表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふくとアクア部の日常  作者: たんすい
第2章:変わってる私が好きになったもの
9/63

秘密のカタログと赤い記憶

 ガラッと部室の引き戸を開けると、静かな水音と午後の柔らかな日差しが私を迎えてくれた。

 昨夜の高揚感はまだ胸の奥に残り、じんわりと熱を帯びている。


 窓辺では、海月先輩がいつものように何かの作業をしていた。


「先輩、来ました!」


 期待を込めて少し大きめの声で呼びかけると、先輩はゆっくりとこちらを振り返る。


「なんだ、そんなにそわそわして。何か用?」


 一瞬、何を言われたのか分からず、きょとんとしてしまう。

 そんな私を見て、先輩は口の端をわずかに上げた。

 からかっているのが分かって、顔がじわりと熱くなる。


「えっ、いや、あの……

  昨日のメッセージで、先輩が……その、渡したいものがあるって……」


 しどろもどろになりながら言うと、先輩は「ああ」とわざとらしく頷いた。


「それか。ちゃんと覚えていたんだな」

「もう! 忘れるわけないじゃないですか。ずっと楽しみにしてたんですから!」

「はは、悪かった」


 先輩は軽く笑いながら、足元に置いてあった段ボール箱に手を伸ばした。

 中から取り出されたのは、A4サイズの薄い冊子だった。

 派手さはないが、洗練されたデザインの表紙に思わず目を奪われる。


「これって!」


 『世界の淡水フグカタログ』と、落ち着いたフォントで記されている。

 背景には、多種多様なフグの写真がレイアウトされていた。


「フグ専門のカタログなんてあるんですね! 嬉しい!」


 思わず感嘆の声が漏れる。

 ページをめくると、美しい写真と共に一匹一匹の紹介が簡潔にまとめられていた。

 まるで、フグたちのプロフィールブックのようだ。


「アベニーパファーはいますか!」


 期待に胸を膨ませながらページをめくっていくと、すぐにお目当ての子を見つけた。

 淡い黄色の体に、黒い斑点が愛らしいアベニーパファー。


「いました! やっぱり、すごく可愛いです!」


 しかし、名前の下には見慣れないアルファベットが記されている。


「先輩、この『Carinotetraodon travancoricus』って何ですか? 英語の名前?」


 目を輝かせて尋ねると、先輩は満足そうに口元を緩めた。


「いいところに気づいたな。それは学名だ。

 カリノテトラオドン・トラヴァンコリクスと読む。

 世界中の研究者が使う正式名称だよ。ラテン語由来だから、呪文みたいだろ?」


「呪文。本当ですね、なんだか異世界みたいです」


 カタログをぎゅっと胸に抱きしめる。


 ページの向こうに、知らない水の世界が広がっている気がした。

 見たこともない魚たちが、ラテン語の名前をまとって静かに泳いでいる。

 まるで秘密の図書館に迷い込んだみたいだ——扉を開けたばかりの、冒険の予感。


「アベニーパファーというのは、俺たちが使う通称、いわゆる流通名だな」

「流通名?」

「ああ。店や輸入業者が分かりやすいようにつける、ニックネームみたいなもの。

 ふくがショップの店長になったら、好きに名前をつけていいんだぞ」


「そうですね。私が店長なら……『まめパファー』にします!」


「まめか。アベニーパファーに相応しい。いい名前じゃないか」


「でしょ、褒められちゃいました」


 思いがけない言葉に照れていると、先輩が付け加えた。


「ちなみに、海外だと『pea pufferfish』、

 つまり『エンドウ豆フグ』って呼ばれてるんだ。

 ふくのセンス、案外世界標準かもな」


「え!? 私、すごいじゃないですか!」


 私はすっかりカタログに夢中になっていた。


 アベニーパファーの故郷は南インドのケララ地方。

 流れの緩やかな川に棲んでいるけれど、隠れ家を十分に用意しないと縄張り争いを始める、気の強い一面もあるらしい。


 自分のテリトリーを主張する姿が目に浮かぶようで、自然と笑みがこぼれた。


 さらにページをめくっていると、ある写真に視線が釘付けになった。


「あっ」


 そこにいたのは、部員募集のポスターで私の心を鷲掴みにした、赤い目と虎模様のフグ。


「先輩! この子です! ポスターの子!

 サリバトールっていうんですね」


 少し上ずった声で言うと、先輩は静かに頷いた。


「ああ、そうだ」


 その声には、先ほどまでの楽しげな響きがなかった。

 どこか遠くを見ているような、痛みを堪えるような響きだった。


「本当にこの部に、いたんですね。サリバトールが……」


 先輩が「もうここにはいない」と寂しそうに言ったこと。

 部室の隅にある、傷だらけの水槽。


 バラバラだったピースが、頭の中で繋がり始めていく。


(どうして、いなくなってしまったんだろう?)


 聞きたい。

 でも、先輩の横顔に落ちる影が、それを許さない雰囲気だった。


 それでも、知りたいと思ってしまった。

 この部の秘密を。

 凛さんが部を去った理由を。

 そして、この美しい虎のフグの物語を。


 私はごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めた。


「先輩。どうしても、知りたいんです。教えてください」


 私のまっすぐな視線を受け止め、先輩はしばらく黙っていたが、やて諦めたように小さく息を吐いた。そして、静かに語り始める。


「……これは、ふくがアクア部に入る、数か月前の話だ」


 海月先輩が語り始めたのは、

 一人の親友と、フグを巡る、哀しい記憶の物語だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ