9、襲撃
9話には戦闘的シーンがあります。苦手な方は9話はスルーして下さいね。8話⇒10話でも、お話は繋がるようになっています。
帰宅路に面した公園をヒョイと覗くと、ブランコに座っていたしおりと目があった。
少女は嬉しそうな笑みを浮かべ、灯の傍に駆け寄ってくる。
思わず、灯も笑顔を返す。
端から見れば、年の離れた仲の良い姉妹に見えるかもしれない。
そのまま、手を繋いでいつもの道を歩き出した。
しおりは無口で大人しい少女だ。
すっかり灯に慣れ、緊張しているような様子はないが、しおりから話をすることはない。
もっぱら灯が主に学校の事などを尋ねる。
しおりが頷いたり、首を振ったり、あるいはごくごく短い返事があったりで、何とかコミュニケーションが取れているような状態だ。
だが、話が続かなくても気まずいような雰囲気はない。
むしろ繋いだ手の温もりが、灯には心地良かった。
いつものように歩道橋を並んでゆっくり上がっている時だった。
しおりと手を繋いでいる反対側を、灯の脹ら脛を掠めるように、何かが駆け抜けていった。
とたんに背中をぞわりとしたものが走る。
急に辺りの色彩が色あせ、車が行き交う音が遠ざかったような気がした。
嫌な予感がして、繋いだしおりの手をギュッと握ると、しおりも縋るように握りかえしてきた。
歩道橋の階段は残り2段。
視線の先には反対側の階段へと歩道が延びているのが見える。
その中央あたり、わずかに空気が歪んでいるようだ。
何かいる。
目には見えないが、殺気のような邪悪なものを放っている何か。
蛇に睨まれた蛙のように呆然と前方を見つめて動けない。
次の瞬間グッと右手を引かれ、倒れ込むように膝とつくと、すぐ頭の上を風が唸りを上げながら過ぎていった。
「おねえちゃん……逃げるよ」
しおりが階段の下を睨むように見つめながら立ち上がる。
灯も反射的に立ち上がり、しおりに手を引かれるように歩道橋の反対側に向かって駆け出した。
必死で駆ける。
駆けながら、しおりがチラリと後ろを振り返ったようだった。
風が唸る。
しおりが繋いでいる手を離し、灯を歩道橋脇に突き飛ばすと、ちょうど灯としおりの間の空気を裂くように何かが通り過ぎた。
「しおりちゃん…あなた…」
しおりには灯に見えない妖かしが見えているのだ。
小学校低学年の児童にしか見えないしおりが、灯よりはるかに俊敏に動ける事も驚きだった。
だけど、妖かしの目的は間違いなく私だ。
しおりは巻き添えを食ったにすぎない。
灯はふらりと立ち上がった。
足下を踏みしめるように前方を睨みつけているしおりを庇うようにして前に出る。
足が恐怖に震える。
だけど―――。
自分が生きているせいで、人に迷惑をかけたくない。
自分のために傷つく人は見たくない。
それが生まれて17年。灯のギリギリのプライドだった。
まして、しおりは自分よりもずっと幼い少女なのだ。
しおりは絶対に傷つけさせてはいけない。
たとえ、それで命を失うことになったとしても。
同じ時刻。
いつものように灯としおりを尾行していた海風は、灯たちが気づく前に異変に気づいていた。
明らかな妖気が行く手に感じられる。
見えない敵に警戒されないよう、灯とは数十メートルの間を開けて見守っていた。
危機を察し、反射的に駆け出す。
幼い少女と手を繋ぎ、何やら話しながら歩道橋の階段を上っていく灯の姿を捕らえたとき、黒い影が追いかけるように駆け上がり、灯の傍らを走り抜けた。
影が歩道橋の中程で振り返り、足を止めた。
妖かしの全身が見て取れる。
イノシシのような体躯。
鋭い両牙と真っ赤に濁った眼。
イノシシと明らかに異なるのはトカゲのような尾がある事と、眉間に第三の目があると言うことだ。
京都で古来から日本に住み着いている妖かしには慣れている海風だったが、それは今まで見たことのない輩だった。
発する妖気も半端ではない。
かなり手強い相手だと見て取れた。
やがて妖かしは、目標を灯に絞ってまっすぐ突進してきた。
立ちすくむ灯の手を、傍らの少女がグッと引いた。
倒れ込む灯のすぐ上を、妖かしが掠めるように過ぎていく。
イノシシに似ているだけあって、まっすぐ突進するだけで、攻撃の途中に微調整することはできないらしい。
妖かしが歩道橋の階段下に着地し、再度Uターンして階段を駆け上がるのを、十数メートル後を追いかけながら、海風は懐から霊符を取り出し、呪を唱えた。
妖かしに背を向け、懸命に逃げる二人だが、スピードではとてもかなわない。
再び妖かしが灯に踊りかかったが、それと気づいた少女が灯を突き飛ばし、からくもかわした。
その時。
呪が完成し、海風の足下から風が巻き起こった。
方向を転換し、妖かしが再び灯に躍りかかろうとするのが見える。
渦巻く風に刀印を下ろすと、風は唸りを上げながら妖かしに向かった。
かなりの破壊力を持つかまいたちの技は海風の得意技だった。
その目の前で、灯が少女を庇うように妖かしの前に立ちはだかる。
海風の起こした風の通り道だった。
―――――あのバカ!
海風は心の中で舌打ちする。
「伏せろ!!」
海風の声に少女が反応した。
身を躍らせて、灯に覆い被さる。
縺れるように倒れた二人の上を掠めて、風が妖かしに襲いかかった。
「――――!?」
灯の無事にホッとした次の瞬間、海風は背後に殺気を感じた。
だが、かわす間もなく、後頭部に熱い衝撃を受ける。
術を発動する間や直後は、他の攻撃に対し、どうしても無防備になる。
敵はそれを見越して、その弱点をついてきたのか。
相手は思った以上に、こちらの事を調べているのかもしれない。
だが、妖かしであれば、妖気を感じたはずだ。
―――――こいつは…人間!?
朦朧とする中、海風は振り返ろうとしたが、次に利き腕の右腕に焼け付くような痛みを感じ、そのまま意識が遠のいた。
一方―――。
灯がしおりを庇おうと妖かしの前に出たとき、『伏せろ!!』と叫ぶ声がした。
聞き覚えのある男の人の声だった。
「―――――海風くん!?」
あれは、彼の声に違いない。
助けに来てくれた。
嬉しくて、声のした方角を向こうとしたのだが、しおりが飛びついてきて、二人で縺れるように倒れ込んでしまった。
その直後、目を開けていられないくらい強い風が唸りを上げて頭上を通りすぎていったのだ。
灯が再び目を開けると、見上げる空も鮮やかな色彩を取り戻していた。
刺々しい空気が穏やかに変化している。
灯はゆっくり身を起こした。
「…しおりちゃん?」
二人で縺れ合うように倒れた筈なのに、しおりの姿が見あたらなかった。
嫌な汗が背中を滑り落ちる。
そうだ。海風くんは?
今、危機から救ってくれたのは海風に違いないのに。
振り返って、彼の姿が見えないこともおかしい。
「海風くん?」
灯は立ち上がると、不安な気持ちを抑えるように、歩道橋を戻る。
「海風くん!!」
歩道橋の端までたどり着いた灯が、下を見下ろすと、歩道橋の階段の袂に、海風が倒れていた。
頭から首筋を赤い物が伝い、頭の下の染みを大きくしていく。
「海風くんっ!!!」
彼はピクリとも動かない。
灯は跳ぶように歩道橋の階段を下り、海風に駆け寄った。