4、優しい人
ぼんやり目を開けると、白い天井が目に入った。
「あ、気が付いた?」
その声に目を向けると、一人の男子生徒が心配そうな顔をして枕元に座っていた。
「ここは?」
「保健室だよ。ごめんね。急いでいたものだから、思いっきり君にぶつかってしまって。気を失ったときはホント焦ったよ」
男子生徒の話を聞いて、灯は自分が保健室で横になっている理由を納得した。
どうやら、また気を失ってしまったらしい。
海風に妖かしを祓ってもらって、気分も良くなって、すっかり普通の女の子に戻ったつもりだったが、少しぶつかったくらいで意識を失うなんて。以前と何も変わっていない。やはり自分は人に迷惑をかけてしまう存在なのだと、灯は落ち込んだ。
物心ついた時からずっと家族に負担を強いてきたと思う。
欠席がちだったため、友人もほとんどいない。
これまでも。そして、これからもたぶん―――――。
「こちらこそ、迷惑をかけてしまったようで……ごめんなさい…」
言ってる尻から、ポロポロと涙が溢れ出した。
「い、いや。君はなにも悪くなくて…僕が走ったりしてなければ……ホントごめん! どこか痛い? やっぱり病院に行った方が良いかな…」
「大丈夫…です。…気にしないで下さい。私、身体が弱くて、こんな風に気を失ったりするのも初めてじゃないんです。…私ったら、こんなふうにいつも周りに迷惑かけるばっかりで…って思ったら…何だかすごく悲しくなって…。どこか痛い訳じゃないですから…」
男子生徒はちょっと困った顔をして、ポケットから男物のハンカチを取り出すと、灯の手に握らした。
「僕は2年A組の水木志樹。…君の名前は?」
「…1-Cの八神灯です」
「僕は…八神さんに迷惑をかけられたなんて、これっぽっちも思ってないよ。僕の不注意で君に嫌な思いをさせてしまったようだね。本当に申し訳ない」
「でも」
「…君が思うほど…周りもきっと迷惑だなんて思ってないよ。君が困っていて、自分が助けてあげられるなら、むしろ…周りは嬉しいと思うんじゃないかな。…僕なら、そう思う」
「え」
目頭にハンカチを押し当てて、顔を上げると、うっすらと頬を染めた水木が目に入った。
自分を元気づけてようとしているのだろう。
優しい人のなだと、灯は思った。
「ありがとうございます」
灯は感謝を込めて、軽く微笑んだ。初対面のはずなのに、先輩のはずなのに、何だかとても気さくで話しやすい雰囲気だった。
「実はすっかり良くなったと…治ったと思っていたんです。両親にもこれからはあまり心配をかけなくてすむって思っていたのに、そうでなかったとわかって……ショックだったんです、きっと。これからの事を考えたら…すごく不安になってしまって」
海風もいつまでも自分の側に引き留めていくわけにもいかないだろう。
なまじ海風のお陰で、『普通』の状態がどのようなものか知ってしまっただけに、海風がいなくなって、以前の辛い体調に戻ることを考えると絶望的な気分になった。
そんな灯の言葉に、水木は言葉を選びながら慎重に返事をする。
「まだ君は高1だし、両親の世話になるのは当たり前だと思うけど……でも、君が気にするなら、資格とか取ってみたら?」
「資格?」
「僕も詳しくはないけど、パソコンとか翻訳とか在宅でもできる仕事もあるだろ? 在学中に必要な資格を取れば、卒業しても家で仕事ができるんじゃないかな。在宅の仕事なら多少は体調も気遣いながらできるだろうし、何より収入ができたら家族に気兼ねすることもないだろうし」
「収入って……お金をいただけるってことですか?」
「そりゃ、仕事をすれば見合った給料がもらえるだろ? うまく軌道に乗れば、自立することだってできるかもしれないし…」
「自立―――――」
灯にとっては考えたこともない、夢のような言葉だった。
家族に迷惑をかけなくても、海風に頼らなくても、生きていく道があるかもしれない。
「やっと、笑ったね」
水木が灯の顔を見て、ニコリと笑った。
「…ありがとうございます、水木先輩。お陰で一気に世界が明るくなったみたいです。私、そんなこと、思いつきもしなかったから」
「そっか。…在宅でどんな仕事や資格があるのか、僕もまた調べておくよ」
「ありがとうございます」
「もう、大丈夫? また倒れてもいけないから、君の家まで送っていくよ」
そこまで迷惑をかけられないと灯が断ろうとした時だった。
「おーきに、先輩。でも、大丈夫です。灯ちゃんは俺が送って行くことになってるさかい」
保健室の入り口を入ったところに、いつからそこにいたのか。
こちらを睨むように立っていたのは、自分と灯の二人分の鞄を持った海風だった。
* * * * *
帰宅後、私服に着替えると、灯はパソコンを立ち上げた。
検索をかけると、水木志樹が言っていたように在宅の仕事も色々あることがわかる。
文字入力とかホームページ制作などパソコンに関係するものが多いが、イラストレーター・翻訳・テープ起こし等というものもある。
在宅でのお仕事というのは需要も供給もあるのか、かなりの数のホームページがあるようだ。
いくつか目を通したが、かなり明るい見通しを感じて、灯は頬が緩んだ。
だが―――――。
ふと気掛かりなことを一つ思い出して、灯の思考が揺れる。
いつも明るく剽軽だった海風が、保健室に迎えに来てくれた以降、ひどく不機嫌な様子だったのだ。
帰り道、気を失った前後の様子について、海風に尋ねられた。
あの時は校舎の向こうから誰かが走ってくる足音が聞こえて、次の瞬間にはぶつかっていたんだった。 相手を見ようとしたら…何かが額に触れて…そうしたら気が遠くなって……気が付いたら、保健室にいて、水木先輩が運んでくれたことを知ったのだった。
悲しくて、情けなくて、涙が止まらなくなって………。
一つ一つ思い出しながら、海風に説明した。するとみるみる海風の表情が硬くなっていったのだ。
いつも海風が饒舌なため、灯は彼の話に相づちを打つだけで話は弾んだ。
その彼が突然無口になったため、その後はほとんど会話らしい会話が成立しなかった。
何か彼を怒らせるようなことを言ったのだろうか。
それとも、単に彼の虫の居所が悪かったのか―――――。
まだ海風と知り合って、数日である。
表面的に彼が明るく剽軽であっても、真の彼がどんな人かはわからない。
今日もクラスメイトに「前の学校で色々辛いことがあって」なんて言っていたし……。
ぼんやりと考えていると、コンコンとノックの音がした。
「は、はい!」と返事をするやいなや、「入るで」と声がして、ドアの間から当の海風が顔を見せた。
「叔母さんが夕食やってなんぼ声かけても返事がないから、また具合が悪なったんやないかと思てんけど。大丈夫?」
「え、うん。もう大丈夫です……」
あまりにパソコンと自分の思考に熱中していたため、母親の声に気づかなかったらしい。
良かった、いつもの海風だ。
どうやら、自分に対して怒っていたわけではなかったようだ。
「……良かった。帰り道、海風君が全然しゃべってくれないから、何か怒らせるようなことをしたのかな、って考えてたんです」
「え!? ああ、考え事。ちょっと納得できん事があったし、何かイライラしてたさかい……。でも、灯ちゃんは悪ぅない。……心配させたんやったら、ごめんな」
海風が笑ってくれるから、灯も自然と笑みが浮かんだ。
「……ところで、ちょっと手、出してくれる?」
言われて出した掌に、何かが置かれた。
透明な無色の石でできた勾玉。
そのペンダントトップに細い革ひもがついている。
「これ……お守りやさかい。この水晶の勾玉には破邪の力がある。俺が物心ついた頃、母が俺にくれたもんや。これ、着けといて。灯ちゃんのこと、守ってくれると思う」
「まだ……何か、危険なことでもあるんですか?」
「…念のためや。でも、俺が良いって言うまでは、絶対離さんといて。俺も24時間、灯ちゃんの側におれるわけやないし」
海風はそう言って、水晶を灯の首にかけると、首の後ろできゅっと紐を縛った。
5cmくらいの水晶の勾玉を指で弄ぶと、ヒヤリとした感触が清冽な気を放っている。
「でも、お守りって…私が持っていて、海風くんは大丈夫なんですか? 手放したりしたらお母様もご心配なさるんじゃ……」
「俺は灯ちゃんを守るために、ここにおるんやで。そやったら、色々手段を講じて、万全を期すべきやろ? 自分の身は自分で守れる」
面と向かって「守る」と言われ、灯の頬がカッと熱を持つ。
俯いて、だけどそっと上目遣いに海風を見上げて、礼を言った。
「ありがとう…。じゃあ、お預かりしておきますね」
海風も不意打ちを食らったように顔を赤くし、頷いた。
急に停滞した空気を振り切るように部屋を見回し、ふとクローゼットの外に掛けられていた灯の制服に目をやった。
「灯ちゃんの学校のブレザーも可愛いなぁ。チェックのスカートも、柄といい、短めの丈といい、めっちゃナイスや。俺んとこは昔から変わらず、男子は紺の詰め襟、女子は膝丈セーラー服やから、なんや新鮮な感じがするなぁ」
焦ったように話題を変えた。
気詰まりな抗しがたい雰囲気を打破するためには、何か他のことを話し続けないといけないような気がした。
手持ちぶさたな様子で、灯の制服のリボンにそっと触り、肩の辺りを軽く手で叩く。
「…なんか海風くん、思考がおじさんみたい―――――」
海風の言葉に、明らかに灯はむっとした表情をした。
どうやら話題の転換には失敗したようだ。
「おじさんって…。別に健全な男子高校生としては、普通の思考やと思うけど? 可愛い制服やったら、着てる子も可愛く見えてええやん?」
「…そう言えば、今日は休み時間の度に、可愛い子に囲まれてて……海風くん、すっごく楽しそうでしたね!」
「俺、別に喜んでいた訳じゃないし。どっちかってゆうと、休み時間の度につきまとわれてウザかった。けど、転校生がいきなり愛想のない態度取るわけにもいかんやろ?」
転校生が愛想のない態度を取れないという言い分は分かる。
だが、どう見ても海風の態度には「ウザい」気分は感じられなかった。
だから、邪魔したら悪いような気がして、灯は話しかけるのを遠慮したのだ。
「その割には、プライベートなこと…前の学校の悩みなんかもペラペラとしゃべっていたじゃないですか」
「へ? そんな話、しとったかなぁ」
本当に覚えてないのか、眉間に皺を寄せ「う~ん」と考え込んでいる海風の顔を、灯が覗き込む。
「ほら、『一家で俺だけが、叔父宅に世話になることになって。まあ、前の学校で色々辛いことがあってな』って……」
そうなのだ。『辛いことがあって』なんて海風が言うものだから、端で聞いていた灯も心配してしまったのだ。
「―――――ああ、あれな。…あれは嘘」
「え? 嘘?」
「うん。別に辛いことなんかなかったけど、ああ言っておけば、みんな、それ以上人のプライバシーには干渉してこんやろ? なんや、本気にしたん? 第一灯ちゃんのお父さんが俺の叔父さんじゃないことは、灯ちゃんが一番よう知ってるやん」
「で、でも、あんな言い方したら、きっとみんな信じたと思いますよ。ダメです。人を騙すようなこと、言っちゃ…」
「嘘は方便ってゆうやん。円滑な人間関係維持のためには必要不可欠なもんや。……ひょっとしたら…まともに受け取って嫉妬した?」
「嫉妬って…そ、そんな訳ないじゃないですか!」
灯は、海風にずっと話しかけられないことを寂しいと思ってはいた。
自分に話してくれなかったプライベートなことを、知り合ったばかりの女の子に話しているのを見て、何だか嫌だと感じたことも事実だ。
だけど、それを『嫉妬』なんて軽薄な言葉で追いやられて、灯はムッとした。
前の学校で何か良くないことがあったのかと心配していたのに、それが嘘だったこと、しかも海風が全く良心の呵責を感じてない事も心証を悪くしたに違いない。
だけど、灯の中で、何かがブチッと切れたのを感じたのは、次の言葉を聞いたときだった。
「……それより、灯ちゃんこそ、気ぃつけな。……ホント騙されやすい性格みたいやし…」
海風の視線は勉強机の上のパソコンに向けられている。
パソコンの画面には『在宅でパソコン初心者でも楽に稼げる 私はこうして年収一千万円を稼いだ』という文字が躍っていた。