家族との絆と私の「好き」
家に着く頃には、すっかり夜になっていた。
「ただいまーっ」
「彩花、おかえりなさーい! ……あら、今日は遅かったわね」
キッチンから甘く香ばしいパンの匂い。
リビングでは、お父さんがノートパソコンと格闘していた。
「お父さん、また動画編集?」
「ああ。今度は『真夏の怪魚ハンティング』でな。サムネイルのフォント、どっちがいいと思う?」
お父さんは釣りYouTuberとして、登録者3万人を抱えている。
子供の頃、私はお父さんの大きな背中を、雛鳥みたいについて歩くのが大好きだった。
田んぼの脇を流れる小川で、泥んこになってエビやメダカを探した。
「お父さん、見て! すごいのが、ここにいるの!」
泥だらけの手のひらで宝物を見せると、お父さんはいつも優しく笑って、
私の頭をくしゃりと撫でてくれた。
――でも、いつからだろう。
制服のスカート丈を気にし始めた頃から、
私は「好き」を恥ずかしい秘密のように隠すようになった。
それでも、お父さんとの釣りだけは、なぜかやめられなかった。
静かに水面に釣り糸を垂らす時間。
そこは、息苦しい教室から解放される、私だけの聖域だった。
「彩花ー、ご飯できたわよー」
お母さんの声に、ダイニングテーブルに着く。
湯気の立つシチューと、温かいパンの優しい香り。
「それで、彩花。今日学校で、何かいいことでもあったの?」
お父さんの何気ない問いかけに、私は一瞬ためらった。
でも、今日の出来事――アクア部のこと、海月先輩のこと、そして凛さんのこと。
それを話したい、という気持ちが自然に溢れてきた。
「……あのね。私、部活に入ったんだ」
お父さんがスプーンを止め、お母さんが驚いたように顔を上げる。
「部活? 珍しいじゃないか。運動部か?」
「ううん。アクア部っていうの」
「アクア……?」
「水槽でね、熱帯魚を飼うの」
私の言葉に、お父さんの目がきらりと光った。
「熱帯魚! 俺も昔、飼育してたぞ! ガーってワニみたいなやつ」
「ワニ!? そんなの怖すぎるよ……私は、指先くらいのちっちゃいフグを飼うことにしたの」
「フグ? 淡水にフグなんているのか!」
お父さんが身を乗り出す。その反応が嬉しくて、私も笑顔になる。
「アベニーパファーっていう、すっごく小さな子なの。
淡い黄色の体に、黒い斑点があって……言葉にできないくらい可愛いんだ」
「へぇ! それ、YouTubeのネタになるな! 『激レア淡水フグ釣りに行ってみた』とか!」
「無理だよ、外国の魚だもん。しかも指先くらいしかないんだから」
そのやり取りを見て、お母さんがふっと笑った。
「彩花は、本当に子供の頃から生き物が好きだったものね。
泥だらけになって、小さな虫かごを抱えて帰ってきたこともあったでしょう?」
お母さんの声が、じんわりと胸に染みた。
「でもね……彩花。あなたが、そんなに楽しそうに話すのって、久しぶりな気がするわ」
その言葉に、息が止まる。
「中学に入ってから……あんまり、そういうお顔、見せてくれなかったもの」
お母さんは、全部気づいていたんだ。
私が「好き」に蓋をしていたこと。
心からの笑顔が消えていたこと。
胸の奥で凍っていた何かが、ゆっくりと溶けていく。
「お前が心から好きだと思えることを見つけたんなら、それでいいさ」
お父さんが、ぶっきらぼうに、でも優しく言った。
「フグだろうがカエルだろうがな。生き物と向き合うってのは、悪いことじゃない」
その言葉が、私の背中を強く押してくれた。
「……ありがとう、お父さん、お母さん」
気づけば、涙が一筋、頬を伝っていた。
* * *
その夜、ベッドに潜り込んでも、なかなか眠れなかった。
スマホの画面に、海月先輩からのメッセージが光っている。
『明日、部室で渡したいものがある』
一体、何を渡してくれるんだろう。
期待で胸がいっぱいになって、枕に顔をうずめる。
(……明日が、待ちきれない)
そして、ふと思う。
凛さんは、今頃どこで何をしているんだろう。
あの翡翠色の瞳に映っていた、深い痛みの正体は何なんだろう。
海月先輩が取り戻したいと願う、「あの頃のアクア部」って、どんな場所だったんだろう。
――私は、その答えを知りたかった。
そして、もしかしたら。
「変わってる」と言われ続けた私が、その答えを見つける鍵を持っているかもしれない。
そんな予感がした。
窓の外に広がる夜空を見上げながら、
私は静かに目を閉じた。
明日から、また新しい物語が始まる。




