第二十九話
一方の男部屋。
駿河のにやつく顔が、視界にちらつく。
「…うるさい」
「何も言ってないぞー」
「視線がうるさい」
村長の屋敷の客間であろうこの部屋に、今夜は泊まる事になった。そう何度も使う事はないだろう部屋は、華美な家具のない、質素な部屋だった。
粗末な寝台に腰を下ろし、陽向は大きく息を吐き出した。
『…衣を脱がせて…』
楓の言葉とともに、こちらを見つめていた五十鈴の瞳を思い出す。
いや、今思い出してはダメだ。
明日には出発だというのに、眠れない夜を過ごす気か。
自身に必死に言い聞かせながら、心を落ち着かせようと目を閉じる。
すると、唐突に五十鈴の寝顔が脳裏に浮かんできて慌てて目を開けた。ガバっと立ち上がる。
「おわっ!…何だぁ?どうした?」
立ち上がった陽向に驚いたのか、矢の確認をしていた駿河が素っ頓狂な声を上げる。
「ちょっと…走ってくる」
「はあ?今からか?」
「先に寝てていいぞ。ちょっと頭を冷やしてくるから」
陽向の様子に、駿河が小さく笑う。
「それ、走るくらいで落ち着くのか?」
「…っ」
にやにやから、幼馴染としての優しい笑顔に変わった駿河が、肩を竦める。
「あれは、まあ、ちょっとした楓の意地悪だな。忘れろ」
「意地悪?」
「五十鈴の看病を、楓に譲らなかっただろ?本当なら、女同士、楓が五十鈴に付きたかったんだと思う。けど、癒しの術は水の力だから、お前に任せたんだ」
南家の刻印の入った矢をすべて矢筒に収め、駿河が陽向を見つめた。
「明日からまた、危険な道のりになるんだろう?今夜くらいは、楓に譲れって、部屋から追い出す為にあんな事言ったんだろ」
「あー…」
言われてみれば、【結ノ里】にたどり着くまでの間も、何やかやと五十鈴の面倒を自分が見てしまっていた気がする。
同い年ではあるが五十鈴の事を妹のように可愛がっている楓には、面白くなかったのだろうか。
ふうと息を吐き、再び寝台に腰を下ろした。
五十鈴に渡した東家の守り石は、きちんと彼女を護ってくれるだろうか。
今の自分に出せる最大の神通力で、祈りを込めた青い小石。
仙北山に、どんな危険が待っているかわからない。
登山口の戦闘跡も、山頂の火の手も、都から来た役人もこの村の大人たちも。
気にかかる事ばかりだ。
どんな異変があっても、五十鈴の事は守り抜く。
窓から見える月に向かって、陽向は心に固く誓ったのだった。




