第四十話
飛び出した先には、滝壺が見えた。竜神の住処と伝わる、仙北山頂の滝壺。
その住処の前に据えられた御神座と、向き合うように設えられた祭壇。
見たこともないような黒い炎が、至るところに掲げられていた。
「…っ!これは…」
禍々しい空気が広場を包んでいる。竜神の神域とは思えない黒々とした雰囲気に、知らず、後ずさる。
とん、と何かに背中がぶつかった。
ハッとして振り返ると、とろけるような黒い瞳と視線が絡んだ。
「どこに行くの?」
それはそれは優しい、穏やかな、聞く者の心に染み入るような、声だった。
「……っ!」
距離を取ろうと身じろぐ五十鈴の肩に、両手が置かれる。
「っ離して…!」
「ああ、やっと声が聞けた。嬉しいなあ。ずっと会いたかったんだよ」
会いたかったという言葉に、五十鈴の抵抗が止まる。恐る恐る、視線を上げた。
「…?だれ…?」
首を傾げる五十鈴の顎に、白い指がかけられる。
何かを確かめるように五十鈴の顔を覗き込み、嬉しそうに頷いた。
緩く編んだ黒髪を横に流し、黒曜の瞳を煌めかせたその青年は、ゆっくりと五十鈴の纏う外套を脱がせた。
「僕は平気だと思うんだけどね。湊がうるさいから。ごめんね」
五十鈴の修練着の胸元が開かれ、懐に潜ませていた物が取り出される。
「護り刀と、呪符。これは預かるね。儀式が終わったら返すよ。あとは…」
青年の視線が、青い小石に注がれた。
「これは、要らないね」
「やめて…っ、返して…!」
地に投げられる、東家の守り石。
「これも、無粋かなぁ」
五十鈴の髪を隠していた麻の帽子が取られ、青い花の飾りがついた簪に青年の目が止まる。
「せっかくの綺麗な髪を隠していると思ったら、こんなモノも身に着けていたんだね」
白銀の髪から、簪が抜き取られる。黒い炎に照らされて、五十鈴の髪が輝く。
簪の先を、地面に転がせた青い小石に突き刺した青年の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
ひび割れた、守り石。
「…ぁ……」
「これは、僕からの贈り物。今日からは、こちらを身に着けていてくれると嬉しいな」
囁くようにそう言い、青年の手が五十鈴の首元に伸ばされる。
「…っ!」
カシャリと小さな音を立てて、五十鈴の首に何かが巻かれたようだ。
ぐにゃり、と視界が歪む。五十鈴の首で、黒い花を模した首飾りが揺れていた。
「ああ、よく似合うよ」
微笑む青年は、本当に嬉しそうだ。
それが気色悪いと思うのに、抵抗できない。抵抗する気が起きないのだ。
頭の奥に靄がかかっているようだ。
「これはね、母様の形見の首飾りなんだ。母様も、父様から贈られたんだよ」
にこにこ、と形容するのが正しいような、無邪気な笑顔。
恐怖で身が竦みそうなのに、青年の顔から目が離せない。
「もう、こんなモノも要らないね」
青年が、五十鈴の手枷の鎖に手刀を入れると、絹糸のようにあっさりと、鎖が切れた。




