2、不思議な力を持つ少年
「…だから、俺が悪かったって! そやけど、今時のジョシコーセーやろ? しかも、東京のジョシコーセーやねんで。関西のんより進んどる思うやん。キスごときで意識飛ばすなんて、ありえへんやろ?……こんなん、想定外やって……ん、じゃあ、おまえはどうしたら良かったって言うんや? ―――あーっ、もう!煩いなぁ!!」
ブツブツ呟く声に、灯は目覚めた。
そっと目を開けると、自分の部屋の見慣れた天井が見える。
そのまま視線をずらすと、海風が灯の勉強机の椅子に跨りながら―――背凭れを前にして、その上で頬杖をつきながら、前方の空間を見据え、小さな声で話す姿が見えた。
彼の他には誰もいない。
「…誰と話してるんですか?」
灯が小さな声で話しかけると、ハッと驚いた顔をした海風が振り向いた。
「目、覚めたか? どうや、気分は?」
まだ、頭は霧がかかったようにぼんやりしたが、気分は―――すこぶる良い。
しかも、どういうわけか生れてこの方感じた事がないほど、気分は良かった。
だけど、質問に答えてくれない海風の質問に答える気持ちはなかった。
じっと黙っていると、海風も気がついたようで、決まりの悪そうな表情で、
「……こちらは…う~ん、素人さんには見えないだろうし、信じられんと…思うねんけど、紫苑って言います。俺の式神」
と、目の前の空間を指差し、見えない誰かを紹介した。
灯は軽く頷くと、少しベッドから身体を起こし、指差された辺りに視線を向けた。
「はじめまして、紫苑さん」
灯の口から発せられた言葉に、海風が目を見張る。
彼が指差していた、今まで何もなかった空間には、いつのまにか、鮮やかな紫色をした美しい蝶が1羽スッと現われ、灯の部屋の中をヒラヒラ飛びはじめた。
「へーぇ、珍しい。紫苑が顕現するなんて。よっぽど灯ちゃんが気に入ったんやな。ま、さっきもえらい灯ちゃんの肩持ってたもんな。……灯ちゃん、紫苑がよろしゅうにってゆうてるわ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
律儀に蝶に向かってペコリと頭を下げる灯を、海風は心底びっくりしたような表情で見つめた。
「ホンマ、灯ちゃんって変わってんなぁ。普通の人間やったら、こんな摩訶不思議なことに出会ったら、パニくるか、拒否するか、どっちかやねんけど。…灯ちゃんみたいな反応は初めてや」
「私の知りあいにも不思議な力を持つ人がいるから…。たぶん免疫があるんだと思う」
「ああ、お母さんが壬生の出身なんやったなぁ」
灯の母親は京都の壬生家という旧家の出身だった。
壬生家にも、時々海風のような能力者が現われる。
現当主である灯の叔父も普通の人には見えないものを見る力を持っていると聞いている。
亡くなった灯の祖母などは百年に一度というくらいの特に強い力を持つ能力者だったらしい。
祖母が亡くなったのは灯がまだ幼い頃だったから、灯には祖母の記憶がほとんどない。
だが、海風の持つ明るく大らかな雰囲気は、なぜか馴染みのあるような不思議な気持ちにさせた。
『―――キスごときで意識飛ばすなんて、ありえへんやろ?』
ふと、先ほど耳にした海風の言葉を反芻する。
そして、意識を失う前に、唇に感じた初めての感触を思い出す。
今まで、男の子に告白されたり、付き合って欲しいと言われた事は何度かあった。
同級生の友達から一方的に聞かされる彼氏の惚気話に、正直、全く羨ましくないと言えば嘘になる。
だが、灯自身は学校へ通うことだけで精一杯であったため、いつも断ってばかりだった。
男の子と親しく話した記憶もあまりない。
あんなに近くで抱きかかえられたり、ましてキスなんて――――。
そこまで考えて、灯は自分の唇にそっと指先を触れさせた。
徐々に頬が熱を帯びてくる。
その仕種から、灯の思考を読んだ海風が、慌てて灯に声をかけた。
「あ、あれは事故みたいなもんやから。気にしたらあかんで。…そう―――、ゆうたら人工呼吸みたいなもんや」
「…人工呼吸?」
「灯ちゃんって幼い頃から、原因不明の虚弱体質とか言われてたやろ? それって、結局、雑鬼や悪鬼って呼ばれてる普通の人間の目には見えない〈妖かし〉に憑かれてたのが原因やったわけ。あの時、灯ちゃんはヤツらに〈気〉を奪われて、めっちゃしんどい状態やったから、手っ取り早く、俺の〈気〉を灯ちゃんに分けたったって訳や」
「そうなんですか。…じゃあ、あの時私に憑いていたという妖かしは…?」
「ああ、それはもう、あの時払ったから大丈夫」
海風の話は一見途方もないようだが、なるほどと納得がいく部分も多い。
登校途中の歩道橋の出来事―――。
急に身体の自由がきかなくなったのは〈妖かし〉に操られていたせいだったのか。
あの時自分には不思議な力に抗う術は何一つなかった。もし海風が来てくれなかったら…きっと今頃、自分は生きてはいなかっただろうと灯は思う。
「…ありがとう」
「へ? なんでお礼なん?」
「だって、海風くんが来てくれなかったら、私、きっと無事ではなかったと思う。なのに、私、ちゃんとお礼を言ってなかったから……」
ふわりと微笑む灯に、海風は照れたように視線をはずし、ポリポリと髪を掻いた。
「ああ、良かった…。実は…目、覚めて、泣かれたらどうしようかって思っててん。灯ちゃん、なんか……初めてっぽかったし」
海風の言う通り、灯にとって、他人と唇を触れ合わせるなど初めての体験だった。
もちろん、灯も少女らしく、ファーストキスは好きな人となどと、ロマンチックな夢を持っていた。
だけど、灯を救うためだったのだ。ここで海風を困らせてどうなると言うんだろう。
灯は自分自身に言い聞かせた。
頬を染め俯きながら、「大丈夫です。緊急事態だった訳ですから…」と灯は口篭もる。海風も少し赤い顔をして、しかし明らかにホッとしたような顔をした。
「礼なんて言わんでええよ。…壬生のじいさんから、その分しっかりお礼頂くつもりやから。…俺、実は灯ちゃんのこと、壬生のじいさんに頼まれてるんや。じいさんには恩もあるし、な」
「…壬生のおじいさまに?」
『壬生のおじいさま』というのは灯の母方の祖父である。
100年に1度の才と言われた祖母の婿養子であったが、祖父自身には霊力は全くない。
息子である叔父に家督を譲って、自身は隠居の身であるが、豪胆でしかも公平な人柄なので人望も厚く、今でも壬生家の中では絶対の影響力を持っている。
「う~ん、おじいさまって柄ちゃうけどなぁ…まあ、ええか。最近、灯ちゃんの体調、ますます悪ぅなってたやろ? そやから、灯ちゃんのお母さんが心配して、壬生のじいさんに相談したみたいや。で、俺に白羽の矢が立ったってわけ。……そやけど、壬生の血を引いてるのに、お母さんにも、灯ちゃんにも全く力がないみたいやな。…まぁ、その方が良かったって思うけど」
「……どうしてですか?」
「知らぬが仏とは良く言ったもんやなぁ。灯ちゃんの場合…そりゃ、俺もいろんな事例を見てきたけど、これほど一人の人間に妖かしがウジャウジャ・グチャグチャ取りついてるん見たんは初めてや。それがもし自分の目で見えてたとしたら……ッ痛ってぇ~!! おい、何すんだよ、紫苑!!」
からかうように室内をヒラヒラ飛びまわる蝶に、海風は本気で怒っている。
どうやら紫苑に、何か攻撃を受けたらしい。
陰陽の力を持つものにとって、〈式〉は下僕のような存在のはずだ。
なのに、式である紫苑は海風を全く主人扱いしていないように見える。
2人の間には遠慮がないようだ。
海風自身も紫苑を家族か友人のように扱っているように見える。
海風の真剣に紫苑を追いかける様子を見て、思わず灯はプッと吹き出してしまった。
クスクスと笑いが止まらない灯を、動きを止めた海風が決まりが悪そうな顔で見つめる。
「今も紫苑のヤツに『タフそうな大人の男でも、妖かしの話なんかすると、気味が悪くて、何も食われへんようなったり、寝られへんようなったりするのに、女の子にはもっと気を使え』って…言われててんけど。そんな心配することもないやんな?・・・・・・」
確かに『ウジャウジャ・グチャグチャ』と訳のわからないものに取りつかれていたと言われては、灯も良い気持ちはしないが―――。
「はい。…確かに私には妖かしとか見えないけど……でも、海風くんが払ってくれたんでしょ? もう安心していいんですよね?」
「ま…ぁ、な」
「私…おかげで今、本当に身体が楽になったんです。…今まで、一度で良いから体育の授業にちゃんと出たいなぁとか、クラブ活動もしてみたいなぁとか。ずっと諦めていたんですけど…。この調子だったら、なんだか大丈夫な気がします」
「…俺やったら体育とかサボれてラッキーとか思うけど、灯ちゃんって真面目なんやなぁ…。う~ん…ところでその件やねんけど、ちょっと問題点もあるんや…」
海風は小さくため息をつくと、灯が身を起こしているベッドの縁にドサリと腰を下ろした。
そして、灯の瞳をじっと見ながら、言いにくそうに言葉を紡いだ。
「うん。今は俺が傍にいるから、妖かしも近寄ってけぇへんねんけど、俺が離れたら…たぶん元の木阿弥って言うか…」
「海風くんがいなくなったら…またウジャウジャ・グチャグチャ状態になっちゃうって事ですか?」
「う…ん。俺程度の陰陽の力を持った者が傍におらんと…そうなるかもやなぁ」
海風の力が非凡であることは、灯にも察することができた。
壬生家の者も見落とした妖かしに気づいて、一瞬のうちに払ったのだ。
海風の力に匹敵する力を持つものなど、日本中を捜しても片手に余るだろう。
ということは、まだ高校生の海風を始終自分と一緒にいるよう縛り付けるということだ。
そんなことは無理だろう。
「…そうですか」
さっきまで希望ではちきれそうだったのに、一瞬で絶望の底に沈みこんだような心地だ。
力なく目を伏せた灯の頬に、海風はそっと手を伸ばす。
「そんな顔しな。灯ちゃんは、さっきみたいに笑顔の方が絶対ええわ。俺、気になることもあるし、まだしばらくはこっちにおるさかい。そやから、元気出しぃや。…そのうち、なんかええ考えも浮かぶやろと思う。…俺の予感はよう当たんねん」
海風がニカッと笑う。
海風の言葉と頬に触れるその手の暖かさに、灯は不思議と心が落ち着いてくるのを感じた。
「うん、そうですね。…紫苑さんも気を使って下さって、ありがとうございます」
部屋の中をヒラヒラ舞っていた紫色の蝶が、導かれるように灯の肩にふわりととまる。
一瞬、不意を突かれて、驚いた表情を浮かべた海風だったが、クスッと笑って、ふと漏らした小さな声は灯には届かなかった。
「なんか気に入ったわ。…ホンマ、壬生のじいさんから話があった時は、正直、気が乗らへんかったんやけど、―――楽しくなりそうや」