第十九話
華美さはないが堅牢な黒い外壁の屋敷へ、五十鈴を抱えた陽向が慎重に足を踏み入れる。
気配を探ってみても、自分たち以外の存在は感じられなかった。
少年の先導で、一番奥の部屋へと入り、五十鈴を寝台に横たわらせる。
額に手を当ててみると、酷い熱だった。一体どうしたというのか。
眉間の皺を深くする陽向に、少年が手ぬぐいを差し出す。
「汗、拭いてやれよ。ちゃんと清潔な布だ」
戸惑いながらも、受け取る陽向。
「…ありがとう」
「あんたたちから、敵意は感じない。信用はしないけど、話を聞いてくれて嬉しかったから。
…最初に石投げて、ごめん」
視線を下げる少年に、五十鈴の汗を拭いながら陽向も表情を緩めた。
「こちらこそ、話を聞かせてくれて、この屋敷も貸してくれてありがたい。
そう言えば、まだ名前も聞いてなかったな。お前の名は?」
「…玄カガチ…」
初めて名乗った少年に、陽向は目を見張った。
「カガチ…」
「この村で生まれた子供は、みんなカガチの名を持ってる。外の人間には奇異に聞こえるんだろ?けど、遥か昔から、竜神様の眷属であることを示す大切な名前だからって、受け継がれてきたんだ。
単にクロでもいい」
「そうか…。
俺は、今は水の君と呼ばれてる。真名を教えてやりたいんだが、俺の一存では決められない」
すまなそうに頭を下げる陽向に、玄カガチは首を横に振った。
「気にすんなよ。まだ、敵か味方かお互いわからないんだ。その人が目を覚ますまで、あんたも少し休みなよ。酷い顔色だ」
そう言って、少年は部屋を出て行った。
室内に残された陽向は、ふうと一つ息を吐き、寝台の五十鈴に視線を戻す。
苦しそうな呼吸を続けている。
小さい頃から見てきたが、こんな状態の五十鈴は初めて見た。
倒れる前、何か呟いていた。
『…待って…行かないで…』
泣き出しそうな、消え入りそうな声だった。
何か聞こえたのか、何か見えたのか。
この旅の間、いや、それ以前から、五十鈴が何かを胸に抱え込んでいる事には気づいていたのに。
陽向には話せない事だったとしても、それでも、倒れるほど苦しんでいるなら少しは弱音を聞かせてほしかった。
親方様と奥方様が亡くなった時でさえ、気丈に振る舞っていたのに。
頭を振り、陽向は寝台の枕元に跪いた。
美しい髪を隠してきた、麻の帽子をそっと脱がせて楽にしてやる。
胸の前で指を組み、小さく呟いた。
「この地に残る水の精霊よ、我が呼びかけに応え、力を貸し給え。…水膜」
五十鈴の頭上に、手の平ほどの大きさの水の膜が浮かび上がった。そっと、五十鈴の額へと下ろしていく。
肌が濡れないように、膜との間に先程の手ぬぐいを置いた。
「これで、熱が下るはずだ。あとは…」
荷の中から水筒を取り出す。東家の呪符が貼られた、中の水が枯れない水筒である。
水不足の現在、旅の必需品だった。
水筒から指先に少し水を取り、五十鈴の唇にそっと触れる。
ほんのりと湿らせた唇が薄く開いた。
水筒から一口水を含み、陽向は五十鈴の唇に自分のそれを優しく重ねた。
コクリ、と五十鈴の喉が鳴る。
無事に水を飲んでくれた事に安堵し、陽向は深く息を吐いた。




