8、兄妹
灯の高校の図書室は新館の1階に位置している。
元々学校を休みがちで、友達とも知らず知らず距離を置いていたため、灯にとって図書室はお気に入りの場所だった。
蔵書も一高校の図書室としてはかなり充実しているし、話題の新刊なども早く手に入れられる事もあって、昼休みなど、よく利用していた。
水木のアドバイスから就職に興味を持った今は、欲しい資料も結構あることが分かって、これまで以上に足繁く、灯は図書室に足を運んでいた。
昼休みの図書室は利用者もまばらだ。
教室にはまだ冷房が入っておらず、初夏の日差しにじっとり汗ばむくらいだが、図書室は空調が効いており、過ごしやすい。
灯はいつものように、雑誌や新刊書籍を紹介する書棚をチェックしていく。
以前からベストセラー本や今話題の本が時々並べられていることには気づいていたが、進学や就職の情報誌もここに置いてあることに最近気づいたのだ。
何気なく表紙の字を目で追っていくうち、
『陰陽師 安倍晴明』
背表紙にそう書かれた単行本に気づいた。
手にしてパラパラとページを捲る。
―――――安倍晴明って……海風くんのご先祖様だよね…。
占いや呪術に優れ、人の目に見えない妖かしを見たというくだりを読み、実際海風はどんな力を持っているのだろうかと考える。
海風も灯には見えない、不可思議なものを見る。
灯に取り憑いた妖かしを、一瞬にして祓ってくれた。
灯に守りの力を施してくれた。
人間離れした力。
だが、何日か一緒に生活して、海風自身はごく普通の高校生だと思う。
しっかりしているようで、いやに子供っぽいところもある。
灯自身にも外見に似合わず、強情で負けず嫌いのところがある。
出会ってこの方、それらがぶつかってしまって、どうも仲違いという結果になっているような気がする。
「本当は仲良くしたいのに。どうしてうまくいかないのかな……」
ホッと溜息をつき、灯は書籍を元の場所に戻した。
ふと目を上げると、テーブル席に最近親しくなった先輩の後ろ姿。
両肘をテーブルにつき項垂れるようにして、掌の物を見つめていた。
その表情が何だかとても辛そうに見える。
いつも陽気な彼がどうしたのだろうと、灯は少し心配になった。
「水木先輩!」
図書室の中なので遠慮気味に、でも明るく声をかける。
ポンと背中を叩くと、ハッと顔を上げた水木と目があった。
慌てたように水木が手の中の物を握りしめ、ポケットに突っ込む。
……石?
チラリとしか見えなかったが、水木が見つめていた物は二つに割れた黒い石のように見えた。
水木の行動が、まるで灯の目からそれらを隠すかのようで、不思議に思ったが、敢えてその事には触れなかった。
にっこり笑って、灯は水木に問いかける。
「先輩、なんか元気ないですね? どうしたんですか?」
灯に顔を覗き込まれ、狼狽えた水木は、「いや…妹が……」と小さな声で呟いた。
「妹さん? 先輩、妹さんがいらっしゃるんですか?」
灯の言葉に急に驚いたように目を見開いて、水木は自分の発した言葉を悔やむような表情をした。
「え…う、うん…」
「…妹さん、どうかしたんですか?」
「え!?…いや、その…ちょっと心配な事があって…」
「?」
「い、妹に…いや、妹が…その…夢中な相手が現れてさ」
水木は言いにくそうに、言葉を濁し目を逸らす。灯は水木を見下ろしながら首を傾げた。
「? …彼氏さんができたって事ですか?」
「まあね。…それで、心配になってただけなんだ」
「そうなんですか。……水木先輩って妹さん思いなんですね」
クスリと笑う灯の表情に、水木も明らかにホッとした顔をした。
「心配だけど…どうしてやるのが良いのか、正しいのか、何だかわからなくなって……」
「……相手の方、何か問題でもあるんですか?」
「うん。…だけど…僕にはどうしようもなくてさ…」
水木は軽く頭を振り、それから気持ちを切り替えるように灯に柔らかい眼差しを向けた。
それは妹を思う優しい兄の表情に思えた。
「妹は今中3で、八神さんの一つ下なんだ。妹も大人しいけれど、芯はしっかりしていて…案外八神さんと気が合うかもしれないね」
「…妹さん、可愛くてたまらないって感じ。ちょっと羨ましいです」
「羨ましい?」
「ええ。私にも兄がいるんですけど、大学が遠いって、家を出て一人暮らししてるんです。最近はあまり会えなくて」
「そうか。…それは寂しいね」
灯が生まれつき身体が弱いせいで、いつも自分の身体の心配をしている優しい兄だ。
この春大学に合格したが、初めのうちは灯が心配だからと片道2時間かけて通学していた。だが、やはり無理があるということで、今は大学の近くに部屋を借り、下宿生活をしている。
海風が現在使用している部屋は、兄が以前使っていた部屋だった。
「でも、今は従兄弟がホームステイしているんだったっけ? 僕、なんだかいつも彼に睨まれているよ。彼も君の兄代わり? それとも恋人?」
“従兄弟の彼”というのは海風のことだ。
学校関係者には、海風は従兄弟だと説明している。海風が転校してまで、灯の近くにいる本当の理由は、説明しても信じてもらえることではないから、簡単に家庭の事情で親戚の子を預かることになったという理由を通しているのだ。
「恋人だなんて! そんなことはないです!」
とんでもないというふうに、灯はブンブンと首を振る。
とたんに頬が熱を持った。
「海風くんが先輩を不快にさせたなら、ごめんなさい。ただ、彼は私を心配してくれてるだけなんです。私は…その、ちょっと身体が弱くて、よく倒れたりしてるし、何だかとても頼りなく思われてるようで」
自分で言って落ち込んでしまうのは何故だろう。
「…じゃあ彼はただのボディーガードって訳? それにしては、僕が八神さんに話しかけたら、まるで敵を見るみたいな視線を向けられるんだけど。…あれは嫉妬じゃないのかなぁ」
「いえ、そんなことはないです」
灯はきっぱりと言い切った。
海風が敵を見るような目で水木を見ているなら、それは疑っているからだ。
水木に気を付けないといけない、無防備だと言われた事にカッとなって、人を疑って逃げてばかりの人生なんて送りたくないと、海風の言葉を突っぱねたのは数日前の出来事だった。
「…そういえば、今日はもう一人の可愛いボディーガードと一緒に帰るの?」
水木が話題を変えてくれたことに、灯は内心ホッとした。
このまま海風のことを考えていると、どんどん自分が落ち込んでしまいそうだ。
「たぶん…」
水木の言うもう一人のボディーガードというのは、先日会った小学生の女の子の事だ。
すっかり懐かれたようで、あれから『しおり』と名乗った少女は毎日帰り道で灯を待っているようだった。
毎日のように帰り道で一緒になり、近所まで帰っている。
2度ほど、水木と帰りが一緒になり、就職の資料を見に、水木の家に寄らないかと誘われたが、自分を待っていたであろうしおりを一人で帰らせる訳にもいかず、断っていた。
申し訳なさそうに灯が言うと、水木は苦笑した。
「じゃあ、僕は帰る……まだ明るいし、大丈夫だとは思うけど、気を付けて帰ってね」
水木は立ち上がると、ポンポンと灯の頭を撫でて、踵を返す。
灯は慌てて、その後ろ姿に、「さようなら」と声をかけた。
水木はその声に、ふと思い出したように、再び灯を振り返った
「それにしても、君は不思議な人だな。話していると、何だか素直な気持ちになって、……思わぬことまでしゃべってしまった」
水木の眼差しが優しく弧を描く。
そして、小さく首を竦めると、図書室を後にした。
灯は彼の様子が気になって、じっと遠ざかる後姿を見つめていた。
扉を開ける際にチラリと見えた水木の横顔は、何だか泣きそうに歪んで見えた。