12、謎の少女
海風が灯の異変に気付く少し前のこと―――。
こっそり家を抜け出した灯は、いつもしおりと出会う公園に向かっていた。
今からだとちょうど下校時だ。
公園をちょっと覗いて、しおりがいなければそれでいい。
まっすぐ帰ってくれば良いのだ。
怪我をして弱っている海風を煩わせるまでもない。
息を切らせて、公園にたどり着き、ぐるりと辺りを見回したが、人の姿はなかった。
誰もいない滑り台やブランコを眺め、ホッと笑顔が漏れる。
その時、不意にかけられた声にビクリとした。
「八神灯さん…でしょう?」
振り向くと黒いストレートヘアを背中まで流し、美少女としか形容できない少女が微笑んでいた。
白いセーラー服はお嬢様学校で有名な女子校の制服だ。
ただもう初夏といって良いくらいの陽気なのに、少女が着ているのは長袖の冬服で、白い手袋まではめている。
不思議なことに、汗一つかいていない。
「私は水木小夜。兄から聞いて…あなたの事はよく知っています」
くすりと笑いながら、小夜は灯に一歩一歩ゆっくり近づいて来る
「兄から? ひょっとしたら…水木先輩の妹さん?」
「ええ。不肖の兄がいつもお世話になってるそうですね。お願いしていたのに…兄ったら、ちっともあなたを家に連れてきてくれないんですもの。……一度ゆっくりお話ししたいと思っていましたのに」
灯は小夜の顔から視線を外せなかった。
黒目がちの大きな瞳に、ピンクのふっくらとした唇。
芸能人だと言われても納得してしまうような整った顔に終始笑みが浮かんでいるが、灯は思わず後ずさりたくなった。
「『不肖の』って、そんなことないです。…水木先輩はしっかりしているし、優しいし。私が妹なら、自慢のお兄さんだと思うけど」
「あの人は…中途半端に甘いの。あのお方のおっしゃることだけ、守っていれば良いのに。変にあなたの肩を持ったりするから、ご不興を買ったりするんだわ」
「……甘いって…ご不興を買うってどういうこと?」
小夜の言葉の意味が分からない。
灯が金縛りにあったように、呆然と動けないでいるうちに、小夜は手を伸ばせば触れられるくらいの距離まで近づいてきた。
「兄のことなんか気にしなくて良いの。あなたも私も、あのお方に見いだしていただいた、選ばれた人間なのよ。私の身も心も、あのお方のもの。私は、あのお方に私の全てを捧げられるのが幸せで仕方がないの。あなたにもすぐに私の気持ちが分かるようになるわ―――」
小夜の瞳に魅入られたように視線を逸らせられない。
小夜の言葉がまるで意味の分からない呪文であったかのように、思考がボウッとして何も考えられなくなる。
小夜の顔が近づく。
肩に手の重み。
吐息が肌に触れる。
「ちょっと味見させてね」
そんな声が聞こえた次の瞬間、灯は唇に熱を感じた。
―――――キスをされている。それも、女の人に。
驚愕に目を瞠る。
身体が竦んで動けない。
だが、小夜は軽く触れただけで、すぐに唇を離し、「甘いわ」と言ってクスリと笑うと、自分の唇をペロリと舌で舐めた。
それから冷たい小柄な手で、灯の手をギュッと握った。
「ね、今から私の家に行きましょうよ。あのお方も待っていらっしゃるわ。あなたもきっと喜んでくれるはずよ」
「―――いいえ!!」
手を振りほどこうとしてもほどけない。
目の前の少女は、穏やかな水木志樹と兄妹とはとても思えなかった。
きれいには違いないが、普通ではない。
ただただ怖い―――そんな感情に身が竦んだ。
「今日はすぐに帰らないといけないの。待ってるかもしれないと心配してた人もいないし、…とにかく今日は帰るわ」
「ダメよ。日が経てば経つほど、邪魔が入る。あのお方はそんなに気が長くないの」
「―――あのお方って?」
「素晴らしい方よ。あのお方の役にたてるなんて、あなたって本当に幸せよ」
小夜の無邪気そうな笑顔に、ゾクッと背中を冷たい汗が滑り落ちた。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
「嫌っ。今日は帰りたいの。また日を改めて、お邪魔するわ」
「あら、あなたに拒否権はないのよ。それに私の兄が少しでも哀れだと思うなら、いらっしゃらないと後悔することになるわ」
「水木先輩が…哀れって、どういうこと?」
「兄ったら、身の程知らずにも、あなたを見逃してくれるようにって、あのお方に懇願したの。もちろん、あのお方はお怒りになったわ。あなたのせいで―――」
水木とは、昨日の昼休み、学校の図書館で会ったのが最後だ。
彼はしきりに妹のことを心配していた。
何か思い詰めているような、いつもと違った様子だった。
『まだ明るいし、大丈夫だとは思うけど…気を付けて帰ってね―――――』
そう灯に労りの言葉をかけながら、なぜか泣きそうな顔をしていた。
あの後、灯と海風が襲われたように、水木の身にも何事か起こったのだろうか。
グイッと手を引かれて、灯は大きくよろめいた。
捕まれた手から、徐々に体温が奪われていくような気がする。
だんだん考えることが億劫になっていく。
ね。だからあなたは来なければならないわ。あなたが来れば、あのお方もきっと兄を許すでしょうし、あなたにとっても名誉なことだもの……」
その時、パシンと乾いた音と共に、第三者によって手が振りほどかれた。
小柄な人影が小夜と灯の間に割って入る。
「…しおりちゃん―――――」
灯が恐怖に竦んだ相手を、しおりは臆せず睨みつけていた。
「おねえちゃん…だいじょうぶ?」
チラリと視線を向けて労るしおりの様子に、灯はコクンと頷くことで返事を返した。
何だか身体に力が入らない。
「まあ。式の分際で生意気だこと。また、邪魔をしようというの?」
小夜の表情から笑みが消え、しおりを睨み返す。
だが、灯の意識の全ては、今聞いた小夜の言葉に集中していた。
式の分際―――――?
小夜の言葉がしおりに向けられていることに気づき愕然とする。
「ひょっとしたら、あなたの主人も近くにいるということなのかしら……。いいわ。今日は諦めるわ。でも、八神灯さん。……近いうち、あなたはきっと来ることになる」
小夜は再び余裕の笑みを取り戻すと、すれ違いざま、灯の耳元に唇を寄せた。
「それも、一人で。……でないと―――――」
声は小さかったが、それでもかろうじて聞き取れた。
小夜が遠くなるにつれて、恐怖が遠ざかり、思考が元に戻ってきた。
緊張が解けてホッと体中から力が抜けた瞬間、「灯ちゃん……」と声がした。
クラリとふらついた身体を、誰かが力強く支えてくれる。
視線を向けると、心配そうな海風の顔。
それを見たとたん、灯の瞳から急に涙が溢れた。
「や、もう大丈夫やから。灯ちゃん、……泣かんといてぇな」
仰天した海風がオロオロと慰めるが、堰を切ったようにポロポロと灯の涙は止まらなかった。
一つ年下の少女相手に、なぜあんなに緊張したのか、なぜあんなに恐怖を感じたのか分からない。
ただ海風の顔を見たとたん、すごく安心したのだ。
海風もその様子に、しばらくは気の済むまで泣かせてあげようと、そっと灯の背中を怪我をしていない左腕で包み込んだ。
灯の頭を自分の肩に凭せかけると、灯の嗚咽に合わせるように、背中をポンポンと優しく叩く。
やがて気持ちが落ち着いてくると、灯にも周りの音を気にとめる余裕が戻ってきた。
まだ、時刻も夕方近くの児童公園である。
海風の肩に顔を埋めている状況では視界はきかないが、人通りが全くないわけではないことは察せられた。
海風は相変わらず、優しく背中を撫でてくれている。
それは心地よいものだったが、同時に灯は海風との距離の異常な近さを自覚した。
恥ずかしさに頬を染めて、そっと離れる。
ふと視線を上げると、海風が見たこともないような優しい目をして、灯をじっと見つめていて―――。
キュンと胸の奥に、経験したことがない切ない痛みを感じた。
「もう大丈夫?」
「う、うん。ごめんね。海風くんの顔を見たら、ホッとして涙が止まらなくなっちゃって」
灯が涙の残骸を自分の指先でそっと拭う。
潤んだ瞳で微笑みかけられると、海風も平静な心持ちではいられなくなる。
頬が熱を持つのを、コホンと空咳で誤魔化した。
灯を間に、海風としおりと三人でゆっくりと家路を辿る。
「良かった、何もなくて。ホント灯ちゃんといると俺の寿命が縮むわ」
「ごめんね。海風くんには一人で行動したらダメだって注意されてたのに……」
「まあな。でも、この行動も予想の範囲内やったから。でも、俺も悪かった。紫苑の事を内緒にしてたし」
「しおりちゃんって……紫苑さんだったの?」
「……うん」
「そうだったんだ……」
“しおり”こと“紫苑”が心配そうな表情で灯を見上げていた。
安心させたくて、灯はニコッと微笑みかけた。
紫苑も小さく微笑み返す。
しおりが紫苑だと分かると、今まで不思議に思っていたことが納得できた。
見鬼だったこと。
近所に住んでいるような様子で、ずっと守るように、灯を家の前まで一緒に帰ってくれたこと。
小学生とは思えない敏捷な動作で助けてくれたこと。
だけど―――、
寡黙な少女が慕ってくれることが何だか嬉しかったのに。
兄しか知らない自分に、妹という庇護する対象ができたような気がして。
だけど、本当は主人に命じられて自分の前に現れただけだったのだと分かると、悲しかった。
海風にはそんな灯の心情がすぐに分かってしまうようだった。
「違うで。灯ちゃんの傍にいたいって、紫苑から言い出したんやから。俺が強制した訳ちゃうで。紫苑は式神や。ただの式とは違って自分の意思を持ってる。灯ちゃんの傍におったのは、紫苑が灯ちゃんを慕ってるから…理由はそれだけや」
「…ホント?」
灯の問いかける視線に、紫苑がコクリと頷く。
「そうそう。だいたい式神っちゅうんは字の通り神の眷属やから、紫苑に限らずプライドが高いんや。納得せぇへん命令なんて聞く耳持てへん」
灯の表情がみるみる明るくなった。
本当に分かりやすいと、海風は思う。
灯のその素直さ、分かりやすさが出会った頃は、心配の種だったのだが、今はむしろ好ましい。
ずっとこのままでいて欲しい、変わらぬように守りたいと思う。
「…ホント二人とも、ごめんなさい。また勝手に動いて、心配かけて…」
「灯ちゃんって、自分のことならそうでもないのに、他の人のためやったら無茶することがあるやろ? だから、性格上、毎日下校時に出会う女の子のこと、放っておかれへんやろなって思た。で、注意してたんや。前もって紫苑のこと、言っといたら良かったんかもしれへんけど、灯ちゃんはすぐに顔や態度に出るし。それはそれで賭みたいなもんやから躊躇ってしもた。こっちこそ、ごめん」
顔や態度に出ると言われれば、否定できない気がする。
でも、海風が自分を対等に思ってくれているのが、今は言葉や態度から伺えて、灯は嬉しかった。
「じゃあ、おあいこね」と灯が笑えば、海風も「そやな」と微笑み返す。
「ただ敵は俺の力のことも把握してるみたいや。負傷してる今を狙って、畳み込んでくる可能性が高い。だけど、俺や紫苑は絶対灯ちゃんを守るから。もっと信頼して、今日みたいに無茶なことはせんといて」
海風の真剣な表情に思わず、コクリと頷いてしまう。
それから、ふと小夜の言葉を思い出した。
『近いうち、あなたはきっと来ることになるわ。
それも、一人で。……でないと大事な人を失うことになるわ―――――』
あれはどういう意味なのだろう。
水木志樹のことも心配だ。
まるで危害が加えられているような物言いだった。
でも、ある事実に気づいて愕然とし、小夜の言葉の意味を噛みしめたのは、帰宅して自分の部屋に戻ったときだった。
着替えようとして、何気なく首元に手を持って行ったとき、本来あるべきものがない事に気づいたのだ。
我が身を守るお守りに海風から預かって、それこそ肌身離さず身につけていた水晶の勾玉。
安倍家で代々受け継がれているような、とても大切な宝玉がない。
灯は必死で心当たりを探したが、結局どこを探しても見つからなかったのだった。