど・・・。」

遅れて、ユージンが少し顔をしかめながら起き上がった。

やはり、トリクシーに飛びつかれたのが地味に痛かったようだ。

少しため息をついてから、トリクシーの方を向く。

「でもな、トリクシー。今すぐには無理かもしれない。俺はまだこんな状態だし・・・、多分外に出るには、あんたが思ってるより少し時間がかかるだろう。それでもいいか?」

「うん!私、いつまでも頑張るし、待つよ!」

トリクシーの答えに安心して、ユージンは彼女へ手を伸ばした。

握手のつもりだったのだが、トリクシーはそれが分からないようで固まってしまった。

「トリクシー、そっちの手を出して。」

ユージンがトリクシーの右手を指さして言った。

トリクシーは彼に言われた通りに恐る恐る手を出した。

その白い小さな手を彼がそっと掴み、軽く振った。

ただの握手だが、トリクシーは新しい発見でもしたかのように、また明るい顔をした。

「よろしくな、トリクシー。」

「・・・!うん、よろしくね!」



 翌日の午前から、早速ユージンは、このトリクシーの部屋を調べることにした。

午前と言っても部屋には時計がなかったので時間の概念はあまり無かったのだが。


長い間ずっと住んでいたというのに、トリクシーはこの部屋が何なのか分かっていなかった。

気づいたら住んでいたとしか言わず、両親の存在もほとんど覚えていないと言う。

 ほとんどと言うと、微かに覚えてるのだろうという感じだが、父と母がいたというくらいのざっくりさで、どんな顔だったか、どんな声だったかはもう検討が付かないそうだ。

 それはセルマも同様で、気づいたら意識があったとしか分からない。


 彼女の家は、汚いところまでやけにしっかりしていて、一応、子供が一人で暮らすのに不便はなさそうな状態だった。

生活に必要なものは大方揃っている。

 一番気になるのが食糧の流通経路だったのだが、不思議なことにそれは毎朝机にあった。

「誰かが運んでくれてるのかな。疑問に思ったこともなかったよ。」

 ユージンに聞かれても、トリクシーはあまり決定打になるようなことは言ってくれない。

彼女の生活は本当に謎だらけだった。

 ユージンを治療出来るくらいには医薬品も常備されていたわけで、彼女が生きるのに必要な水や食糧も充分に手に入る環境。

一番怪しいのはセルマであったのだが、その件についてはトリクシーが否定した。

「セルマなら、いつも私といるよ。」

「だよなぁ・・・。」

「・・・あの・・・あんまり役に立てなくてごめんなさい。」

「謝ることはないよ。でも、そうだな・・・。何か、他に気になることは?」

「気になること・・・うーん。」

 トリクシーが色々と考えを巡らせている間、ユージンは天井を見ていた。

彼自身が一番気になっているのは、この部屋に取り付けられた大きな天窓である。

あそこから何とか出入りできないものかと考えているのだが、どう頑張っても手は届かなそうだ。

「あ!ユージン、気になることあったよ!向こうに、扉があるんだ。」

「扉?」

 トリクシーに言われるがまま、彼は彼女の後を追った。

少しして、トリクシーはある棚の前で立ち止まった。

 どう見ても扉には見えないので、ユージンは半信半疑の微妙な顔をしている。

「ここ、お薬とかが少しだけしまってるんだけどね・・・ちょっと待って。」

そう言うと、彼女は棚の横に立って、ぐっとそれを押した。

すると、その後ろから

「・・・驚いた。隠し扉か、これは。」

 そこにあったのは短い下りの階段だった。

降りきった先には扉があり、見えにくいが、外国の絵のようなものが書いてあるようだった。

 二人は恐る恐る階段を降りていく。

「かなり前に見つけたの。でも、開けられなくて、そのままにしてたんだ。」

「鍵がかかってるのか。」

それなら、体当たりを一つや二つをかませば、打ち破れるか―――

あるいは部屋から、それらしい鍵を探すか。

「トリクシー、あなたが外に出られたら、私はどうなっちゃうの?」

 扉を見つめている二人の後ろから、セルマが言った。

「勿論、セルマも一緒だよ。あなたも、外の世界を知りたいでしょ?」

トリクシーは笑って言った。

 トリクシーとセルマが話していたその時、ユージンは扉についたドアノブに手を伸ばした。

もしかしたら、以前開かなかっただけで、今開けたらいけるかもしれないと思ったのだ。

 だが、それはあっけなく阻止された。

「触っちゃ駄目!」

 叫んだのはトリクシーだった。

「え?」

 片手を浮かせたまま、ユージンは動きを止めた。

もうすぐで、ノブに触れるところだった。

「ユージン、気を付けて。そのドア、触るとビッてするの。」

「なんだそれ・・・静電気のことか?でも今は夏場だしそんな・・・。」

「と、とにかく駄目!何も考えないで触ると危ないから!ほら、ちょっと見てて!」

トリクシーは、扉に向かって走ると、片手を扉の板にかざした。

触れた瞬間、空間に光を放つ青い電流のようなものが走った。

 ユージンが予想したように、それはまるで激しい静電気のようであった。

だが、何か電気とは違うような気もした。

 トリクシーは、それを見せるとすぐに手をひっこめて「ね?」と言った。

「だから言ったでしょ?開けられないって。ここを通るには・・・まずこの光るのを何とかしなくちゃいけないんじゃないかな・・・。」

「痛いのか?」

「うん。少しだけ。」

 トリクシーはそう言うと、触って方の手を軽くさすっている。

「これは思ったより大変そうだな。さわれない扉か・・・。」

 数々の謎にユージンは困り果ててしまった。

もしかしたらセルマなら触ることが出来るのではないかと閃いた。

ユージンがセルマの方を見る。

が、すぐに首を横に振られてしまった。出来ないらしい。

「・・・二人とも無理か。」

「できたら、とっくに開けてるよ。」

セルマが言った。

「・・・一応俺もやってみるか。」

 ユージンが再び手を伸ばす。

トリクシーもまた、彼を止めようと腕を引っ張る。

「ユージン、危ない。」

「大丈夫だよトリクシー。出来なくても、ちょっと痛い目に合うだけだ。」

 そして、彼はドアノブを掴んだ。

「・・・あれ。」

 思わず、掴んだ本人がそう言った。

 触れても、手は全く光っていなかった。

それどころか、恐る恐る彼がノブをせば、扉は素直にガチャリと音を立てた。

「・・・おい、これ・・・。」

 まだ押していないが、明らかに普通のドアである。

トリクシーもセルマも、背後で驚いて動きを止めていた。

「嘘・・・開いちゃったの?」

 トリクシーが扉に近づいてきて、まじまじとユージンの握るドアノブを見た。

そして、彼女も触る。

「きゃっ!」

バチッと音がして、トリクシーは後ろへ軽く弾き飛ばされた。

「トリクシー!」

 ユージンは慌てて扉から離れると、腰を抜かしているトリクシーに駆け寄った。

近くにいたセルマは、いち早くトリクシーの足元に寄って、心配そうに彼女を見上げた。

「おい、大丈夫か?」

「へ・・・平気だけど・・・。」

トリクシーは、目をぱっちりと見開いていて、まだ状況が呑み込めない様子である。

「何でユージンは触れるの・・・?」

 彼女は、珍しいものでも見るような目でまじまじとユージンを見つめた。

「俺にも分からない。でも、とにかくこれで外に出られる。」

「そう・・・だよね。」

 彼の存在は、幼い彼女にとって本当にとても頼もしかった。

「トリクシー・・・やっぱりやめといたほうが・・・。」

「もう。どうしてセルマ?前もそう言ってたけど、あなたはそんなに外に出るのが怖いの?折角、ユージンもいるんだよ。」

「だってずっと・・・この部屋がトリクシーと私の全てだったんだよ。あの扉だって開けられないんじゃなくて、開けちゃ駄目なものなんだよ。」

いつになく感情的に話すセルマに、ユージンは疑問を覚えた。

「私は、あなたを守るようにって誰かに言われていたはずなの。誰かは忘れちゃったけど、あなたに何かあったら、きっと、私その人に怒られてしまう!」

「ねぇ、誰かって誰なのセルマ?何でそんなに怖がっているの?」

―――トリクシーを閉じ込めているのは、こいつなんじゃないか。

「・・・セルマ、あんた、本当に人形なのか?」

ユージンは、声を低くして言った。

「そうだよ!」

「いつ誰に作られた。名前は誰が決めた。」

「分からない!いつの間にか、全部、全部忘れちゃったの!」

 ユージンは、少し怖い顔をしてセルマを右手で掴んだ。

トリクシーがいつもしているような優しい抱え方ではなく若干乱暴気味に。

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 セルマは、表情を変えないまま必死に抵抗している。

トリクシーがユージンのシャツを掴んだ。

「止めてユージン、セルマは嘘なんてついてないよ。許してあげて。」

「トリクシー、これはあんたの運命だ。俺が口を挟むべきじゃないかもしれないが、セルマの言いなりになる必要はないよ。外に行くか行かないかは自分で決めるんだ。」

 トリクシーは、突然の重大な選択に、少し涙を浮かべた。

「わた・・・私は・・・。」

 セルマが力なく「トリクシー・・・。」とつぶやく。

その悲しい声が、彼女を余計に混乱させた。

ユージンは急かしたりせずに、彼女の答えを待った。

 少しして、トリクシーは口を開いた。

「・・・ごめんね、セルマ。私は外に出たいよ。」

「良いんだな?」

「うん。」

 セルマは、もう何も言わなかった。

ただ、ユージンにつままれてぶらさがっている。

「大丈夫だよ、セルマ。外に行っても、一緒に暮らそうね。」

「・・・うん。」

 トリクシーが、ユージンに向かって両手を出し、セルマを催促する。

彼は、少し不満そうな顔をしてから、人形を彼女に手渡した。

 ユージンから返してもらったセルマを、ぎゅっと抱きしめる。

そしてもう一度だけ言った。

「ずっと一緒だよ。」

ユージンは、部屋に寄せてあった鞄を肩にかけ扉へ向かいなおった。

「開けるよ。」

 トリクシーが相槌を打つと、彼はその扉をぐっと引いた。


 だが、彼らの目の前に広がっていたのは美しい外の景色ではなかった。

薄暗く湿った空間の中、夥しい量の歯車が群れを成して回転していたのだ。


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