ラストラン
たった一人……いや、たった一両で電車が線路の上を走っていた。周りは明るく、優しい朝のような光が満ちていた。電車にはだれも乗っておらず、電車はさびしい思いをしていた。
電車は知っていた。電車とは人を素早く遠くに運ぶためのものであるということを。
電車は知らなかった。人が一人も乗っていない……車掌も運転士も、誰一人いない状態で走るというのは、到底あり得ないことを。
だから、ずっと望んでいた。だれかを乗せられる日を。
そのまま走り続けると、左前方に「ホーム」が初めて見えた。「ホーム」では止まらなければならないことを電車はちゃんと知っていた。その場所には誰もいないだろうと電車は始め思っていた。だが、かすかに靄がかかり、よく見えなかった「ホーム」が近づいてくるにつれ、それが間違いであることを知った。その場所には男が一人立っていた。
電車は止まり、その男のために扉を開いた。その男は一瞬乗ることに躊躇したような素振りをした後、勢いをつけて乗った。そして、電車の扉が閉まる。扉が閉まり、動き出しても男は座席に座る様子はなかった。ただ、宙の一点を見つめていた。いや、見つめていたかは分からない。帽子を目深に被った男の眼を見ることは不可能であった。
そのまま数刻がたっただろうか。その男はやはりまだそのまま動かなかった。確かに立っていることは容易だった。その電車は「一切」振動しないのだから。電車もそのことは知っていた。だが同時に、ずっと立っていては疲れることも知っていた。たまらず、声をかけた。
「あの。座らないんですか?大丈夫ですよ。どこに座っても。」
弱々しい声だった。だが、透通りきれいな「音」でもあった。男はその声を聞くと驚いたように顔をさっと上げた後、「それもそうか。」と呟いて、帽子を被り直し、座席に座った。そのあと、男は話しかけてきた。
「この列車はどこに向かってるんですか?」
「ごめんなさい。よくわからないんです。ごめんなさい。」
「そうか、なら仕方がない。それもそうだ。走るために作られたものが、行き先を知っているはずもない。電車はただ、線路の上を走り、移動し、楽しましてくれるものだ。」
男の声も不思議なものであった。しゃがれていたが、遠くまでしっかりと響く声で……男の声が不思議だった訳ではないのかもしれない。この世界のほうが、不思議なだけで。
「なぁ、じゃあ、到着するまで、相談に乗ってくれないか。」
電車はその時始めて困惑した。自分などに相談役が務まるのかどうか心配だったのだ。ここで、拒否すればきっと落ち込むに違いない。と、電車は思い、瞬時の後「分かった。」と返事をした。
「そうか、ありがとう。馬鹿な私の話を聞いてくれて……夢って、いうのが昔の私にはあった。パティシエールになることだ。笑えるだろう。そのための勉強もした。だけど、結局普通のサラリーマンになった。そうして、普通に仕事して、日々に悩殺されて、パティシエールになりたいなど忘れていた。それでも……時々なんだけどな……家に帰り、一人になると思いだすんだよ。自分って、何がしたいんだろうなって。一歩踏み出して、どこかで修行するとか、開業するとか、いろいろ手段はあったはずさ。だけど、そんなこと自分にはできなかった。そして、今の自分がある。一体どうしたかったんだろうな。あのとき、自分は一歩踏み出すべきだったんだろうか。どうなんだろうか。」
抑揚の少ない淡々とした口調だった。その声は、哀愁に満ちていた。電車はどう答えればいいのか悩みに悩んだ。一つの言葉しか浮かばなかった。
「後悔はしてるんですか?」
「いや、していない。ありがとう。話して、自分の気持ちがわかったよ。あぁ、楽しいものだった。」
男の声の哀愁は消えていないが、幾分か明るい声になった。電車は自分のかけた言葉が、間違っていなかったようで、安心した。
その時になって始めてあたりの光が消え、二度と出ることができないんじゃないか。と、疑いたくなるほどの闇に自分が飲まれていることに気付いた。無意識のうちにどうやらライトをつけていたらしかった。そのまま、不安ながらも走り続ける。そして、「ホーム」を見つけてしまった。電車はこの中に降ろすのはいやだった。
「ここが私の降りるところか。さぁ、ここで止めてくれ。ここまで運んでくれてありがとう。」
男はそう口にした。そう言われてしまっては止まらないわけにはいかない。「ホーム」につく。電車はその時どうしたらいいのかわからず困惑した。右と左両方に「ホーム」が、ある。闇の中、ライトに照らされた部分しか見えなかったが、右には水。左には森があった。
「右。右側に降ろしてくれ。本当にありがとう。」
水にはあまりいいイメージを持っていなかったが、乗客のいうことを無碍にしてはいけない。そう思い、右側のドアを開けた。最後に声をかける。
「行ってらっしゃい。」
その一言だけを
「ありがとう。本当にありがとう。行ってきます。」
感謝の言葉を一言伝えると、男は去って行った。
電車は走り出す。この男のことを、電車は忘れまいと思った。これから、たとえ何年たったとしても。電車は闇のなか抜ける。今度は自分の意思で、ライトを消す。男のことは、もうその時には忘れていた。
電車は知っている。自分が何者かを。
電車は知らないふりをした。自分の存在意義を。




