三話
案内された薄暗い職員室は、インクと古い紙の匂いが充満していた。
先生は「少し待っていなさい」と言い残し、私のために他の先生方へ話を通しに行ってしまった。
一人残された私は、冷え切った自分の手を擦り合わせた。
机に綺麗に畳まれた服を広げて「うわ、モンペ」と呟いてしまった。
上は白いブラウスだったので、上着だけは特に問題なく着れた。
問題は、モンペだ。
生まれて十四年、テレビの歴史番組や祖母の昔話でしか聞いたことがない代物。ゴワゴワとした、お世辞にも肌触りが良いとは言えない地味な色合いの布地。
意を決して足を片方ずつ通し、腰の紐をぐっと結んでみる。
脱いだスカートのポケットからスマホを取り出してみるが、画面は相変わらず沈黙したままだ。画面に映る自分の顔は青ざめていて、まるで幽霊のようだった。
戦局、お国のため、モンペ。
先生が口にした言葉が、頭の中で何度も不吉なアラームのように鳴り響いている。もしここが本当に、私の知っている歴史通りの場所なのだとしたら、この学校は――。
「いや、ありえない。絶対何かのドッキリか、大がかりな撮影セットだよ」
自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。
カン、カンと朝の鐘が鳴り響き、職員室の扉が開いた。先ほどの先生が戻ってきて、私の肩を優しく叩く。
「鈴木さん。みんな集まっているわ。行きましょう」
私は長い髪を、持っていた黒い髪ゴムで慌てて三つ編みに結んだ。
それから連れて行かれたのは、朝日の差し込む広い校庭。
そこには、何十人もの女子生徒がわらわらと集まっていた。
彼女たちの姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
全員が私と同じようなを着ている。
髪はふたつにきっちりと結ばれ、お化粧っ気なんてまるでない。けれど、その瞳だけは朝日に反射して眩しいほどに澄んでいた。
「本日、本土のほうから諸事情により、急遽こちらに編入することになった生徒を紹介します。鈴木未明さんです」
先生に促され、私は一歩前に出た。
「あの子、本土から来たんだって」
「大変だったね、こんな遠くまで……」
ひそひそと交わされる言葉は、警戒や羨望ではなく、どこか同情と親近感の混じったものだった。
「す、鈴木未明です。よろしくお願いします……!」
頭を下げると、パラパラと、しかし温かい拍手が沸き起こった。
整列が解かれ、移動が始まると、私の隣に並ぶことになった同じ年頃の少女が歩きながら小さく声をかけてくる。
「鈴木さん、本土からは船で来たの?敵の潜水艦もいて怖かったでしょう。でも、もう大丈夫よ。一緒に頑張りましょうね」
その少女――私と変わらないあどけない笑顔を浮かべた彼女の言葉に、私はただ、引きつった笑みを返すことしかできなかった。
「あ、うん……ありがとう」
何に対しての「大丈夫」なのか。何を「一緒に頑張る」のか。
それを問い詰める勇気は、今の私には到底なかった。
校庭を埋め尽くす少女達の熱気は、私がいた現代の放課後のものとは、明らかに性質が違っていた。
お喋りの声は弾んでいるようでいて、そこは現代と変わらないな、なんて思ったりして。
私は、三班に組み込まれることになった。
「未明ちゃん、シャベルはここにあるのを使ってね。他にも天秤棒とかあるよ」
同じ班のアスカちゃんが天秤棒を担ぎながら、そう教えてくれた。
「うん、ありがとう」
差し出された鉄のシャベルを受け取ると、ずしりとした重みが手のひらに伝わってくる。
「去年は体育とかもあったのよ」
防空壕の方へ向かう途中、アスカちゃんが言った。
曰く、戦況の悪化で最近は部活も授業もないのだとか。
勉強は苦手だし、やりたくないなーくらいしか思っていなかったが、できないとなると無性にあの退屈だったはずの教室で机に向かいたくなってしまう。
防空壕の前に着くと、私達は持ってきた道具を使って穴を掘り進める。
時折、作業の合間に「昨日のおかずは何だった?」とか「あの先生の物真似、似てるよね」なんて言って、くすくすと控えめに笑い合う声が聞こえてくる。
その無邪気な笑い声だけを聞いていると、まるで現代の学校の、放課後の部活動の居残り作業か何かのようにも思えてしまう。
けれど、視線を足元に落とせば、そこにあるのは冷たい防空壕の入り口。
彼女たちが信じている「もう大丈夫」「お国のために頑張れば勝てる」という未来の先に、何が待っているのか。
歴史の授業で習った記憶が、残酷な答えを私の脳裏にチラつかせて、その日は作業に集中できなかった。
(みんな、こんなに一生懸命なのに。こんなに良い子達なのに……)
寮に戻ると畳が敷き詰められた大部屋には、すでに何人かの同級生たちが戻っており、隅の方に固まっていた。
「どうしたの?」
アスカちゃんに声を掛けてみると、「いやぁ〜、なんも〜」と明らか様に目を逸らされてしまった。
「あ、水筒!未明ちゃん、壕の方に水筒を忘れてきちゃったから、取ってきてくれると嬉しいなーなんて.....」
あからさまに話を逸らされ、さらに頼み事までされて、私は一瞬きょとんとしてしまった。
部屋の隅にいる他の子達も、どこかハラハラした様子でこちらの出方を窺っている。
「……あ、うん。いいよ、見てくるね」
あからさまに「ここから遠ざけたい」という空気が伝わってきたけれど、転校生(それも八雲さんの嘘のせいで転がり込んだ身)の私がここで頑なに居座るのも気まずい。何より、彼女達がそこまでして隠したい「何か」に、これ以上踏み込むのが少し怖かった。
「本当にごめんね!」
アスカちゃんの申し訳なさそうな声に背中を押され、私は今戻ってきたばかりの薄暗い廊下へと引き返した。
外に出ると、夕暮れの赤い光が長い影を作っていた。
ついさっきまで大勢の生徒が作業していたはずの防空壕の周辺は、今はひっそりと静まり返っている。昼間の熱気が嘘のように、ひんやりとした風が通り抜けていった。
(水筒、水筒……)
地面に目を落としながら歩き、三班の作業場所だった木の根元に向かう。
すると、言われた通り、古びた金属製の水筒がぽつんと草むらに転がっているのが見えた。
「あった……」
しゃがみ込んでそれを拾い上げた時、ふと、背後の防空壕の暗闇から、カサリと乾いた音が聞こえた。
心臓がドクンと跳ねる。
まさか、誰か残っているのだろうか。それとも――。
「未明ちゃん」
背後から聞こえて来た声に、私は立ち止まった。
かすかな安堵と驚き、そしてふつふつと込み上げる怒り。幾多の感情を胸に、私は振り返った。
「やぁ、昨日ぶりだねぇ。元気だったかい?」
「八雲さん……っ!」
昨日と同じ燕尾服に身を包んだ八雲さんが、立っていた。
初めて会った時と同じ、人畜無害そうな顔をして、今からマジックでも始めるかのようにシルクハットを取って深々と一礼する。
「うんうん、元気そうでなによりなのだよ。僕もここに来れば未明ちゃんに出会える気がして―――」
よくもまぁ、こんなニコニコしながら現れることができたものだ。
人をこんな訳分からない時代に飛ばした挙句、学校では置き去りにして逃げてしまった所業を忘れる訳もなく。
「私を元の時代に返して!」
言いたい文句は山ほどあったが、単刀直入に用件をぶつけた。とにかく一秒でも早く、この状況から離脱しないと話が進まない。
「まぁ、僕も君を巻き込んでしまったことに罪悪感は抱いているよ。だから一刻でも早く現代に変えられるように尽力するつもりなのだよ」
やっぱり八雲さんは現代に帰れる方法を知っている。
「ただ、今すぐという訳にはいかない。用意とか準備とか色々しないといけないからね」
「準備って……何が必要なんですか?」
私はすがるような思いで問い詰めた。
八雲さんは人差し指をチチチ、と左右に振り、もったいぶるように目を細める。
「タイミングなのだよ。そうだなぁ、帰れるとしたら六月下旬くらいなのだよ」
「なっ……」
私の脳裏には、歴史の授業で習った記憶が鮮明に蘇っていた。
確か、沖縄で激しい地上戦が始まるのは、春が深まる頃からだったはずだ。六月下旬なんて、そんなの、この場所が一番激しい戦火に包まれている時期じゃないか。
「そんな時期までここにいたら、私だけじゃなくて、アスカちゃん達だって……」
恐怖と焦りで呼吸が浅くなる私を見て、八雲さんはいつものおどけた態度をすっと引っ込めた。片眼鏡の奥にある瞳が、夜の帳が下りる一歩手前の、深い紫色の空と同じ色をして私を見つめる。
「分かっている。分かっているのだよ、未明ちゃん。君が何を恐れているのかも、この先に何が起こるのかもね」
彼の声から、いつもの芝居がかった軽さが消えていた。
「君は絶対に死なないのだよ。それは僕が保証しよう」
「保証するって、どうやって……!? 弾が飛んできたらどうするの!?」
詰め寄る私の声を遮るように、八雲さんは人差し指をすっと自分の唇に当てた。
「それは秘密。簡単にネタバラシをしたら奇術の意味がないのだよ」
他人事のように言われ、飛び蹴りしてやりたい気持ちをなんとか堪えた。とにかく、まずは六月下旬まで生き残ることが最優先だ。仕返しは現代に帰ってからでも遅くない。
「そう悲観しないで。君がここに来た意味があるかもしれないじゃないか」
―――意味?
それこそ言っている意味が分からず、首を傾げる。すると、八雲さんが後ろ足で私から離れていく。
「じゃあ、気が向いたらまたおいでよ。僕はこの辺をウロウロしておくから」
「あちょ、待って……!」
私が言い終わる前に、強い風が吹いて私は目を瞑ってしまう。
パッと目を開けた時には、八雲さんの姿は見えなかった。
マジックのような早技で、一瞬にして消えてしまった八雲さんに、私は呆然と突っ立っていることしかできなくて。どれだけ暗闇に目を擦っても、何度も名前を呼んでも、返ってくるのは遠くから響く波の音だけで。
(いつの間にこんな暗くなったんだろ……)
空は夕暮れから星が見える夜に変わっている。
とにかく、長居をしてこれ以上アスカちゃん達に心配をかけるわけにはいかない。
私は気持ちを切り替えるように強く一歩を踏み出し、寮へと踵を返した。




