13、迷い
「海風くん、まだ顔色が悪いわ。今日は学校へ行くのはダメよ。灯のことを心配してくれる気持ちは嬉しいけど、あなたに何かあっては元も子もないわ。安倍家に対しての責任もあります」
翌朝、登校の用意をしてダイニングに現れた海風の顔を見るなり、灯の母親はそう宣言した。
「俺のことやったら心配要りません。自分の体のことは自分が一番分かってますから」
「昨日退院したばかりで、無理をさせるわけにはいかないわ」
「……じゃあ、灯ちゃんも休むんやったら。敵がどう動くかわからんのに、今灯ちゃんと離れる訳にはいきません」
同時に海風と母親の視線を受けて、テーブルで食パンを食べていた灯は、思わず喉が詰まりそうになった。
「でも、今日休むわけにはいかないよ。ただでさえ欠席が多いし、今日は休めない授業もあるし」
それに、勾玉のお守りを探さなきゃいけないし、水木先輩の様子を確認しなくてはいけないし。
灯は、心の中でそっと付け足した。
やはり今日は休む訳にはいかない。
「せやけど、また命を狙われたらどないすんの?」
「その時はその時。こんな体質に生まれてきて、今までだって危ない目にあったことは何度かあるもん。今さら、くよくよ心配しても仕方ないでしょ?」
「でも―――――」
灯は海風から母親に視線を移した。
「おかあさん、ずっと逃げてばかりはいられない。いつまでも海風くんに頼ってばかりはいられないでしょ?……海風くんはいずれ京都に帰らなきゃいけないんだから。だったら、私は体調の良い時はできるだけ学校に行きたい―――――」
「え?」
灯の言葉は海風にとって不意打ちだった。
そうだ。自分はいずれ京都に帰る。この事件が終わったら。
今までじっくり考えた事などなかったが、それは避けられない事実だった。
灯と離れ、気がかりな気持ちを抱えたまま、帰らなければならないのだ、安倍の本家、あの闇の中へ。
「後悔したくないもん。どうせ今の危険から逃れても、またいつ危険な目に会うかわからない。だったら、海風くんがいるうちに私自身がちょっとでも強くならなくちゃ」
「そりゃあ、いつまでもうちに海風くんを引き止める訳にはいかないし、灯の気持ちも分かるけど。……でも、無茶はさせたくないわ」
海風は灯の隣に座ると、テーブルに用意された朝食に手をつけた。
コーヒーを一口飲んで、灯に向き合った。
「ほんなら、灯ちゃん、二つ約束してくれる? 一つは登下校、紫苑を傍に置くこと」
「う、うん。わかった」
「それから―――――」
海風は灯の髪を一房手に取ると、小さな声で真言を唱えながら、自分の額に押し当てる。
海風の柔らかな前髪が灯の頬を掠めて、その近さにトクンと灯の鼓動が跳ね上がった。
「……万一、危険な目に陥ったら、その時は俺の名を呼んで。―――――」
「海風くんの名前を呼ぶ? そしたら、どうなるの?」
「俺の名を呼んだら……いつでも、どこにいても、きっと俺の持つ陰陽の技を全て駆使して、灯ちゃんを守る。そやから、忘れんといて、絶対に」
反射的に灯はふるふると首を振った。
「でも、海風くん……一昨日も危ない目にあったのに……私、これ以上私のせいで海風くんに危険な目にはあってほしくない」
「『私のせい』だけとちゃう。これは俺の自尊心の問題でもあるんや。俺は一度人生で掛替えないと思っているものを奪われた。もう二度と繰り返しとうない。……灯ちゃんをちゃんと守れたら……きっと俺も、もう一度頑張れる気がするんや」
二カッと笑って、瞳を覗き込まれると、それ以上何も言えない。
「うん。……ありがと」
それが海風の本心なのか、灯を気遣っての言葉なのかは分からない。
でも、自分に対する温かな気持ちを感じて、灯はふわっと笑みを返した。
海風はそんな灯の様子を見つめながら、ちょっと意地悪そうな表情をした。
「ほな、ちょっと練習してみよか」
「え? 練習?」
「そ。急に名前呼ぼうとしても、ど忘れしたりしたらあかんやろ?」
海風の意図を図りかねて、灯は目を瞠った。
「海風くん……でしょ? 忘れたりしないよ」
「『くん』はいらへんよ。海風でええ」
「そんな……呼び捨てなんてできないよ。なんか……失礼だし」
「失礼なことなんてあらへん。むしろ……身近に感じられて嬉しいわ。それに、俺の真名は海風。余計なもの付けて、術がちゃんと発動しなかったら困るやろ?」
「術が発動しないなんて事があるの?」
「うん。そやから、ちゃんと呼んでみてえな。海風って」
「・・・み、みか・・・ぜ」
急に、顔に体の血液が集中するような気がした。
恥ずかしい。
「そう。ほら、もっぺん言ってみ? 海風って」
「み、海風」
「なんか、気持ちこもってないなぁ。もっぺんやり直し」
海風、海風、海風・・・。
そんなふうに何回か言わされているうちに、だんだん慣れてきた。
「その調子。忘れんといてな。灯―――――」
海風はずるいと、灯は思う。
こんな風に、突然隙をすいてくる。
急に呼び捨てにされて、さらにこれ以上ないくらい真っ赤になってしまった顔を見られたくなくて、灯は俯いた。
* * * * *
―――――どうしよう……。
学校に到着し、下足室で上靴に履き替えながら、灯は途方に暮れていた。
海風との約束どおり紫苑を伴って、少し早めに家を出て、道中、無くした水晶のお守りを探した。
ひょっとしたら帰り道で落としたのかもしれない。
公園までの道を、丁寧に探したがお守りは見当たらなかった。
水晶の御守りを、灯は今までそれこそ肌身離さず、お風呂の中まで外さず、大切に持っていた。
退院した後も、海風に付き添って病院から家に戻り、軽くシャワーをしたときには確かに身につけていた記憶がある。
それから詩織の事が気掛かりで、公園に出かけた。
水木小夜に会い、海風と一緒に自宅に戻り、部屋着に着替えようとして紛失していることに気がついたのだ。
念のために、公園近くにある交番で拾得物がなかったか尋ねてもみた。
そんな届け物はなかったけど、警察署にも尋ねておくよと年配のお巡りさんに言われ、素直に遺失物の書類を書いたが、あまり期待できないような雰囲気だった。
家にもなく、家から公園までの道中にもなかったとすると……ふと、灯の脳裏に水木小夜の冷たい笑顔が浮かんだ。
……ひょっとしたら、彼女が知っているかもしれない。
大きな溜息をつきそうになって、灯はふと周りを伺った。
学校に到着する前、紫苑はいつの間にか姿を消していた。
小学生の姿の紫苑が、高校の構内に入るのは不自然だろう。
だけど、灯に見えないからといって、そこに紫苑がいないとは限らない。
初対面のとき、海風は姿の見えない紫苑と灯の前で会話していたではないか。
紫苑に心配させるような様子を見せたら、きっとその主である海風にも伝わるだろう。
せっかく二人の間の溝が埋まって、対等に親しく話すことができるようになったのに、その関係を崩すようなことはしたくなかった。
心配をかけたくない。
呆れられたくない。
一昨日自分を助けようとして、怪我を負った海風の姿が脳裏から離れない。
いくら呼びかけてもなかなか意識を取り戻さない海風を抱きかかえてた。
裂傷からの血で両手が赤く染まる。
ひょっとしたらこのまま死んでしまうのではないかと。
あの時の恐怖。絶望。
もう二度と味わいたくなかった。
危ないときは、必ず海風の名を呼ぶと約束したけれど、
彼の名前を呼ぶ練習までしたけれど、
だけど、海風を失うくらいなら、
あの笑顔を二度と見られないくらいなら、
自分が失われた方がずっと楽な気がする―――――。
始業のチャイムまでは、あと10分もなかったが、灯はそのまま2年生の教室棟にでかけた。
もう一つの気がかりをはっきりさせるために。
水木志樹の安否を確認するだけなら十分だろう。
「ああ、水木? あいつ、ここ数日欠席してるよ。担任は風邪だとか言ってたけど。今日もまた休みじゃないのかなぁ。いつも早いのに、まだ来ていないみたいだし」
ちょうど教室のドア近くにいた男子生徒に水木のことを尋ねると、すんなり彼の不在を教えてくれた。
風邪だという連絡も本当かどうか疑わしいものだ。
小夜は水木が灯を庇うような物言いをしたため、『あのお方』が激怒したと言っていた。
『あのお方』が誰なのかは分からないが、その人物を崇拝しているらしい小夜の様子は異常を通り越して、怖れを感じたほどだった。
何か理解しがたい大変なことが水木に起こっているような気がした。
ひょっとしたら、水木は今、自由のない環境にあるのかもしれない。
酷い目に合ってなかったら良いけどと、灯は思った。
「あの……。水木先輩の家、ご存じでないでしょうか?」
「家? ああ、確か―――――」
人の良さそうな男子生徒はちょっと考える様子をしたが、
「ほら。隣町の高台に古びた西洋館があるの知ってる? 何でも昔、なんとかの公爵のお屋敷だったそうで、水木の両親が骨董好きでさ、確かこの春に、その屋敷に一家で引っ越したとか言ってたなぁ」
と、教えてくれた。
隣町の高台にある古びた西洋館なら、この辺りに住む者なら、誰でも知っている。
もう何十年も空き家になっていて、子どもの間では「お化け屋敷」などと呼ばれている廃れた屋敷だ。
『 近いうち、あなたはきっと来ることになるわ。
それも一人で……でないと大事な人を失うことになるわ―――――』
小夜の言葉を思い出す。
『大事な人』というのは、水木志樹を指すのか、それとも―――――海風?
灯は男子学生にお礼を言うと、その足で保健室に行き、気分が悪いからと虚偽の申告をして、帰宅の手続きをとると、学校を後にした。