第四十八話
「…あ」
ふと呟かれた声に、ぼんやりする頭で振り返った。
黒い衣を着た侍女に湯浴みをさせられ、全身を清められた後で、真っ白な絹の装束を着せられ、頭には鈴があしらわれた冠をつけている。
頭を動かすたびに、シャンシャンと鈴が鳴る。
銀糸の刺繍で彩られた黒装束を着た青年が、微笑んでいた。
「湊が、還ってきた」
「…?」
首を傾げる五十鈴に、青年は嬉しそうに笑う。
「鈴ちゃん、綺麗だよ」
座っていた椅子から立ち上がり、両手を広げて歩んでくる。
逃げ出したいのに、体が言う事を聞かない。
いや、何故逃げる必要があるの?
いいえ、ここにいてはいけない。逃げ出さなきゃ…。
まとまらない考えに、ぞわぞわと、肌が粟立つ。
青年の腕の中に囚われた。
抜け出せない。逃げ出したい。いえ、ここにいなくちゃ。
「もうすぐ、儀式の準備はすべて整うからね。もう少し、待っていてね」
にこにこと笑う青年に、五十鈴は頷く。
いや、違う。行かなきゃ。
どこへ?私はここにいるのよ。
きっと向かってきてる。ここで待っていればいい。
誰を…?
動揺に揺らめく五十鈴の視界に、二人の屈強な男の姿が映った。縛られた人々を荷物のように担ぎ、建物から運んでくる。
祭壇前で焚かれている黒い炎の中へ、担いでいた人を投げ入れた。黒い、瘴気のような煙が立ち上る。
助けなきゃ…!手を伸ばそうとする。
「何を考えているの?」
柔らかい声に、思考が縛られる。
ダメ…!私じゃ届かない。早く…早く来て…!
「誰の事を、考えているの?」
「…ぁ…」
白い指を顎にかけられ、上を向かされる。
黒曜の瞳が絡みつく。
「んー…、紅の色は、もう少し淡い方が、可愛いかなぁ?」
呟いて、五十鈴の体を腕に閉じ込めたまま、青年が振り返る。
「ねぇ、お化粧を担当したのは誰?」
問いかけに、後ろに控えていた黒ずくめの一団の中から、侍女が一人進み出た。
「わたくしでございます」
「うん、じゃあ、君はもう要らない」
そう言って、青年が軽く指を振ると、侍女の首が飛んだ。
ゴトリ、首が落ちる音が響く。
控えていた者たちが、飛び散った血を拭き、落ちた頭を拾い、侍女の遺体ともに祭壇の黒い炎に放り込んで、何事もなかったかのように立ち位置へ戻った。
「僕のお嫁さんに似合うお化粧をできないなんて、ダメだよねぇ」
親指で五十鈴の唇に乗せられた赤い紅を優しく拭い、別の侍女に化粧箱を開けさせる。
「そう、その真ん中の、薄い桃色」
侍女に指示し、抱きしめたままの五十鈴の唇に淡い色を乗せさせる。
化粧を終えた侍女が下がると、青年は五十鈴の顔を覗き込み、満足そうに頷いた。
「うん、よく似合うね」
微笑まれると、体に力が入らない。
怖くてたまらないはずなのに、青年の顔から目が離せない。
逃げたい。いいえ、逃げる必要なんてない。
繰り返される思考の波に、溺れてしまいそうだった。
「ねぇ、鈴ちゃん。僕の名前を呼んで」
とろけるような瞳で、青年が言う。
「鈴ちゃんに名前を呼んでもらえたら、僕、もっと強くなれる気がするんだ」
「…ひび、き……」
五十鈴の答えに、青年ーー響は心の底から幸せそうな笑顔を浮かべた。




