5、仲たがい
翌日の昼休み。
誰もいない学校の屋上で、海風はほおっと長い溜息をついていた。
―――――あれから灯は口をきいてくれない。
いつも要領の良い筈の海風だったが、何故か灯相手だと、調子が狂い、うまくいかないのだ。
上目遣いに、はにかんだ笑顔で礼を言われ、なぜか頭に血が上ってしまった。
会話がマズい方向に進んでいるのは気がついていたのだが、柄になく冷静さを欠いてしまった。
いつものように適当に誤魔化せば良いとわかっていたのに、何故だか灯に嘘はつけなかった。
何故そんな心持ちになってしまうのか―――――自問自答してみるが分からない。
まだ妖かしを相手にしていた方が、勝手が分かる。
精神衛生上よっぽどましだと思う。
海風にとって、精神衛生上よろしくないことがもう1点。
それが目の前に繰り広げられている光景だ。
海風が今いる旧館の屋上からは、平行に並ぶ新館の教室の様子を見渡す事が出来る。
旧館の1、2階には職員室や特別教室などが並び、3階に3年生の教室がある。
目の前の新館は、1階に図書室や会議室、2階は1年生の教室、3階に2年生の教室となっている。
海風の位置からは2年A組、B組辺りの教室の様子がよくわかった。
校舎の端にある2年A組の窓際、前から5番目に座っていたヤツ―――水木志樹が、扉の近くで話し込んでいた男子学生に呼ばれ席を立つ。
扉の陰から、ひょっこり顔を覗かせているのは、灯だ。
水木が近づくと、ペコリと頭を下げて、灯が何かを差し出した。
たぶん昨日洗っていたハンカチだろう。
確か保健室で水木に借りたとか言っていたから……。
遠くて表情までは分からないが、きっとあのはにかむような笑顔を浮かべているのだろう。
「あの水木ってヤツなんか、誰がどう考えたって、怪しいやん。なんであんなに脳天気に人を信じられるかな―――――」
胸の奥が苛立つ。
なぜあんなに無防備なのか。
海風は表面上は人当たりの良い人物を装ってはいるが、基本的に人間は信用しない。
何事も疑ってかかる慎重さと生来の勘の良さのお陰で、今まで無事にやってこれたと自負している。
『……それより、灯ちゃんこそ、気ぃつけな。……ホント騙されやすい性格みたいやし…』と、思わず昨夜言ってしまったのは、単に胡散臭いサイトに灯がアクセスしているのを見咎めただけでなく、水木のような初対面の男にも全く警戒心を持たない灯にイライラしていたせいだった。
しかも、危険は去った訳ではないのに……。
灯が倒れたと知ったとき、海風は信じられなかった。
先週、灯に憑いていた妖かしを全て祓って、今までの経験から当分の間は大丈夫だと思っていたからだ。
しかも、保健室に灯を迎えに行ったとき、また灯から気を奪われた気配があった。
灯は衝突したショックで貧血でも起こしたのだと思い込んでいるようだが、海風の陰陽師としての勘は楽観できるものではないと告げていた。
自分の鼻先で、堂々と掠め取られたようなものである。
その事実は、海風のプライドを酷く傷つけるとともに、今度の敵が一筋縄ではいかないことを暗示していた。
真っ先に水木志樹を疑ったが、彼からは全く妖かしの気配は伺えなかった。
だが、気にくわないヤツだと海風は思う。
その水木を、灯がまるで命の恩人のように、深い信頼を寄せている様子も気にくわない。
「……ほんまに命の恩人なんは、俺だっちゅ―の」
なのに口も聞いてもらえない現実は納得いかないが、敵を油断させるには良いかもしれない。
再び灯が狙われるような予感はある。
それは確信と言って良いかもしれない。
今度は敵に遅れを取ることは許されない。
だから、打てる手は全て打っておく―――――。
* * * * *
その時。
海風に見られていることも知らず、灯は2年A組の教室の入り口で、水木志樹と和やかに話し込んでいた。
灯が借りていたハンカチを渡すと、水木は「ちょっと待っていて」と言って、自分の机からA4版のプリントの綴りを持ってきた。
「在宅でどんな仕事や資格があるか探しといてあげるって言ってたでしょう?」
パソコンで調べプリントアウトしたらしい資料だった。
数枚を重ね、左上をホッチキスで止めている。
保健室で灯が話したことを気にかけて、本当に調べてくれたのだ。
水木の親切が、本当に嬉しかった。
「資格って思った以上にたくさんあるものだね。吃驚したよ。君の参考になれば良いんだけど……」
「ありがとうございます。家に帰って、じっくり読みますね」
灯の感謝の言葉に、水木も照れたように微笑んだ。
「頑張ってね。君が仕事を持って、自立した生活を送れるようになったら、さぞかしご両親も安心して下さるだろうね」
「そうですね。両親には小さい頃から心配かけてばかりだったから……私が自分でちゃんと生きていけるようになったら、すごくびっくりして……でもとても喜んでくれると思います」
「いいね、そういう幸せなサプライズって。…いっそのことさ、ちゃんと資格を取って見通しがたつまで、家族に内緒にするのも面白いね。きっと後の嬉しい驚きが何倍にもなるよ」
水木を見上げる瞳がびっくりしたように丸くなる。
家族に内緒で何かをするなんて事は、灯には思いもつかないことだった。
だけど、それは悪いことではないはずだ。
「あ、そうですよね。前もって言っておいて、失敗しちゃったら、すごくがっかりさせるだろうし……。秘密にしておいて、後でびっくりさせるっていうのも何だかワクワクしちゃいますよね」
「うん。良ければ僕も応援するよ。僕の父親は教師だから、家にも色々参考にする本もあるし、相談にも乗れると思うよ」
「ありがとうございます」
その時、水木と同じクラスの生徒が教室に入ろうとして、二人は教室の出入り口を塞いでいることに気づいた。
邪魔にならないよう、非常階段に続く扉の横、廊下の行き止まりのスペースに場所を移す。
「…ところで、昨日君を保健室に迎えに来たのは、君の家族? それとも彼氏?」
「え?」
保健室に迎えに来たと言うのは、海風のことだろう。
「ぜんぜん!! 海風くんは家族でも彼氏でもないですよ」
「ふ~ん。そうなんだ。……じゃあ、彼は君のことを心配しているようだったけど…、彼にもあまり頼らない方が良いかもしれないね」
「え…?」
「だって、家族でも彼氏でもないなら、いずれ君から離れていく人でしょう? どうせ目の前からいなくなるような人だったら、最初からあてにしない方が良いよ」
いずれ君から離れていく―――――。
その通りだ。
海風は安倍家の跡取りで、いつまでも自分の側にはいられない。
灯の体調の目処がたてば、京都に帰っていくだろう。
それに灯は夕べの海風の言葉にも拘っていた。
『……それより、灯ちゃんこそ、気ぃつけな。……ホント騙されやすい性格みたいやし…』
海風は将来の夢もしっかり持って、それに向かって着実に歩いている。
ちょっと軽い部分もある海風だが、根本の部分で灯は海風を尊敬していた。
なのに自分はいつまでたっても、家族の庇護の元に、未来の展望もなく、毎日をようやく過ごしているような状態だ。
同級生なのに、君は世間知らずで幼いね、と。
灯には海風の言葉がそんな意味を含んでいるように聞こえたのだ。
灯は制服の上から、首にかけている水晶の勾玉にそっと手を添えた。
海風と対等に話せるようになりたい。
そのためには、自分にもせめて将来の見通しがほしい。
「そうですね。海風くんにも変に心配かけるより、内緒にしていた方が良いかもしれませんね……」
だけど……、
自分の未来に海風はいない。
だったら、初めから何も期待しない方が良いのかもしれない―――――。